第4話 人と景色と優しさと
お市も藤次郎も、言葉は少なく足取りは重く、帰路についていた。
殊にお市は今度の安兵衛の騒ぎの一件に、自分が発端であるにも関わらず、何の手助けもできない自分に腹を立てていたので、ツンとした唇がむっとしたままだ。
「お嬢。何を考えこんでんだい」
辰吉がそれとなくお市に水を向ける。
お市はピタリと足を止め、長い睫毛をしばたくと、愁いを帯びた目で辰吉を見た。
「辰じい。あたしが子供だから……何にも出来ないのよね。もし、大人だったら、もっと大人だったら、安兵衛親分やお豊さんの力になれたかもしれないのに……」
そうかい。そう思ってくれているのかい。
こうすれば、ああすれば良かったじゃあなく、地に足つけて、明日を見ているのかい。兄い。見ていなさるか。自慢の孫娘はこんなにも立派に、育っていなさる。
「辰じい、辰じい。どうかしら」
お市の声に我に返ると辰吉は、それは優しくお市に告げた。
「ああ、そうだな。鬼安の親分は人一倍怖い。それには理由がある。それは、誰も自分のせいで傷つけたく無いからだ。だから、お嬢が大人で、若侍で、やっとうの達人でも、結果は追い帰らされていたよ」
「そうなんだ。でも、何か何かできたかもしれないし……」
悔しそうに唇をかむお市に、藤次郎が言葉厳しく声を掛けた。
此処で釘を刺しておかないと、何をするか分からない。
「姉さん。安兵衛親分さんにとって、おいら達二人は抱える荷駄だよ。そして護る荷駄が増えれば人手も見る目も割かなければならなくなる。居るだけ無駄さ」
「だったら、せめて、辰じいだけでも残って貰って、帰りはあたし達だけで――」
「辰吉さんの立つ瀬を分かっているよね。姉さん」
「……うん。そうよね。辰じい、藤次郎、我儘言って御免なさい」
辰吉は二人のやり取りを、嬉しくそして頼もしく聴いていた。
「謝ることなんざぁ、何にもないさ、お嬢。二人の心根はようく分かった。だから、お嬢の気持ちも藤坊の気持ちも汲んで、この俺がきっちりお節介を焼くから、二人ともすっきりしねえ想いを俺に預けちゃあくれねえか」
お市も藤次郎も「はい」と性根を据えた返事をする。
黒丸はきょとんとしながら、わんと答え、アオは不愉快そうに、ぶるると鳴いて、皆が動きだすのを待っていた。
気に掛けていたような心配事は何も起こらず、道中無事に、おつかわし屋へ戻っていた。
気持ち以外は、実にのんびりとした帰り旅であった。
ただ、一つ失念していたことがある。
絵草紙の件だ。
お市と藤次郎は、家に着いて一心地ついた頃、呼び出され、綺麗に磨き上げられた板の間に連なって、神妙な面持ちで正座していた。
お市にしては珍しく、俯き加減で目線を上げようとすらしない。
「お市。もう一度言います。最初から事の次第の全てを私の眼を見ながらお話しなさい」
目の前には、涼し気な水流れの紋様の着物をきっちりと着つけ、艶やかな黒髪を派手ではない柘植の櫛で纏めただけなのに、余計に美しさが際立ってしまっている、実に華やかな雰囲気の女性が座っていた。
母のお福である。
若い時は何とか小町とか呼ばれ、人目につくどころか界隈で評判になるほどの美人であり、今でもその輝きが衰える事は無い。
その姿を一目見たいが為におつかわし屋に客が来る、と囃し立てられる程であった。
お市も実の母親ながら、将来のお手本と決め込んでいるのだが、今はいただけない。
「辰じい……辰吉さんがすっかり話した筈だから、今更話さなくても……」
俯いたまま話すお市は援軍が欲しくて、肩で隣に座る藤次郎を突いた。
だが、藤次郎は目を瞑ったまま無反応で、口元がぶつぶつ何かを言っている。
(また……何とか先生ね)
旗色が悪いのだ。どう考えても負け戦である。
藤次郎は努めて冷静でいられるよう、何かあると、頭の中で孫子か論語を読み上げる。
