コピ・ルアク職人

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コピ・ルアク職人

 コピ・ルアク職人の朝は早い。

「まあ、好きで始めたことですから」

 そう言うと彼はトイレに向かった。トイレの前に置いてある器具を手に取ると、慣れた手つきで準備をする。準備を終えるとそのまま便座に腰をかける。その間、1分もかかっていない。ほとんど私たちのトイレと同じだ。

「今日は取材ということなので、特別です」

 いつもはトイレのドアを閉めるそうだが、今日は開けっ放し、生産風景を見せてくれた。その気遣いに、取材をする私の心も少しほぐれたような気がした。職人という言葉から連想されるのはもっと頑固な人間像だった。

 コピ・ルアクの生産は体調によって大きく左右される。体調は身体的なものだけでなく、精神面からも大きく影響を受ける。仕事だからといって特別なことをするのではなく、普段の行為の延長線上として捉えることで、安定した生産が可能となる。ドアを閉めるのは、普段のトイレと同じような環境を作るためとのことだった。

 とはいえ、目を閉じ、自身の肛門にのみ意識を集中させている様子は、思い描く職人像そのものだった。辺りには、ここがトイレであることを忘れさせるような静謐な時間が流れていた。カメラを回す手もいつの間にか止まっていた。

 生産したコピ・ルアクは、品質の劣化を抑える特殊なケースに入れられる。このケースはフィルムケースのような見た目をしているが、光や空気の透過を極限まで抑える素材で作られており、逆止弁でほとんど真空状態にすることができる。外装は三重となっており、各層の間が真空となるため、温度変化にも強い。豆を詰め込み空気を抜けば、長期間出したての風味を維持することができるそうだ。

「フィルムケースってアサガオの観察に使ってましたよね。詰め込む時はその頃を思い出していつも懐かさを感じます」

 生産という大仕事を終えた顔は、いつの間にか無邪気な笑顔に変わっていた。

 豆が詰め込まれたケースは、専用の封筒に入れ、鍵付きの専用ポストに投函された。1週間に1回程度、専門の係が収集に来る。希少価値の高いものであるため、輸送に関しても厳重に管理される。


 これが生産の一連の流れである。

 私が取材している職人の名は、小比歩(こひ あゆむ)。日本全国で100人にも満たないコピ・ルアク職人の一人である。


 コピ・ルアクの生産を終えると、普段の生活が始まる。

 まずは腹ごしらえ。生産のために無理をさせた体を労わるように、おかゆ中心のやさしい食事を摂る。

「生産直後の食事はいつも同じメニューです」

 小粒の納豆とほうれん草のおひたしが食卓に並んだ。

「納豆は大好物なんですよね。仕事を終えたタイミングでしか食べない。一仕事終えた自分へのご褒美みたいなもんです」

 はにかんだその顔からは、生産中の鋭い雰囲気は全く感じられなくなっていた。職人に対して取材をしているのではなくて、ただ仲の良い友達と話しているような、そんな感覚さえ持ったほどだ。

 小比氏は、ゆっくりと、しっかりと、食べ物を喉に通していく。その姿は、自分の仕事道具でもある消化器官に感謝の念を送っているように見えた。


「散歩に行きましょう」

 腹ごしらえを済ませ、一息ついた小比氏がそう提案してくれた。

 散歩は小比氏の趣味の一つである。消化器官にあまり影響を与えないため、自由時間があれば昼夜を問わず散歩に出かけるとのこと。夢中で歩き続け、気づけば3時間も経っていたということもよくあるそうだ。

「元々旅行が好きだったんですが、コピ・ルアクの生産者になってからはなかなかまとまった時間が取れなくて」

 多くのコピ・ルアク職人は、体調維持と供給の最大化を両立するため、3日に1回のペースで生産を行う。体調を維持することは品質保持において最も重要であり、そのために生活サイクルを固定している職人が多い。同じような暮らしの中で同じように産み出される豆だからこそ、裏切らない品質となるのだ。

 職人として生きていくが故の代償。趣味を犠牲にしてまで、生産に従事しなくてはならない。

 初めは止むを得ずという心持ちだったそうだが、その内に散歩の醍醐味にのめり込んでいく。

「散歩していると、旅行の目的地にはならないような街であっても、人の暮らしが息づいていて、刻々と変化していることに気づけたんです。それまで何気なく通り過ぎていた家の周りでさえも、見せてくれる景色はいつも少しずつ違っている」

 言葉が溢れ出てくるように、散歩の魅力を語る小比氏。その顔は、職人のものでも、はたまた食事中の穏やかな表情でもなく、童心に返ったようなきらきらしたものだった。自分の気持ちに偽りなく素顔をさらけ出しているような姿に、また人として魅力を感じた。

