おつかわし屋事調べ 山姫さま、奔る

しきもとえいき

おつかわし屋事調べ 巻の壱 山姫さま、奔る 

第一章 霊異

第1話  山神様は女の子

 ひしひしひしひしと、宵闇が背中を追っている。

 鬱蒼と木々が生い茂り、更なる昏い影を投げ掛ける奥深い山の道なき道であるのに、小間物屋の茂平は息せき切って、音をなるべく立てないように走っていた。


 早鐘の如く鳴り響く自分の鼓動が外に漏れ聞こえるのではないかと怖れながら、止まることなく只管速足で峠を下っていく。 

 しとどに吹き出し滴る汗を拭いもせず、背中の行李の重さも気にする暇もない。

峠とは言え、街道から大きく外れている獣道である。


 仕入れに少しばかり手間取ってしまい、出立が遅くなってしまった。

 それを取り返そうと近道を進んでいたのだ。

 そしてあれに出くわしてしまった。

 見かけた途端に出来るだけ音を立てず、急いで逃げた。


自分が居た事は多分気付かれているだろうが、何処に居るか迄はまだ見極められていない筈だ。

 茂平はそう自分に言い聞かせつつ、萎えそうになる体と心に喝を入れ乍ら、足を動かし続けた。

 見つかったら――頭に過る悪い考えと背中に疾る悪寒を振り解こうと必死に走る。


 梅雨も明けようかという時節、宵の刻限とは言え蒸し暑い。

 だが茂平の体は震えていた。

 尋常では無い大粒の汗を掻き、頭巾を濡らし、着物の襟足は水をかぶったようになっている。


 わおーんと遠吠えが一つ。

 それに応えて二つ、三つと遠吠えが重なっていく。


 恐怖の主の声が木霊する。

 かなり近い。

 夜の闇に紛れて忍び寄り、疾る風かと見紛う程速く、地を駆け追って来る喰らう牙を突き立てる情け容赦のない餓えた獣。

 山中では出逢ってはならない、純然たる死の恐怖そのものであった。


 茂平は汗で曇る眼を拭いつつ、必死に目を凝らした。

 己の命を助けてくれそうなものを、血眼になって探しているのだ。


 散々ぱら旅をしてきて、奴らの活餌と成り果て、野晒しになったままの憐れな人の亡骸も目の当たりにしたことがある。

 自分はああはなりたくは無い。

 狼とはいえ所詮は山犬である。

 牙の届かない高い処へ、登ってしまえば大丈夫だ。


 そう何度も茂平は自分に言い聞かせた。

 幸いにして目線の先に、齢を重ねた大木が見えた。

 あれだ。あの大木なら登りやすそうだし、高さも十分にある。


 茂平は、焦りと安堵を代わる代わるその顔に浮かばせながら夢中で走った。

 足元が良く見えない暗がりの中、先程までの注意力を散らし全力で走り抜け、やはりというか当然というか、何か固いものに足を刈り取られ、受け身も取れぬ程、激しく躰を打ち付け、むっとする土と草の匂いを鼻先に、倒れこむ。

