62. 覚悟を決めました
「イザベルは公爵家の車で送らせよう。リシャールはそう家の者に伝えておいてくれ」
「……かしこまりました」
エルライン家の車に乗って先に帰るリシャールの背を見送り、ジークフリートが待つ車に足を向ける。
フローリアは、心配でやってきたクラウドに連れられて帰って行った。
ドアが閉まり、車が発進する。横に流れていく風景を眺めながら、イザベルはため息を禁じ得ない。
(おかしい。断罪イベントで婚約破棄されるはずだったのに)
隣にはジークフリートがいる。本来であれば今、彼はフローリアの横にいるはずだった。
(ナタリア様は犯人を捜すのを拒んでいたし、一体どうなっているの?)
わからないことだらけだ。
唯一わかるのは、このままではマズいということだけだ。
今日は星空の下で愛を囁くイベントがあったはずなのに。毒薬事件によって星祭りは一時中止となった。
「今回の件は君のせいではない。だから、そんな顔をするな」
「……いいえ、わたくしのせいなのです」
「どうしてそう思う? 誰も君を責めていないだろう」
正論が投げかけられて一瞬、言葉に詰まる。
確かに、ゲームとは違って、イザベルを責める人は誰もいなかった。だからこそ、浅はかだった自分が一番許せないのだ。
「わたくしがもう少し周りに気を遣っていれば、こんな事態にはならなかった。自分のことだけを考えてしまったから、ラミカ様もナタリア様も、苦しめるようなことに……すべてはわたくしが原因なのです」
懺悔するように言葉を吐き出すと、ジークフリートはかぶりを振った。
「仮に君の言うとおりだったとしても、僕は君の味方だ」
「ジークフリート様……」
「たとえ皆がそばを離れても、僕は離れない。イザベルを一人きりにはしない」
真剣な顔つきで言われ、涙腺がゆるむ。けれど、涙は流してはいけない。
悪役令嬢たる自分に、そんな資格はないのだから。
「あなたが婚約者でよかったと思います……」
後悔と喜びがない交ぜになる中、イザベルはそう返すのが精一杯だった。
*
その日の夜。
イザベルは、就寝前の挨拶を終えて下がろうとする専属執事を引き留めた。
「リシャール、大事な話があるの」
深刻な雰囲気で告げたせいだろう。リシャールはどことなく緊張した面持ちで、主人の次の言葉を待った。
もう悠長なことは言ってられない。答えを出すことを先延ばしにして、今より後悔することの方が問題だ。
一度きつく瞼を閉じ、息を吐き出す。
目を開けると、リシャールの白い手袋が視界に映る。
執事の装いとして当然なものであるはずなのに、主人と使用人であることを強調されているようで、心がズキリと痛む。
素肌を隠した自分より大きな手を見つめること数秒、覚悟を決めて口を開く。
「ジークフリート様に婚約破棄を申し込むことにしたわ」
「それは……イザベル様から破棄を願い出る、ということですか?」
「ええ。そうなるわね」
「……なぜ? 急にどうしたのです?」
訝しむような視線を向けられ、イザベルは言葉に悩む。
どう言えば、彼は素直に納得してくれるだろうと。
しかし、下手な小細工は彼には通用しないだろう。ならば、シンプルにありのままの気持ちを伝えるしかない。
「あなたは以前、言っていたわよね。生きて幸せになってほしい、と」
「確かに、そう申し上げましたが」
「わたくしも同じなの。あなたはエルライン家の使用人であると同時に、わたくしの家族なのよ。だから、弟同然の執事見習いには、幸せになってほしいの」
これ以上、自分のせいで誰かを苦しませたくない。
そもそも断罪イベントのときに、ジークフリートから婚約破棄されるはずだったのだ。しかし、ナタリアが断罪されたせいで、そのイベントは起きなかった。
このままでは、リシャールが懸念する悲劇を回避できないばかりか、フローリアは攻略キャラからの愛が得られずにバッドエンドを迎えることになる。
それだけは何としてでも避けなくてはならない。
「つまり……私のために?」
「わたくしが結婚してしまえば、いずれ魔女狩りが行われるのでしょう?」
かつて自分が言ったことなのに、リシャールは信じられないことを聞いたように目を見開く。
「お嬢様は、魔女の存在を信じていらっしゃるのですか?」
おそらく魔女はいるのだろう。
正体不明の毒薬、それは魔女だけが扱える秘薬だとすると、リシャールの動機も裏付けられる。
「もちろん。わたくしのせいで、リシャールを不幸にするわけにはいかないもの」
「…………本当に、婚約破棄してよろしいのですか」
ぽつりとつぶやくような問いは、弱々しい声だった。まるで、婚約破棄することを渋るように。
「どういう意味かしら?」
「お嬢様はジークフリート様を慕っていらっしゃるはずです。それなのに、自分から婚約破棄を申し込むなんて真似、おつらいのでは?」
探るような視線に、イザベルは肩をすくめて見せた。
「どうやら忘れているみたいだけど……あなたは、このわたくしに宣戦布告をしたのよ。仕えるべき主人に向かって敵と言っておきながら、今さら同情するの? リシャールの覚悟はその程度だったの?」
「……それは……」
「勝負はリシャールの勝ち。これで目的が果たされるの。何か問題があって?」
異議は認めない。
そう目で訴えると、リシャールは口を噤んだ。そして、深く頭を垂れる。
「ご配慮いただき、ありがとうございます」
「お礼を言うのはまだ早いわよ。だって、わたくしが言ったところで、簡単に白紙になるとは限らないもの」
「……それもそうですね」
「でも、きっと受け入れてくれるわ。婚約が破談になって、ジークフリート様が困ることはないもの。むしろ、歓迎されるのではないかしら」
イザベルが身を引けば、晴れてフローリアと結ばれるのだ。
親の説得には時間がかかるかもしれないが、誠意を持って言葉を尽くせば、いずれ認められるだろう。
だというのに、依然としてリシャールは浮かない顔をしていた。
「あの……イザベル様は、本気でそう思っていらっしゃるのですか?」
「当たり前じゃない」
答えると、意表を突かれたような翡翠の瞳と目が合う。しかし、次の瞬間には真顔に戻り、はぁと息を吐き出す。ごくごく小さい声で、ぼやくように言う。
「ここまで鈍いと、同情してしまいますよ……」
「何か言って?」
「いいえ。なにも」
リシャールはすでに吹っ切れたように、作り笑顔を浮かべていた。
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