17. 婚約者の機嫌が悪いようです

 食事タイムをなんとか乗り切ったイザベルは時計の針を確認し、二人がけのソファから腰を浮かす。今は食後のまったりタイムだ。


「わたくしは予習がありますので、お先に失礼しますわ」


 今日はレオンへの差し入れも必要ない。だから急ぐ必要はないのだが、ジークフリートの横にいると、心拍数が無駄に跳ね上がるのだ。

 はっきり言って、心臓に悪い。

 フローリアとのイベントのせいだろうか。ここ最近、彼の色気が増している気がする。

 ジークフリートは読んでいた論文から顔を上げ、イザベルをじっと見つめた。


「今週も週末は忙しいのか?」

「……えっと。その、いろいろとありまして……」

「いろいろ? 二人ではできないことか?」


 珍しく突っ込んで質問をされ、イザベルはたじろぐ。だが、ここで不審に思われては今までの嘘がすべてバレる。

 瞬きとともに気持ちを切り替え、あらかじめ考えておいた理由を口にする。


「自分磨きをしているんです。ですから、当面は会えません」

「ふむ。一体、いつなら会えるんだ?」


 まずい。そこまでの問答は想定していない。

 困った末にサロンを見渡すと、遠目からでも目を引く金髪が視界に入る。先輩のお姉さま以外にも質問攻めにされているのか、困っているレオンを見て、つぶやくように言った。


「……舞踏会が終わるまで……?」


 疑問形で返すと、ジークフリートは諦めたように目線を下げた。


「そうか。ならば、無理強いするわけにもいかないな」

「ご理解いただけて何よりですわ」


 そそくさとサロンを退室しようとすると、これ幸いとレオンが後ろに続く。


「教室に戻るなら俺も行く」

「……わかりました」


 明らかに逃げてきたとわかる焦った顔に苦笑いし、二人並んで教室を目指した。


      *


 委員会の臨時会議が終わり、正門へ向かったイザベルはふと足を止めた。

 いつもなら校門のそばにリシャールが控えて待っているはずだが、そこに立っていたのはジークフリートだった。

 イザベルは足早に近づき、婚約者を見上げる。


「どうしましたか。ジークフリート様」

「僕の婚約者は多忙なようだから、我が家の車で送ることにした。これならば、時間を取らせないから問題はあるまい」

「……で、ですが。リシャールは?」


 きょろきょろと周りを見渡してみるが、彼の姿は見えない。よく見れば、エルライン家の車もない。代わりにあるのは、オリヴィル公爵家のツヤツヤに磨かれた黒いリムジン。

 ジークフリートは右手を腰に当て、淡々と説明する。


「ああ。彼なら最初渋っていたが、折れてくれたよ。お嬢様のことをお任せします、と言付かっている」


 車に乗れば、もはや退路は断たれたようなもの。

 ジークフリートが、わざわざ公爵家の送迎車で送る理由なんて、ひとつしか思いつかない。


(つまり、車の中でしかできない話ってわけね)


 週末のデートは、ことごとく用事を入れて回避している。学園の体面上、婚約者としてサロンには出席しているが、会話は当たり障りのないものだ。

 サロンではだれが聞き耳を立てているか、わかったものじゃない。

 毎回の誘いを断る理由も、そろそろネタが尽きてきた。いくら温厚の彼といえど、しびれを切らしている頃だろう。


(これはもう……腹をくくるしかない)


 イザベルは決戦の場に挑むような心持ちで、黒いリムジンに乗り込んだ。その後ろをジークフリートが続き、ドアが閉まる。

 もはや、発進した車から逃げる道は、どこにも残されていない。


(さながら、動く牢屋に閉じ込められた気分ね……)


 真向かいに座る婚約者は、取り調べを行う刑事のように、両手を重ね合わせた。


「イザベル」

「はい」

「君はクラウドと仲がいいんだな」

「え……ええ。彼はよく気がついてくれるし、話しやすいし、自慢の友人なんです」


 思ったことをそのまま伝えると、ジークフリートは眉根をきつく寄せた。


(なにか、気にさわることを言ったかしら……)