 その拍子に風呂敷包が放り出され、大きな音を立てて箱が壊れて中身が辺りに散乱した。


「あああぁっ」


 茂平は躰の痛みすら忘れて、かき集めようと焦った。

 折角仕入れた京下がり物の上等な髪飾りである。失くしてしまえば大損だ。

 慌てて拾おうと身を起こしかけ、顔が苦痛に歪む。

 右足に激痛が走るのだ。挫いたか折れたかは判らないが、満足に動きすらしない。


 ぐるるるる。

 直ぐ近くで唸り声が聞こえ、草叢がガサガサと音を立てはじめた。

 しかし、痛む脚は動かず、肺臓もふいごのようで、息を整える事すら侭ならない。

 どうにか、這いずり背中を木の幹に預けると、歯の根も逢わぬほど怖いにも拘わらず、腰の護り刀を抜いてやっとこ構えた。

 構えた刀の切先は、カタカタと小刻みに揺れて震えている。

 取り落とさない様、強く握りしめて茂平は祈った。

 全身全霊を賭けて、助けてくれるように祈った。


「お助けを。菩薩さま、お地蔵さま、山神様。あっしは善良な男です。誰も騙していません。盗んでも殺してもいません。御頼み申します」


 元々信心深くは無いのだが、今はまさしく神仏にすがる以外に助かる方法は無い。

 心の奥底から祈った。

 祈りもむなしく、薄闇の中に恫る眼が幾つも浮かび上がり、徐々に大きく数も増え、その分絶望感も増してゆく。

 遂に四本足の死の影が眼を爛々と輝かせ、鼻に皺を寄せながら、低い唸り声をあげ次々に姿を現した。牙をむき出し、一定の距離をとって茂平を睨んでいる。

 直ぐに襲いかかって来ない処が、更なる絶望と恐怖を呼んだ。

 ぬかりなく獲物を品定めし、確実に仕留める方法を探っているのだ。


「うわっー、来るなっ、く、来るなぁー」

 

 あらん限りの大声で叫びながら、守り刀をやたらめったら振り回す。

 かちゃん。

 汗に塗れた手から、無情にも守り刀が滑ってあらぬ処へ飛んで行ってしまった。

 茂平は、刀を握り締めていた筈の手を、あんぐりと見た。

 途端に、狼達が殺気を孕む。


「ひっ、おた、おたすけ……」


 声にならない叫びをあげつつ、喰われようとしたまさにその時、


「お止しっ。何してるのっ!」


 と強い口調の若い女の子の澄んだ声が飛んできた。

 同時に茂みから飛び出してきたその姿は、顔までは判らないが、間違いなく痩せっぽちの女の子の姿である。

 そんな女の子が、牙を剥いて殺気立ち唸りを上げている狼の群れに物怖じもせず、対峙しながら力強くきっぱりと言い放つ。


「だから、お止しなさいって言っているの」


 途端にぴたりと唸り声が止んだ。


「人を襲っては駄目よ。人を襲ったら、鉄砲を持った怖い人たちが、わんさか来て、あんた達を追い立てるわ。棲み処を追われ、毛皮を剥がされ踏み付けにされるの。そんな事にはなりたくないでしょう」


 女の子は静かに優しく、悪戯小僧を叱りつけているような、そんな口調であった。   

 足元には何やら低い唸り声を上げている真っ黒な影が寄り添っている。


「ほらっ。御免なさいして、お帰りなさい」

 

 驚いたことに殺気を放っていた狼達は怒られた子供の様に、くーんと泣きながら一斉に草叢の中に消えていった。


「あの子達はもう襲ってこないから安心して下さい。体は大丈夫ですか? 怪我が酷くなければいいのだけれど……」


 駆け寄って覗き込む女の子の、涼やかな声が、茂平の耳元に届く。

 茂平は、安心したやら恐ろしいやらで、気が遠くなり、女の子が眼前で何やら話しかけているのだが、聞き取れず、ぼんやりと、


(ああここの山神様は乙女の神様だったのか)

 

 そう思いつつ、気を失った。



「さあさあさあ、出たよ。出た出た。まあた出た」


 若い読売屋の大きくて滑稽味を帯びた、のびのびとした声が宿場に響く。

 場所は武蔵国豊島郡下板橋村の板橋宿である。江戸の街まで目鼻先の土地柄で、賑わっている大きな宿場町だ。

 茶店出店に宿屋は勿論、商売人や武士に農民、大道芸に春をひさぐ女たち等、様々な人が通り過ぎ、ひしめき合っている。

 読売屋は箱馬に乗って周りの人々へ調子よく呼びかけた。


「これより江戸方から上方へとお進みになられるお歴々は、ようく御覧じろ。今からついぞ四日前に起こった事だぁっ。木曾の本道筋を少しばかり外れた脇道筋の山の中、小間物屋を営む田口屋茂平、京下がりの簪を買い付け、ほくほくで近道しようとした処、運悪く山犬の群れに出くわした。ああこれでついにお陀仏、この世とおさらばと山犬の餌になりかけた丁度その時、颯爽と現れ田口屋茂平を助けたのは何と山神様だぁ。しかもこの山神様、これまでも木曽路で彼方此方と、霊験を顕して下さっていたが、今回その御姿が初御披露目。何とっ、うら若き乙女姿で絶世の美女ときたもんだ。詳しいことはこの中にしっかりと書いてある。ささ御覧じろ、御覧じろ。買った、買ったぁ」