お市の幼馴染で若女中のお花が、あらあら御気の毒という表情で、苦笑を浮かべながら通り過ぎて往く。
「先程も申しましたが、辰吉さんは関係ありません。貴女の口から訊いておきたいのです。ささ、お話しなさい」
お福の前には何処で手に入れたか、絵草紙が丁寧に折り畳まれて置いてある。
藤次郎の言う繕いようのない、云わば確たる証拠であった。
お市は其れを見て、黙りこくった。何をどう言っても、申し開きは出来ないと観念しているからである。
お福が、絵草紙を手に取り読み上げた。
「九死一生。商人、絶世の美女でうら若き乙女姿の山神様に助けらるる事」
お福は、絵草紙を、しっかりとお市と藤次郎の前に広げると、片手をついて、
「お市、藤次郎。この小間物屋茂平さんが怪我も大したことなく、助けられたことは僥倖でした。簪も無事拾い集めたのはお見事です」
と思いの外、とても優しく言った。
お市は恐る恐る様子を見ていたが、優しい物言いのお福に安心して喋ってしまった。
「簪を辰じいと藤次郎と一緒に集めるのには苦労したけど、怪我が大したこと無かったのは本当に良かった。もし、命に一大事が有ったらどうしようって思っていたから――」
無邪気に語り掛けるお市を横目に、藤次郎は心の中でしかめっ面をし、頭を抱えこむ。
折角、辰吉さんが事件のあらましを上手く角が立たない様、丸めて丸めておっ母さんに話をしてくれていたのに、これでぶち壊しだ。
絵草紙の内容は、裏を取った事実に基づいて書かれたもので、黄表紙等の全くの作り話の類では無い事を、お市はお福に証明してしまった。
となると、次は……。
「矢張り、ここの読売屋は伝え聞く評判の通りなのですね。人助けをしたのはお見事。流石はおつかわし屋の娘です。ですが……」
お市は、しまったといった顔をしたが、もう遅い。
「お市。あれ程きつく言って聞かせたのに、どうしてまた危ない真似をしたのですか。藤次郎。貴方には姉さまが危ない橋を渡らない様に、よくよく頼むと申し付けたはず、なのに何故またこうなってしまったのですか」
お福の眼尻には今にも零れんばかりの涙が溢れている。
お福は善意の人である。
人の為になる事であれば、色々するしお節介も焼く。
この世の中には真の悪人なぞは居らず、真心を持って接すれば必ず通じると信じている。
ましてや自分の子供達であれば殊更で、言いつけを守らないと言い方が悪かったのか、思い遣りが足らなかったのかと傷付くし、御小言の際にも、殊勝に大人しく聴いていたら聴いていたで、怒ったという事に傷ついてしまうと言う、実に愛に溢れる母なのである。
「いやその、おっ母さん。其れにつきましては申し開きもなく……ですね……」
藤次郎は継ぐべき言葉を必死に探した。
お市も藤次郎も自分が至らない事等百も二百も承知で、怒られる事には反発どころか有難いと思える心根を持っている。
だが、お福の御小言だけはどうにもこうにも苦手なのだ。
「私は貴方達に、ずっと元気で只々元気で居て欲しいだけなのです。母の想いはまだ解りませんか」
お福に関しては怒られ方の正解が無い。どう足掻いても、結果、傷付けてしまう。
藤次郎はどうしようかと考えながら、ちらりと横を向くと、お市はもはや項垂れて居る。
完全に敗軍の将である。
(姉さん、もっと頑張れよっ)
藤次郎は心の中で、文句を張り上げた。
だが、このままにしておけは、おっ母さんを泣かしてしまう。
おっ母さんを泣かせると、親父様の米之助がしゃしゃり出て来て、殴るでもなく怒鳴るでもなく、夜通しお茶を啜り乍ら淡々と気持ちと今の問題について、とことん話し合う、拷問のような夜会合が行われるのだ。
母は泣かせたくはないし、夜会合なぞもっと厭である。
(八方塞がりだ。何かきっかけが在れば)
藤次郎がそう思った時に、ぴかぴかに磨き上げられた七色の手毬がころころと転がって来た。
お市がとても大切にしている宝物で、祖父の初次郎の形見でもある。