 機嫌が悪くなったのを察し、知らぬ間に非礼を働いていないか、自分の行動や言動を振り返る。

 けれど、婚約者の態度が変わるような原因は、何も思いつかない。

 困っていると、ジークフリートは硬い表情のまま、言葉を続ける。


「そして、レオン王子とも仲がいい」

「えっと……?」

「答えてほしい。僕は君に愛想をつかされたのだろうか?」


 悲しげに眉尻を下げるジークフリートを見て、イザベルは即座に否定した。


「わたくしがジークを嫌いになるはずがありません!」

「……本当か?」

「もちろんです」

「だったら、婚約破棄を申し出ることもないか?」

「……えっ……?」


 耳を疑う発言に、イザベルは目を見開く。

 ジークフリートは学生鞄から一枚の手紙を取り出した。


「先ほど、リシャールから手紙を預かった。そこには君の心変わりを示唆する内容が書かれていた。今は婚約破棄も含めて考えていると。両家の事情もあるから、すぐには無理でも、折を見て僕に相談したいと」


 イザベルはくらりとめまいがした。


(リシャール、あなたは……本当にわたくしたちを結婚させたくないのね)


 この際、専属執事の事情聴取は後だ。

 ゲームのシナリオを踏まえるならば、婚約破棄のイベントはまだ先だ。ゲームの改変は少しに留めたい。


「その手紙の内容は、事実ではありません。これまで誘いを断ってきたのは、ジークを嫌いになったからではなく、わたくしの個人的な理由からです。どうか信じてください」


 どちらの話が真実なのかを見極めているのか、ジークフリートは微動だにしない。真顔のまま、考え込んでいる。

 これは最後の一押しが必要だと踏み、たたみかけるように言う。


「わたくしから婚約破棄することは考えられません。ジークから婚約破棄されるならともかく……」

「僕が……? それこそ、ありえない話だな」


 未来の可能性を一蹴され、イザベルは視線を落とす。

 ここは乙女ゲームの世界。現在、ヒロインは白薔薇の貴公子の愛を射止める「白薔薇ルート」を攻略中である。

 白薔薇ルートに欠かすことのできない婚約破棄イベント。薔薇のゲージが一定ラインに達したとき、断罪イベントが始まるのだ。


(今はその気がないのだとしても。いずれ、わたくしは婚約破棄される)


 イザベルは自分の未来を知っている。けれども、それをジークフリートに言ったとしても到底信じてもらえないだろう。

 窓の外を見やると、見慣れた大きな門を通り過ぎたところだった。木々に囲まれた正門からの道をまっすぐ進み、エンジン音が静かになる。

 車は、エルライン家の玄関前に横付けされていた。


「到着したようですね……」


 話は終わりだと言外に告げるべく、イザベルは立ち上がる。ところが、すぐに静止する声が届く。


「少し待ってくれ。渡したいものがあるんだ」


 イザベルが再び座り直すと、ジークフリートは側面のラックを開いて、中に入っていたものを差し出した。


「僕のことを嫌いではないなら、受け取ってほしい」

「……今回も赤の薔薇ですのね」


 受け取ると、懐かしい香りがふわりと広がった。

 見事に咲き誇るさまは、さすが大輪系だ。一輪だけでも圧倒的な存在感を放つが、今回は花束になっていた。


(ジークは、意外と赤い薔薇が好きなのかしら?)


 三本の薔薇に寄り添うように、カスミソウの白い花が引き立て役になっている。多すぎず少なすぎず、手土産にちょうどいいボリュームだ。

 蕾ではなく五分咲きなのも好印象だ。家に帰ってからの楽しみが続く。花束にくくられている、ピンクゴールドのリボンも可愛い。


(でも……わたくしには、白い薔薇は贈ってくださらないのね)


 白薔薇の貴公子から贈られた、白薔薇の花束。それを受け取ったのは形だけの婚約者ではなく、フローリアだった。

 その場面を思い出すと、心にさざ波が立つ。


(仕方ないわ。わたくしはヒロインではないのだから)


 これがきっと、悪役令嬢の宿命なんだろう。

 どこか緊張感を漂わせた婚約者と、手元にある薔薇の花束を見比べる。

 受け取った花束から視線を上げ、イザベルは最大限の感謝を伝えるべく、精一杯の笑顔を向ける。


「いつも素敵な贈り物をありがとうございます。大事に飾らせてもらいますね」


 ジークフリートは一瞬息を詰まらせたのち、ぽつりとつぶやく。


「君の笑顔の方が素敵だ」

「……は?」

「なんでもない」


 ジークフリートはさっと視線をそらし、イザベルは首をひねる。


(……さっきのは幻聴?)