 威勢のいい売り文句が響き、皆が我も我もと買い求める。

 読売屋も心得たもので、近くの団子屋の小娘にまで、絵草紙と銭を入れるざる籠を持たせて立たせている。後で小遣い銭でも渡すのだろう。


「一枚下さい」


 目鼻立ちもぱっちりした健康的に日焼けした美少年が、白い歯を見せながらにっこりと笑いかけると小娘に手を伸ばす。

 小娘はその顔にぼうっとして、買い求める他の者の手を払いつつ、絵草紙を握らせた。美少年が懐から御代を出そうとしたところ、


「いいから、持って行って」


 小娘は顔を赤らめながら呟いた。

 この美少年、名を藤次郎という。藤次郎は自分の見目良い事を弁えた上で小狡く立ち回り、利用している節がある。

 今も小娘の眼をジッと見つめながら、


「有難う。でもそれで貴方が折檻を受けるようなことが在れば、私が悲しくなります。お代は是非受け取って下さい」

 

 とそっと手を取り、目元涼やかな笑顔で優しくお代を握らせた。

 小娘は顔を赤らめたままぼうっとしている。次に会った時には、親ですら売り飛ばすくらい入れ揚げてしまうだろう。

 藤次郎は喜色満面の笑顔を浮かべたかと思うと、背を向けて振り返った際には、さも当然という顔で、ついでに小娘の心まで買い付けた絵草紙を暫く読みふけっていたが、端正な顔をしかめて、


「辰吉さん。辰吉さん」


 そう、初老の長身の旅人姿の男に声をかけた。

 真っ黒に日焼けした色艶のいい肌に、全くと言っていいほど似合わない白髪頭を小ざっぱりと結い上げた、精悍な顔つきの旅姿の男が振り返り、にっこりと笑顔を向けた。


「ほいよ。藤坊。どうしたい」


「辰吉さん。これを見て下さい」


 と先ほど貰ってきた絵草紙を渡した。

 それを読んで、辰吉はこれまた良い笑顔を浮かべ、声を立てて笑った。


「こいつはいい。良く書けてんなぁ。こりゃあ、傑作だ。絶世の美女当たりの件なんざあ、お嬢、見たら喜ぶだろう」


「いや、そうではなくて、これをまた、おっ母さんが見たらと思うと……」 


 藤次郎は、思い出し悪寒で背筋をぶるっと震わせた。


「下手に隠し事するから良くないだけで、正直に見せて笑いとばせりゃあそれで終い。怒られるのは一瞬、一時で済む。隠そうとするから後ろめたくなる。隠さずに誠を貫き通しゃあいいんだ。何せ悪いことしているわけじゃあ無い」


 と、これまたいい笑顔を浮かべながら、辰吉は答えた。

 藤次郎が何やら云おうとした時、馬の嘶きと共に、女の子の澄んだ声がした。


「辰じい、藤次郎。遅くなって堪忍。いわしやさん、評判のことだけはあって混んでいたの。でも、いい薬種を教えて貰ったから、帰ったら早速調合してみるね」


 声の主は藤次郎の姉のお市である。


「これが有れば、玄さんところの牛坊も元気になるはず。あの腹下しは、気を長くもって、体力を戻してあげた方が早いんだって」


 今年十四になるお市は、色白とは程遠い日焼けして真っ黒ではあるが、大きな瞳にツンとした唇が可愛らしい元気溢れる少女である。

 傍らにはお市の相棒である木曽馬のアオと、足元には真っ黒な毛に金毛が混ざった甲斐犬の黒丸がいた。


 お市は、牛や馬で荷駄を運ぶ馬借家業『おつかわし屋』にあって、病気や怪我をした牛馬の手当や躾などを請け負っている。

 実際は、牛馬に限らず、困った人には勿論の事、野山の鳥獣にすら、細やかな愛情をもって分け隔てなく接し、薬を調合し面倒を看る、色々な意味合いで評判は近在では中々大したものなのだ。

