40. わたくしの名はイザベル・エルライン

「わたくし、は……」


 誰、なんだろう。

 自分のことのはずなのに、答えがすぐに出てこない。


(たとえ記憶があっても、前世はやり直せない。久遠雛乃はもういない。だってここは……)


 転生後の世界なのだから。

 けれども、生まれ変わる前の記憶がなくならない限り、イザベル・エルラインというキャラを完全に演じるのは無理だろう。

 どうしたって、乙女ゲームの知識と前世の人格の影響は大きい。


(まさか別人だと疑われるなんて思ってなかったけれど、あらぬ誤解は解いておかなくちゃ)


 イザベルは膝にのせていた両手をぎゅっと握り締め、うつむいていた顔を上げた。


「わたくしはエルライン伯爵家の娘であり、あなたの婚約者ですわ。とはいえ……わたくしが変わった、とジークが思われるのも当然でしょう」


 ジークフリートは無言のまま、言葉の続きを目で促す。


「婚約も何もかも、これまで家や周りの事情に流されてきてばかりでした。でも、人生は一度きり。だったら後悔しないように、わたくし自身が変わろうと思ったのです」

「……それが、いつもと違う理由というわけか」

「納得できませんか?」


 嘘は言っていない。すべてを告白したわけではないが、これで信じてもらえないなら仕方がない。前世について話しても、余計な混乱を招くだけだ。

 顎に手を当て、しばらく思案に暮れていたジークフリートは、自分の妥協点を見つけたように一人頷いた。


「いや……いろいろと腑に落ちたよ。一連の行動についても合点がいった。違和感があったのは、君の考え方が変わったからか」

「そうですね。そうだと思います」


 同意すると、ジークフリートは組んでいた足を下ろし、居住まいを正した。


「……すまない。君を疑うような真似をして。婚約者失格だな」

「何をおっしゃっていますの。わずかな変化に気づけたのは、それだけわたくしを気にかけてくれていたからでしょう? うれしいですわ」

「だが婚約者なら……どんな状況でも、最後まで相手を信じ抜かなければ」


 自責の念に駆られているのか、ジークフリートは膝にあった両手拳を強く握り締めた。

 イザベルはその上にそっと手を重ね、力が入った指先をゆっくりとほどいていく。彼は生真面目であるがゆえに、必要以上に自分を責めがちなのだ。

 労わるように、優しく諭していく。


「ずっと長く一緒にいれば、時には疑うこともあるでしょう。ですが、憶測で決めつけるのではなく、話し合う機会を作ることが何より大事だと考えます。その点で言えば、ジークはちゃんとわたくしの話を聞いてくれました。名ばかりの婚約者なら、そんな機会もなかったのではないでしょうか」

「……僕は君を大事にできているだろうか?」

「ええ、それはもう。充分なほどに」


 時として、ヒロインのフローリアよりも尊重してくれる。誠実でまっすぐな人柄を疑う気持ちはかけらもない。

 ただ、ほんの少し、疎外感を覚えるだけだ。悪役令嬢とヒロインの役は今さら変えることなど不可能だ。そして、未来の大筋は変えられない。

 ここが乙女ゲームの世界である以上、各キャラクターは用意された選択肢によって行動を変え、主人公との仲を深めていく。それがこの世界の理だ。


(だけど、ジークに優しくされるたびに、自分がヒロインのような錯覚を起こしてしまうのよね……。この恋心は隠すと決めたのに、時々、その決意が揺らぎそうなる)


 期待してはいけない。そう自分を戒め、イザベルは話題を変えた。


「ところで、ジーク。お聞きしたいことがありますの」

「なんだ?」

「わたくしの執事が……リシャールが何か失礼なことを言ったのではありませんか?」


 思いきって尋ねてみると、ああ、とすぐに納得したような声がもれた。


「彼には警告をされた。これ以上、イザベルには近づくなと」

「……は?」

「フローリアとの仲を疑われたようだ。招待したのは僕なのだから、彼女が過ごしやすいように接していただけなのだが」


 ジークフリートは、心外だというように肩をすくめる。


「それは申し訳ございません。従者の非礼は主人の監督不足です。あとでしっかり言っておきますから、どうかご容赦のほどを……」


 家の家格では、伯爵家より公爵家のほうが上だ。オリヴィル公爵家の血筋をたどると、数代前に王族から降嫁してきた姫君がいる。当代に王位継承権はないにせよ、貴族の最高位である爵位である。

 宰相として重宝され、現国王から一目置かれているエルライン伯爵家といえど、公爵家より爵位は二つ下。しかも、ジークフリートは次期公爵だ。

 イザベルが頭を下げ続けていると、顔を上げてくれ、という声が届く。


「君が謝る必要はない。リシャールの行動は、主人を思ってこその苦言だったのだろう」

「しかし……」

「それに、僕も大人げなかった。つい衝動に駆られて、君の大事な執事を遠ざけるような真似をしてしまった。折を見て、リシャールとは和解できるように取り計ろう」


 相手の意を汲んで、望む言葉を与えるのも貴族の務めである。

 彼に気を遣わせてしまったと後悔するが、儀礼的な言葉しか出てこない。


「ありがとうございます」

「いや、就寝前に君の顔が見られてよかった。おやすみ」

「……おやすみなさいませ」


 一礼して退室する。長い廊下を歩きだすと、前方に見慣れた赤茶色の髪があることに気づく。


「リシャール。待っていてくれたの?」

「ちょっと気になって……」


 珍しく素直な反応が返ってきて、イザベルは目元を和らげた。


「大丈夫よ。ジークは怒ってなんかいないわ。あなたと和解がしたいのですって」

「あの方は本当にお優しい……」


 思わずといったようにつぶやく声に、そうね、と同意した。

 リシャールは首を横に振り、翡翠の瞳をまっすぐ向けてくる。


「優しいのはイザベル様もですよ。まだ私をそばに置いてくれているのは、あなたの恩情があってこそです」

「ふふ。昔みたいに姉上と呼んでくれてもいいのよ?」

「調子に乗らないでください。私は弟ではありません。それに、その呼び方をしたのは一度きりです」

「そうだったかしら」


 とぼけたように言うと、そうです、と強く言い切られた。


(このぶんだと、見習いを卒業する日はまだ遠そうね……)


 苦笑いを隠すように窓の外を見やると、上弦の月が淡い光に包まれていた。

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