「ちょっと通りを変えたり、時間をずらしたりするとまた違う風景があります。コピ・ルアクの生産は、一に安定、二に安定です。品質を維持して生産し続けるにはなるべく刺激を避けた方が良い。生産者でいつづけるための安定した暮らしの中で、散歩中に感じる変化がよいアクセントになっています」

 職人といえども、ずっと職人であり続けることはできない。職人として必要な性質とバランスを取りながら生きる姿勢に、10年も生産を続けている秘訣が感じられた。


 散歩は小比氏の思いつくままに進んでいく。右に曲がり左に曲がり、はたまた立ち止まって周囲を眺めたり。ふと見えた景色の中で、少しでも面白そうだと思う方向に向かう。帰ることを意識しないというのが散歩中のポリシーとのことだ。

 歩いていると小川のほとりに出た。岸はコンクリートで固められているものの、川べりには砂利がたまっている。そこには木も草も生えていて、規模は小さいながらも河畔林のようになっていた。木に止まる鳥たちのさえずりが心地よい。

「生き物ほど変化を感じさせてくれる存在はないですね。種類の違いもあるし、種類が一緒でも個性があります。この前見た鳥はしょっちゅう木の実を落としていて、不器用そうでした」

 頻繁に見ているからこそ気づけることがある。そこが散歩の醍醐味なのだと。


 そのまま川沿いにゆっくり進んでいった。思い立ったらまた川から離れてぶらぶらと。

 小比氏の話を聞きながら歩き続け、家に戻った時には3時間くらい経っていた。あっという間だった。こんなにも長い時間歩き続けたのはいつ以来だろう。気持ちのよい疲労感が身体を包む。


 家に戻るとすぐ、小比氏がトイレの方へ向かった。

 取材をしなければ。その一心で後に続いていくと、小比氏に制された。

「プライベートのトイレなので。すみませんが」

 コピ・ルアク職人の仕事場がトイレであるからといって、普段の排泄までお邪魔してしまうのは野暮である。小比氏のトイレ中、冷静さを取り戻すうちに、少し恥ずかしさを感じた。

 そんなことを知ってか知らずか、トイレから出てきた小比氏は、おだやかな顔のまま引き続き取材に応えてくれた。


 何もする予定のないフリーな時間ということで、仕事道具を見せてもらった。

 まずは最も重要と言えるコーヒー豆だ。

 鮮度を保つため1回分ごとに密封されたコーヒーの果実が、恒温器の中に眠っている。これを生産日の前々日20時ごろに豆を傷つけないよう適度に噛み下しながら水で流し込んで、コピ・ルアクの生産に備える。豆に余計な風味がつかないようにするため、果実を摂取する前後5時間ほどは水以外のものを口にしてはいけない。

 豆の品種は職人ごとに決まっていることが多く、小比氏はキリマンジャロがベースとなっている。

「日本人の職人たちは大方、元々の強い酸味や苦味をおだやかにして、より香りを際立たせる方向に変化させると言われています。海外だと、豆自体の風味に加え、職人由来の独特な風味を付加するというものも多いみたいですね」


 他には、排泄した豆を洗浄する道具や半月に1回程度行う腸内環境の検査キット。また、整腸剤も仕事道具に含まれるかもしれない。

「散歩では変化を楽しんでいましたが、こちらは変化を避けなければならない。生産を始めて、胃腸の声みたいなものを感じられるようになりました」

 否が応でも健康は保たれてしまいます、と笑いながら話すその奥には、職人としての自負が伺えた。


 仕事の話を聞いているうちに、窓の外が黄昏の風景に変わっていた。

 生産日の夜は、最も気持ちにゆとりの持てる時間とのこと。今日は夕食に、少量ではあるがよい肉を食べるそうだ。

「取材していただいた特別な日ですから」

 私の方こそ、いろいろなことを学び、感じさせていただきました。

 強い感謝を述べて、取材を終えた。


 後日、小比氏から取材のお礼にとコピ・ルアクが届いた。

 コーヒーをいただきながら、あの日のことを思い出す。

 変化してはならない仕事と、変化を楽しむプライベート。職人として生き続ける上での、生のバランス。

 小比氏の生き方を思い返すたびに、自分の生き方も見直そうという気になる。私は、仕事を全うできるようなプライベートの過ごし方をしているだろうか。

 しかし、そう思い続けられる限り、少しつづでも前進していけるのだろう。私は今日も、職人として真剣な面持ちで便座に座る小比氏の姿に見守られている。

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コピ・ルアク職人 20文字まで。日本語が使えます。 @osushi_mawaranai

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