 お市の人柄に惚れ込んで、その可愛らしい容姿を見初める者も少なからずなのだが、当の本人はそのような色恋沙汰に余りにも縁遠い心持で、男勝りとはよく言ったものであった。


 そんな、お市の格好と云えば、茜色の珠簪が唯一女の子らしいもので、後は紺の絣の着物と帯に股引きという男と見紛う様であるが、其の姿ですら、どことなく愛嬌があり可愛らしい。

 現に天秤棒を担いだ野菜売りが微笑みながら、「せっかくの器量が勿体無ぇ」と通りすがりに声をかけるくらいである。


「遅くなったお詫びって言ったらあれだけど、これは辰じいに。これは藤次郎に」


 お市が、懐の包みから取り出したのは、最近霊験あらたかと評判の悪縁切りの御守りである。辰吉には熊避けの鈴の着いたものを、藤次郎には姫駒の着いた良縁を結ぶものを可愛らしく選んでいる。


「なあに、どうしたの」


 お市は二人の間に漂う妙な空気に気付いて尋ねた。辰吉が笑いながら、


「御礼ついでに、これをどうぞ。絶世の美女のお出ましだな。お嬢」


 絵草紙を手渡した。

 お市は渡された絵草紙を複雑そうな面持ちで読んで、藤次郎に言った。


「ねぇ、おっ母さんが見たらまた怒るから、藤次郎あんた何か言い訳考えてよ」


「言い訳ったってさ。姉さんが物騒な動きをしている狼の群れを見つけて、旅人を喰わない様に、お説教して追い返したこの話、繕いようすら見当たらないよ」

 

 藤次郎は言いながら、姉のお市の屈託の全く無い顔を見て思った。危ない事だなんて本当に欠片も思っていないんだろうな、と。

 お市には、少しばかりというか大いにというべきか、兎に角不思議な力がある。

 どんな気難しい鳥獣も忽ちの内に懐いて、大抵の言いつけに従い、ついでに鳥獣の話というか気持ちがわかるという、とても不思議な力があるのだ。


 お市の父も母も勿論藤次郎も、その様な不思議な力など微塵の欠片も無いが、全く縁も所縁も無いという訳でも無い。

 今は彼岸の人となってしまった祖父の初次郎が、同じく不思議な人だったのだ。

 鳥獣の声を聴き分ける等当たり前。

 遠くに離れた鳥獣にまで笛の音で言伝し、手足の様に操り、枯れた果てたと思われる草木まで、見事に甦らせ花まで咲かせるという事を平然とやってのけていた。

 

 藤次郎は鮮烈に覚えている事がある。

 初次郎は馬借を始め、遂には座頭の株を持つまでになったのだが、その裏では色々あったのだろう。

 祖父はしょっちゅう、お祀りしている馬頭観音へ、


「また俺の力のせいで済まねえ事を……」


 と手を合わせて頭を垂れていたのだ。


 そんな祖父が罪滅ぼしなのかどうかは、さっぱりに分からないが、〝鳥獣見立て指南″の看板を掲げ、病や怪我をした動物たちの面倒に、犬や牛馬の躾まで始め、その後を継いだのは、父や母や番頭の辰吉でもなく、同じような不思議に溢れる姉であった。

 藤次郎は、祖父初次郎のそんな様子を度々目の当たりにしては、不思議な其の力の凄さと怖さを噛みしめるようになっていた。

 良い事ばかりではない。

 同じくらい悪い事も起こるのだと、この聡い美少年は、祖父の様子だけで理解した。


 お市と言えば、野山を歩いていたら、人に怯える筈の小鳥が其の肩に頭にとまる。飼われているわけでも無い雌の猪が、瓜坊を自慢げに見せびらかすなぞ、有り得ないような話の枚挙に暇がない。