お市が幼い頃熱病にうなされた時に、初次郎が何処からか手に入れて来た、京下がりの豪奢な銘品にも引けを取らない逸品なのだ。
床に伏したお市の手毬つきの譫言を聴いて、飛び出して行った初次郎は何処をどうしたかは未だに分からないが、御姫様が持っていても可笑しくない七色の錦に輝く見事な手毬を持って帰って来た。
命に関わると思われていた熱病に罹っていたお市は、この手毬を手渡された途端、見る見る快方に向かったという謂れの有る、おつかわし屋の皆にとっても縁起物の手毬であった。
転がって来た手毬と共に、にゃーんと鳴き声がしてキジ虎猫の山吹が現れた。
色艶の良い黄色の毛並をひけらかしながら歩いてくる山吹は、猫にしてはかなり高齢で、お市よりも一つ年上の姐さんであった。
普段より、玉遊びをするような年齢では無いし、そんな性格の猫でも無い。
藤次郎はてっきり、
(姉さん。やったな)
素直に思ったが、お市の、ええっという驚き顔で違うということを知った。
お福も同様にお市の仕業だと一瞬思ったようだが、もとより、芝居などが出来る程器用でも無い娘である。
違うということを矢張り読み取り、驚いていた。
そうして、
「お義父様が、勘弁してやれと言っているみたいだから、今回は大目に見るけど、次何かしでかしたら、その時は……覚悟為さいね。後、向こう当分、この宿場から出ることを許しません。父様や御婆様に辰吉さんが良いと言っても駄目です。分かりましたか?」
お市と藤次郎にこれでもかと釘を刺した。
お市と藤次郎が「はい」と返事をすると、お福は二人一遍に抱きしめた。そして、
「無事で……良かった……本当に良かった」
とそれは嬉しそうに微笑み、涙を零した。
藤次郎は、
「辞めてよもう。赤ん坊じゃあないんだ」
と説得力のない顔と声で抗おうとしたが、
「おっ母さん、おっ母さん……あたし、あたし」
お福の胸に顔を埋めて、嗚咽するお市につられて、それ以上の言葉と意気地を無くしてしまった。
皆の様子を板戸の陰で窺い、
「今回は大変な思いをしたもの。少しくらいは宜しいでしょう」
そう独りごちている初老の女性がいた。
髪はしっかりと結い上げられて、淡い青の穏やかな縞の着物をしっかりと着こなし、立ち居振る舞いに筋目と優雅さが漂っている。
おつかわし屋の先代初次郎の妻にして、お市と藤次郎の良き理解者である祖母の照であった。
照は嫁と孫たちに気付かれること無く、転がった毬を丁寧に拾い袖で磨くと袂に入れ、猫の山吹をそっと抱えて微笑んだ。
「山吹、有難う。そしてご苦労様。後で鰹節を柔らかく煮て持って行きますからね。これからもあの子達の事お願いしますよ」
山吹は照のほっそりとした指先に頭をなでられ、目を細めると喉をゴロゴロ鳴らしている。
山吹はこの照の事が大好きであり、特にツボを心得た撫で方が堪らないのだ。
にゃーんと照に応え、床に降りると優雅に尻尾を立てながら、満足気に庭へと向かい、開けた障子を器用に後ろ足で閉めて、消えていった。
照は優雅に去っていく後姿を見送った後、仏間に足を運び鞠を位牌の前に供え、手を合わせた。
「旦那様。少しのズルは貴方様の得意技でした。妻の私も何時の間にやらその手立てを覚えてしまったようです。今回の事、色々大目に見て下さいませ」
微笑み再び手を合わせて、障子を開けると外を見た。
綺麗な夕焼けが空に拡がっている。
遠くに見える山々の尾根が蒼く黒く霞んで連なり、無造作に置いた庭石から何処までも続いているかのように錯覚を覚える。
夫の初次郎が大好きだった眺めである。
「何時もの通り、綺麗だ事」
照は誰もいない左隣に目をやると、ほんの少しばかり寂しそうな眼差しで、夕焼けに見入っていた。
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