 攻略イベントは着々と進行している。東屋での密会デートも終わったばかりだ。

 先ほどの言葉に深い意味はない。そう信じたい。

 ジークフリートが異性として見ているのは、フローリアのはずだ。あくまで、イザベルは幼なじみであり、妹のような存在なのだから。

 そう自分に言い聞かせる一方で、心が軋んだ。理性で制御できない感情が強くなり、抑揚のない声で不満をこぼす。


「……踊らないで」

「ん?」

「舞踏会では、わたくし以外と踊らないでくださいませ」

「……イザベル?」


 不思議そうに目を丸くするジークフリートを見て、失言を悟る。


「す……すみません。今のは忘れてください!」


 口に手を当て、己の失態を恥じる。


(ああもう、恥ずかしい。考えたことを、そのまま口に出してしまっていたなんて……!)


 羞恥で顔を覆っていると、ジークフリートが遠慮がちに手を伸ばす。

 イザベルの両手を優しくほどき、まっすぐと見つめてくる。視線を縫いとめられたように、ダークブラウンの瞳から目がそらせない。


「ひとつ、聞きたいことがあるのだが」


 言葉の響きは重く、自然とイザベルも背筋を伸ばす。


「な、なんでしょうか」

「僕は君を独り占めにしてもいいのだろうか? もし、イザベルがいいというなら約束してほしい。次の舞踏会で君と踊るのは僕だけだと」


 先ほどのセリフの逆バージョンだ。

 次の舞踏会は、レオンの生誕祭。お昼から屋外でパーティーがあり、夜は舞踏会が行われる。

 とはいえ、社交界のルールを考えると、簡単には頷けない。それは公爵家令息の彼も承知しているはずなのだが。

 沈黙を破ったのは、澄んだ水底のように静かな声だった。


「イザベル。どうか僕と踊ってほしい」

「……でも、それは……」


 触れ合ったままの指先が熱い。緊張でじんわりと汗が噴き出し、堪えきれずに自分から手を離す。

 物理的に距離が開いたことで、ふっと息が軽くなる。

 ジークフリートは余裕たっぷりの微笑を向け、イザベルの心をさらに揺さぶりにかかる。


「君が僕と同じ気持ちなら、ただ頷くだけでいい。君の婚約者は僕なのだから。何も心配は要らない」


 イザベルは瞬いた。ジークフリートは口をつぐんで返事を待っている。


(ていうか、フローリア様はいいの……?)


 もしや、けんかでもしたのだろうか。

 切実に二人の関係が心配だ。親密度のゲージは、イザベルの未来をも左右する。

 自滅エンド回避を狙うなら、悪役令嬢は身を引くべきだ。けれども、罪悪感の方が上回り、誘いを断ることに躊躇してしまう。

 返答に窮している婚約者を見て、ジークフリートは諦めたように視線を下ろす。続くため息に、彼を傷つけたと理解するまでに時間はかからない。

 イザベルは早口で言葉を返す。


「約束いたしますわ。当日は、ジーク以外とは踊りません!」

「……いいのか?」

「もちろんです。わたくしはあなたの婚約者ですもの」


 断言すると、ジークフリートは安心したように笑みをこぼした。


「楽しみにしている」


 ふわりと頭を撫でられ、イザベルは視線をさまよわす。いつもと同じ行動なのに、なぜか心がくすぐったいような気持ちになる。


(意識しないようにしていたけど、サロンのときといい、この甘い雰囲気はどういうこと……?)


 ジークフリートが恋する相手はフローリア。ヒロインならともかく、悪役令嬢にまで愛想をよくする必要はない。


(はっ……まさか、天然タラシの側面もあるの? 真面目ぶっておいて?)


 もし、本人が無自覚の行動だとしたら大問題だ。熱っぽく見つめられたら、大いに誤解されるに決まっている。

 好きでもないのに、純真な女性の心をときめかせるとは、なんて罪深い男なのだろう。


(これは婚約者として注意すべき……? いや、そもそもダンスに深い意味はないはず)


 他の男性と結婚が決まり、今までの思いを断ち切るため、最後の思い出としてダンスを申し込む女性も珍しくない。

 きっと、ジークフリートは配慮してくれたのだ。

 頭ではそう理解できるのに、心臓の早鐘はなかなか静まらなかった。

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