 お市自身は生まれてこの方それが当たり前だったので、特別な事だとは全く思っていなかったのだが、ある日を境にその力を他人にはひた隠しにするようになった。


 まだ幼い時分の初夏の頃、姉弟揃って村里の悪童と共に遊んでいた時、怪我をした雉を見つけた。痛がって鳴いている雉を、悪童たちは獲物だと仕留めに懸かり、お市は、それを必死に止めていたことを未だにしっかりと覚えている。


「あんなに痛いって言っているのに、可哀想でしょ。やめてあげてよ」

「何だよ。お前。鳥が言っていることが、解るのかよっ」

「解るもんっ、全部解るもんっ」

「全部解るってのか。この嘘つきめ」


 強く突き飛ばされて、ひっくり返ったが、


「あの子、痛いって、助けてって。辞めてあげてよ」


 と必死にお市が食い下がった結果、


「たかが雉に、そんなに意地張るのかよっ。気持ち悪いっ。行こうぜ」


 悪童たちは雉を諦め、お市と藤次郎を置き去りに帰った。

 嘘つきに気持ちが悪い。

 当のお市よりも、藤次郎の方が悔しくて、泣きながら帰って、お市共々、事のあらましを祖父の初次郎に相談して、しっかりと言聞かされた事が在る。


「いいか、お市、藤次郎。お市のその力はな。他の人には無えんだ。おっ父もおっ母も、ただ鳴いているとしか分からねぇ。俺とお市以外には誰にも分からねぇんだ。藤次郎にだってわからねえ。だからな、これは内緒だ。お市と藤次郎と俺だけのな。人は知らない力を怖がる。だから、鳥や獣の気持ちが分かるなんて言っちまうと、皆を怖がらせちまう。だから俺達だけの内緒にしよう。いいな」


 うんっと大きく頷いた藤次郎とは対照的に、お市はとっても不思議顔で初次郎に尋ねていた。


「内緒にするのはわかった。でも、なんで皆は分からないの」


 初次郎が、それは特別な事でお市が山神様に好かれているからだと教えてくれるまで、ずっと不思議で仕方なかったのだ。

 お市は今もそのことは胸に秘め、誰にも言わないが、心の中では常に思っている。


 皆が声を聴いてあげられたら、人と獣はもっと仲良くなれるのに。ねぇ、おじい。


 ただ、お市のあっけらかんとした心根で、隠し事など上手くいくわけも無く、祖母に父母、それに家族同然の辰吉は知るところとなってはいるのだが。

 家族の皆は余所に話が漏れないようにと、よくよくこれまたお市に言って聞かせていた。

 辛うじてその秘密はまだ守られてはいるが、弟の藤次郎は姉のこの力のお蔭で、散々ぱら振り回されて、危ない思いを何度もしていた。

 姉のお市は自分の不思議な力への疑念が無いからこそ、その危うさに気付いておらず、毎度毎度腐心するのは藤次郎なのだ。


「ほら、人様の命を救うためとかさ、何のかんのと理由つけるの、あんた得意でしょ。お願い。困った姉を助けるのも孝養の一つよ」


 藤次郎はやれやれといった風で首を振った。


「姉さん、旅人の命が懸かっていたって言ったら、どうなると思う?」


「そりゃあ、心配かけるし、約束を破ったって、怒られるだろうけど……おじいに教わった通り、困った人や獣がいたら、手を差し伸べるっていう、おつかわし屋の家風に沿って、よくやったって褒めて……くれないよね。やっぱり」


 お市はだんだんと俯いて、声も小さくなっている。


「姉さんが又、それだけ危ないことに首を突っ込んだって、おっ母さんに白状しているのと一緒だよ。今回の道中だって、出る前に色々心配して、何度も釘を刺されたじゃあないか。どちらにしても上手くない」


