第9話 迫る陰
お市達がああだこうだと言いながら、草津へと着こうとしていた丁度その頃。
善光寺へ続く街道沿いにある、お市達がおにぎりを食べ団子を買い求めた茶屋の女主人は、首をすくめながら軒先に塩を撒いていた。
他人から「本当に爪の垢に灯を点しているのでは」と言われるほど大が付くほどのケチの割に、随分と豪儀な撒きっぷりであった。
怪訝な表情で、ちょいちょい顔を出す、馴染みの商人が声をかけた。
「おい、おい。一体どうなすったんだい。ここいらじゃあ高値の塩を、そんな豪勢に撒くだなんて、お前様らしくも無い」
「ああ、アンタかい。もうちょいと待っとくれ」
そういうと、また叩きつける様に地面に塩を撒いた。
「こりゃあ、よっぽどの事だな」
「さっきまで、目付きの悪い、浪人を装った侍連中に脅されてたんだよ」
「浪人を装うとは又奇々怪々な話だな。そういう事なら真っ先に番屋だ。塩を撒いている場合じゃあ無いだろうに」
「擦り切れていない着物に、黒光りする綺麗な鞘にやっ刀を納めて、態々浪人者の恰好をしている様な連中だよ。番屋のくたびれた下っ引き何ぞ、役に立ちやしないよ」
流石に長年、街道沿いで茶屋を営む女である。
それなりに、肝も据わっているし、人を見る目も備わっている。
「そいつらがさ。それはそれは居丈高に、こいつを寄越したのさ」
そう言って、胸元からクシャクシャになった書付を取り出して商人に手渡した。
「えーと、どれどれ。馬を連れた小娘に元服前の小僧と、爺さんに年増女の町人の四人組か。普通も普通、真っ当そうな面じゃないか」
「何だかは知らないけどねぇ。其の人たちが心配だよ。あんな宜しくない目付きの、危なそうな連中に、追い回されてるんじゃあねぇ」
女主人は塩の入った壺をしまうと、商人へお茶を出した。青竹の湯呑である。
商人は笑顔を浮かべ一息つくと、
「やっぱり、此処はこうで無いと」
満足気に香りを嗅ぎながら、お茶を啜った。
「それで、その侍連中は、そんなに危なそうな奴等なのかい」
「其のいけ好かない二本差しの連中は、刀に手を掛けながら、あたしをきっと睨んでさ。そいつを押し付け、態々血のこびりついた首桶を見せびらかしたのさ。けったくそ悪い。やり方がどこぞの役人みたいだよ」
首が伸びたのかと思う位深く頷いて、吐き捨てる様に言った。
「そいつはつまり……」
ごくりと商人は唾なのか茶なのかわからないが飲み込んで、首を手でさすった。
肝っ玉の座った茶屋の女ではあるが、威勢よく毒づいていても、顔色は青ざめている。恐怖の色を隠しきれないのだ。
商人の男は其れを見て、人の良さそうな顔に、心配げな表情を浮かべて、優しく話した。
「成程、無茶は出来ねえな。これから丁度街道を上るから、代官所のお役人に話してみるよ」
「本当かい。済まないねえ。よろしく頼むよ。気味悪くってさ」
女主人は済まなそうにぺこりと商人に頭を下げる。
「おいおい。よしてくんな。困った時は相見互いだろ」
商人もいい笑顔で応えると、立ち上がって、外へと向かうその途中に、振り返り何気なく問うた。
「それはそうと、その手配書みたいな書付のお歴々は実際、通ったのかい」
「ああ、その人たちは、此処でお茶を飲んでから、善光寺へと向かって行ったよ。良さそうな人達だった。あいつらには知らないって言っておいたけどね。お役人様にはしっかりと伝えておくれよ」
「あいよ。分かってるって。女将さんも気を付けて、な」
殊勝な事を口にしつつ茶屋を後にした商人であったが、街道へ歩みを進める其の顔には、愛想がいいとは程遠い表情を浮かべていた。
「善光寺か。安兵衛の一件に、代官所の侍が絡んでいると考えつく位の頭はあるようだ。しかし、使えねえ三一共だ。しょうがねえ……」
商人らしからぬ目つきを一瞬したが、直ぐに人好きのする表情に戻ると、善光寺の方向へ歩みを進めた。
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