41. 背後を取られました

 夏休みが終われば当然、学園生活に逆戻りである。暦の上では秋に入っているはずだが、残暑はまだ続いている。切実に、涼しい秋の風が待ち遠しい。

 教室に入ると、見慣れた顔ぶれが目に入る。その中に目当ての人物が見つからず、イザベルは首をひねる。


(ジェシカは今日お休みかしら。いつもは先に登校しているのに……)


 友人の体調を心配していると、不意に後ろから抱きしめられる。


「ひゃっ……!?」

「会いたかったわ、イザベル。今日も変わらず、可憐な花のように可愛いわね」


 吐息混じりの魅惑ボイスを、耳朶に触れんばかりの距離で囁かれて、思わず心臓が跳ねる。


(……敵はすでに背後にいたのね……やられたわ!)


 敵の根城で追い詰められた間者のような気分になりながら、彼女の気配を察知できなかったことを悔やむ。

 わざわざ聞かずとも、彼女の機嫌は今、すこぶる悪いはずだ。なぜなら、この状態がすべてを物語っているのだから。

 ジェシカはストレスメーターが振り切れると、ルドガーのように、イザベルで心を落ち着けようとする悪癖がある。

 彼女に後ろを取られた場合、物理的に、しばらく離してもらえない。彼女の気が済むまで、ぬいぐるみのように抱きしめられるのだ。

 実は一度、大きなテディベアを身代わりにしたことがある。ところが、彼女は特注の等身大ぬいぐるみでは満足せず、イザベルを名指しで所望した。

 彼女いわく、なめらかな毛並みのぬいぐるみは見るぶんには癒やされるが、人の温もりが感じられない。人肌を感じられて、かつ、腕に包みやすい身長のイザベルが、一番の抱き心地というわけらしい。


(というか、名指しされる気分も複雑だわ……)


 後ろから抱きつかれているので、ジェシカの顔色まではわからない。

 しかし、ぎゅうぎゅうと体を拘束する力が次第に強くなり、イザベルは呻きながら懇願する。


「く……苦しいから、力をゆるめてちょうだい」


 ギブアップとばかりに彼女の手の甲を叩くと、あっけなく暑苦しい抱擁から解放された。イザベルはぜぇぜぇと息を落ち着かせてから、後ろを振り返る。

 栗毛のポニーテールは、今日は白いリボンでくくられている。


「ジェシカ。一体、どうしたの?」

「……話せば長いんだけどね」

「ちゃんと最後まで聞くから。夏休み中に何かあったの?」


 さっきのレディを口説く様子から一転、しおらしくなったジェシカは虚無の表情で言葉を続けた。


「夏はお茶会や夜会が多くなるから、思う存分、可愛い花を愛でていたのよ。最先端のドレスを着飾って、紅茶と異国のお菓子をおつまみに、会話も花を咲かせて幸せだったわ。どこを見ても、私を慕ってくれるご令嬢たちが笑顔を向けてくれるのだもの。あれは私の楽園だったの……」


 つまりは、女だけの花園で楽しんでいたのだろう。


「手紙には書かなかったのだけど、行く場所行く場所、紫薔薇の伯爵が現れてね。結果は想像のとおりよ」

「……ああ、なるほど」


 夏休みはお互い避暑地に行っていたり、家の用事があったりで、手紙のやり取りしかしていない。その内容も当たり障りのない雑談ばかりだったから、何か困ったことに巻き込まれているとは露ほどにも考えていなかった。

 ジェシカはふらりと窓辺に近づき、夏の日差しにも負けない緑の庭を見下ろし、そっと睫毛を伏せる。それは、深窓の令嬢という呼称にふさわしい、愁いを帯びた表情だった。

 イザベルも教室の中に入り、彼女の背中を無言で見つめた。


(わたくしの知らないところで、また一波乱あったようね……)


 部外者が何を言っても本人たちの問題ではあるが、このままにしておくのも忍びない。何か元気が出る言葉をかけたらいいのだろうが、当たり障りのない言葉しか思いつかなかった。


「……災難だったわね」

「まったくよ! 一体どれだけ迷惑をかけたら気が済むのかしら!」


 怒り心頭という様子でくわっと振り返り、ジェシカは握りしめた拳をわなわなと震わせた。


「ことごとく、私のオアシスを奪っておいて! どの口が私を妻にしたいなんてほざくのかしら!」

「つ……妻ってことは……求婚されたの?」

「バカ言わないでちょうだい。あんなの、その場しのぎの口説き文句でしょ。口だけの言葉なんて誰が信じるっていうの」

「……ええと、もし本気だったらどうするの?」


 興味本位で疑問を口にした途端、ジェシカがぴたりと静止する。

 凍てつくような冷気を感じて身構えていると、不意にジェシカが微笑む。一見、慈愛が満ちた女神のような笑顔だが、その瞳の奥に笑みはない。あるのは無言の圧力。例えるなら、夏に起こされて不機嫌な氷の女王のような威圧感である。

 隠し切れていない怒りのオーラに身がすくんだ。女王様を怒らせたままにはできない。イザベルは弱々しい声で謝罪する。


「……その、さっきのは……気に障ったようなら謝るわ……」

「ふふ、いいのよ」


 常よりも柔らかな声は、社交用の高いトーンだ。まだ怒りのボルテージは下がっていない。

 自分の浅はかな発言を撤回のせいで、彼女を傷つけてしまった。短慮が招いた結果に、自然と目線も下がる。


「失言だったわ。本当にごめんなさい」

「そんなに気に病まないで。イザベルが落ち込んでいると、私まで悲しくなってしまうもの。さあ、レディは顔をあげて?」


 女の子を口説くような口調に戻ったのに気づき、イザベルは視線を合わせる。

 ジェシカは困ったような笑顔で、イザベルの頭を撫でた。


「八つ当たりみたいになっちゃって悪かったわ。できれば、もう一度抱きしめたいのだけど、いいかしら?」


 有無を言わせない笑顔を前に、イザベルに断る権利はなかった。

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