「ぶるる、ぶるるっ」


 アオはたてがみを揺らしながら小さく嘶き、ずんぐりむっくりとした体躯を揺すり、力強い前足で土を掻いた。

 気性は荒く、お市と辰吉以外の言う事は全く聞かないひねくれ者の馬だが、大変賢く勘に優れ、山犬くらい蹴散らす勇ましさを兼ね備えている。

 アオは、お市が赤子の頃からこの娘の面倒見るのは俺が役目だと言わんばかりに、つかず離れず周りにいる老馬である。

 アオはまたその前足をがりがりし乍ら、ぶるるっとまた小さく嘶いて、お市へ何やら訴えた。

 お市は、ほっぺをやや膨らませながら、言った。


「分かってるって。もう少しくらい、良いじゃない」


 何やら面白うそうな匂いがすると、藤次郎がお市に尋ねた。


「姉さん。アオは何て言ってるんだい」


「もたもたせずに早くしろって……言ってる」

 

 其れを聴いて辰吉は破顔した。


「こいつはいい。流石はおつかわし屋でも古なじみのアオだな。年寄の癖に伊達に馬の群頭を張ってねぇってこった。てえしたもんだ。なぁ」


 そう声を立てて笑っている。

 辰吉は、今は亡き初次郎の右腕であり弟分でもあった。

 初次郎の息子夫婦には勿論の事、この生意気盛りの姉弟にも、この上もない慈愛溢れる厳しさを持って、一人前に仕立てようと今日も共に居るのである。


「辰じい。そんなに笑わなくても」


 お市が更にほっぺを膨らませた。

 姉ながら、存外、むくれる顔にも愛嬌があり可愛らしく器量よしである。

 藤次郎はその様子を見ていないことにしてしまうと、


「姉さん、急ぐ旅では無いとは言え、此処から二日はかかる道中なんだから、とっとと戻るが得策だろ」


 そう至極冷静に、なるべくぶっきらぼうになるように言った。

 端正な顔の眉一つ動いていない。

 お市もふむ、と鼻を抑えて考えた。

 辰吉はお市の愛らしさと、藤次郎の美少年の雰囲気に、見ものだと笑っていた。

 弟の藤次郎は兎も角として、姉のお市は自分の器量にすら気付いていない節が多々見受けられるので、辰吉はそれはそれで罪作りだなと気を揉んでいる。


「あの田口屋さんを運ぶのに、少し手間取ったものね。眼を醒ましたら、簪、簪で、全部見つけ出すのに苦労したもの」


「姉さん。主に見つけたのは、辰吉さんとおいらだけど。姉さんは、簪を探しているのか、薬種を探しているのか途中から分からなくなっていたよね」

 

 口を尖らせる藤次郎を、辰吉が遮った。

 喧嘩になりそうなところを絶妙な間で捌く。


「あれで、日を喰っちまったが、こればっかりはしょうがない。人助けだからな。まあ、ちょいと急ぐとするかい」


「だってよ。姉さん。いや山神様」


「一々癇に障るわねっ」


 お市は藤次郎を睨みつけた。そうして足元の、真っ黒な毛並みの、犬の顔を両の手でワシワシと撫でまわし、


「あたしの味方はあんただけよ。黒丸」


 いい笑顔で話しかけた。

 撫でられて嬉しい黒丸は、腹も撫でて貰おうと、締まりのない嬉しそうな、あぱんとした表情を浮かべて寝そべると、わんっと鳴いた。

 老馬のアオは不機嫌そうに一つだけ嘶いた。


「それじゃあ、お嬢、藤坊。戻ろうかね」


 辰吉の優しい声に促され、皆がまとまる。


「楽しかったな。またみんなで来ようね」


 お市の大きな笑顔がきらきらと煌いて、藤次郎と辰吉を朗らかにし、お市の足元を嬉しそうに跳びはねている黒丸はさらに嬉し気にわんっと答え、馬のアオは割合に冷めた目線で、注意深く守るべき群れを後ろから見つめていた。

 

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