スターチスを狩ることにした
アオイ ウミ
第1話 スターチスが狩られた
「中庭の植木鉢に植えてあったスターチスの件、心当たりのある人は書いてください。」
卒業式の日、植木鉢のスターチスが何者かによって狩られていたらしい。先生は、今目の前にある白い紙で、犯人を炙り出そうとしている。こんな手段に出たって、誰も真面目に書くはずなんてないのに。しかもこれ、何回目なんだ。もう6月だって言うのに。そろそろ諦めた方がいいのではないだろうか。
「それじゃあ、裏返しにして後ろから集めて。」
紙を裏返しにして手渡した。
誰が何のためにスターチスなんて狩ったんだ。もう面倒だから名乗り出てほしい。
終礼は終わり、皆各々の放課後を過ごし始めた。
私も友人らに別れを告げると、図書館へ向かった。もちろんその目的は、あの胡散臭い〈忘却の書〉である。
忘却の書の噂を聞いたのは、私が先輩のことを忘れたいほど嫌いになり始めた頃のことではない。
そんなのよりももっと前に、友達から聞いた噂だ。
学校の図書館の奥の方。植物図鑑が置いてある辺りにそれはあるそうな。その本の内容は〈嫌いな人と過ごした記憶を消す儀式の方法〉らしく、なんとも嘘っぽい。
しかし私は、そんな胡散臭い儀式とやらに縋り付くしかないほどに、先輩のことを忘れたくてたまらなかった。
ひとつしか違わないはずなのに、なんだかとても大人びて見えた。
先輩は、背が高くて肌が白くて、真っ黒な髪の毛で目はアーモンド型で…
温室育ちの王子様みたいな風貌をしていた。
初めて会ったのは、実は中学生の時。
恐らくそれを覚えているのは私だけだ。
先輩は、七瀬先輩は、私の初恋だった。
友達と高校のオープンスクールに来ていた筈が、体験授業が終わるとはぐれてしまった。来たこともない学校の地理なんて分かるはずもなく、一人で行く宛もなくさまよっていた。
「あれ、もうオープンスクールは終ったよ。」
「え、どうしよう。」
困惑する私を少しだけ笑った先輩は、友達と来たのかと私に尋ねた。
「はい、だけどはぐれちゃって…」
「あー…そりゃ大変だ。」
多分友達も、私を探しているだろう。
「僕も探すよ。」
「い、いえ、大丈夫です。」
「ふはっ、どうだか。このままだと夜になっちゃうかも。この学校、夜は出るって言うしね。」
「な、にがですか。」
「え、幽霊だよ幽霊。」
怖くなって固まると、先輩は「だからやっぱり僕も探すよ。」と言った。
「とりあえず、正門にでも行ってみる?」
その言葉に頷いて、私は七瀬先輩の後ろを歩いた。何を考えているかよく分からないふわふわした先輩が気になって、いつの間にか見とれていた。
「何か僕の顔についてる?」
「いえ、」
「あ、顔赤い。」
先輩の周りだけ、空気が澄んでいるような気がした。
「あっ、居た。」
結局、友達は正門に居た。
「じゃあね、気を付けて。」
呆気なかったけど、私にとっては十分すぎる出来事だった。
「あの、」
「ん?」
「お名前、教えていただけませんか…」
先輩の背中から風が吹いて、髪の毛が靡いた。
「七瀬。七瀬俊。」
先輩は、笑った。
「ありがとう、ございました。」
そう言った時にはもうどこかへ向かって走り始めていた。
私は、七瀬先輩に憧れてこの高校に入学した。
そんな七瀬先輩のこと、ここまで忘れたいと思うような日が来るなんて思ってもみなかった。
「3-4の星川鈴菜です。」
「はい、返却期限は来週の水曜日です。」
忘却の書に視線を落とす。
卒業おめでとうございますくらいは言えばよかった。ふとそんな後悔が頭をよぎった。
────
自宅の玄関を開けると、そこらにはぎっしりと履き潰された靴が敷き詰められていた。兄貴とその友達のものだ。
私はそれを踏まないように陸を目指す。随分手馴れたものだ。
手を洗ってキッチンへ行くと、そこには焦げた何かがあった。また調理に失敗して、片付けが億劫になりそのまま放置しているのだろう。私は冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐと、それを一気に飲み干した。
代わりに片付けてやるものか、今日も今日とて、母にこっぴどく叱られれば良いのだ。
私は階段を上って、案の定騒がしさが漏れ出している部屋を睨みつけて自室の扉に手をかけた。
「おー、おかえり。」
髭らしきものや不自然に赤く丸を書かれた頬。呆れてものも言えなかった。
兄貴はどうやら、私が思っていたよりも幼稚だったらしい。
この兄貴という呼び方も、あのバカ兄貴が小学生の頃にヤクザ映画にハマってしまったせいで、私にそう呼ぶことを強要したために染み付いてしまったのだ。
あの頃の私はまだ兄貴のことが大好きだったので、あまりなんとも思わずにそう呼んでいたが、今となればまあそれなりに迷惑だ。
先輩の前ではいつも「お兄ちゃん」と呼ぶように心がけていたのだけれど、習慣には抗えないもので、つい口から「兄貴」という可愛げのない単語が漏れてしまったことがあった。
それを聞いた先輩は目を丸くしたと思うと、次の瞬間に大笑いし、当分の間ふざけて私のことを「姐さん」と呼ぶようになった。
それを思い出すと、なんだか首が締められたみたいに息がしづらくなった。
その上空っぽの胃から何かがせり上がって来る感じもする。心底気分が悪い。
先輩のことを思い出すつもりなんてないのに、私の生活の端々には先輩が棲みついている。
私のことを気にする様子もなくこの家に入り浸る兄貴の友達より、よっぽどタチが悪いじゃないか。
窓を開けてみると、夕方の冷えた風が部屋に入り込んだ。
少し気分が落ち着いたので、ほぼ用無しの勉強机に向かった。〈忘却の書〉を取り出して、ノートを広げる。
そろそろ全て忘れてしまいたい。良い思い出なら尚更に。
中途半端に良い記憶が残っているから苦しくなるのだ。またもう一度と欲が出るのだ。
あの日の先輩の言葉が全てなのはもう痛いほどに分かっているだろう。
もう一度なんて、私には待てども待てどもそんな機会は巡ってこない。
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