15. その後のヒロイン
制服から着替え終わった後、イザベルは自室の革張りの椅子に腰かける。壁際でお茶の用意をしている背中を眺め、つい顔をしかめてしまう。
「ねえ、リシャール……」
「なんでしょうか。イザベル様」
打てば響くような返事は、いつもどおり。だけど今日だけは、それが一番解せない。
「あなた、わたくしに宣戦布告したのではなかったかしら?」
「さようにございます。それが何か?」
平然と言ってのけられ、イザベルは返事に詰まる。
一見無害そうな笑顔をいくら見つめても、その裏にある感情までは読めない。イザベルは駆け引きを諦め、本題に入った。
「どうして敵のお世話をまめまめしくしているのか、わたくしには謎でならないのだけど」
「執事たるもの、いついかなるときも主人のお世話が最優先ですので。私事で仕事をサボるような真似はしませんよ」
そう言いながらリシャールは、淹れたての紅茶をどうぞ、と差し出す。あまりにも自然な流れで渡され、イザベルは反射的に受け取る。
鼻腔をくすぐる香りに、思わず声がもれる。
「……今日は茶葉が違うのね」
「さすがお嬢様、よくお気づきになりましたね。これは外国の商人により買い付けてきた、南国産の茶葉です。すっきりとした甘みが特徴で、美容にもよいそうです」
「へえ、そうなの……ってそうじゃなくて! 普通は敵と認定したなら、それなりに態度が変わるものでしょう!」
声高に抗議すると、リシャールは涼しい顔で答えた。
「それはそれ、これはこれです。それに給金がなくなると、現実問題として路頭に迷うことになります」
敵地に居座るずぶとい神経は、一体どこで培われたのか。問いただしたいけれど、彼はきっとのらりくらりかわすに違いない。
イザベルは額に手をやった。
「……頭が痛くなってきたわ」
「それはいけませんね。頭痛薬をお持ちしましょうか?」
「いらないわ」
即答すると、リシャールは肩をすくめて見せた。
「……さて、お嬢様。これからどうしましょうか」
「どう、とは?」
「ジークフリート様から婚約破棄してもらう方法ですよ。なにかいい案、ありません?」
「そうね……婚約破棄されるには、それ相応の理由が必要よね」
「ですよね。私もそれで悩んでいるんです。エルライン伯爵家の評判を落とすことなく、婚約破棄をしてもらわねば、お嬢様の嫁ぎ先がなくなってしまいます」
「嫁ぎ先……なるほど、その問題があったわね……ん?」
イザベルはふと我に返り、慌てて口を手で覆った。
(……しまった! 今、リシャールとわたくしは敵同士だった!)
うっかり誘導尋問に引っかかるところだった。日常会話のように話を振られ、つい受け答えしてしまったが、仮にも宣戦布告された仲ではないか。
リシャールはこっちの動揺も予想の範疇なのか、笑顔を崩さない。
油断大敵だ。敵の罠にこうも簡単にハマってしまうなんて、不覚としか言いようがない。
(いやでも待って……。もともと、こっちも平和的な婚約破棄が目的だったのだから、ここは腹を割って話せば……)
協力者になれるのではないだろうか。敵にすると厄介だが、味方にするならこれ以上に頼もしい存在はいない。
リシャールを無言で見つめていると、彼は不思議そうに小首を傾げた。
「どうしました?」
「ひとつ、確信していることがあるのだけど」
「伺いましょう」
背筋を伸ばして話を聞く姿勢を見て、イザベルは咳払いしてから言う。
「ジークフリート様との婚約破棄だけど、何もしなくても、一年以内にされるはずよ。早ければ半年以内じゃないかしら」
「……一応聞きますが、その根拠は?」
「え。根拠……? 根拠は……フローリア様よ! 先日も東屋に二人きりでいたし、あれがただの友人の関係のはずないわ!」
自信満々で断言すると、リシャールは考え込むように、顎に人差し指を押し当てる。焦れるような数分後、やがて遠慮がちに口を開く。
「先ほどの話をまとめますと、お嬢様は婚約破棄されたいということになりますね。ですが、負け戦がどうの、とおっしゃっていませんでしたか?」
「…………」
確かに言った。そして、買わなくてもいい喧嘩を買った。
そこまで分析したところで、イザベルは自分の失態をようやく悟る。
氷のように固まった主人を見て、リシャールはイザベルの真横に立つ。椅子に腰かけたままだったため、見上げる姿勢になる。
「本題に戻りましょうか。どうやら婚約破棄はお嬢様もお望みのようですし、この際、執事と禁断の恋でもしてみますか?」
後半は耳元でささやかれ、イザベルはとっさに耳を手で隠す。
「……っ」
「ああでも、これは意外に良策かもしれませんね。ジークフリート様がイザベル様を諦めやすくなる」
「じょ、冗談じゃないわ!」
震える声を必死に抑え、立ち上がって抗議する。
(禁断の恋とか、そういうフラグを立てないで! 黒薔薇ルートなんて、一周すればもうじゅうぶん!)
このゲームの主人公はあくまでフローリアだ。つまり、彼の攻略はイザベルの管轄外である。そもそも黒薔薇ルートを二周もする気なんて、さらさらない。
それに、悪役令嬢が執事見習いに口説かれるなんてシナリオ、誰が得をするというのか。待っているのは悲恋か、悲劇の予感しかない。
というより、心の準備もできていないのに、不意打ちに口説かれるなんて心臓に悪すぎる。純情な乙女心をもてあそばないでいただきたい。
非難するように目で訴えると、リシャールは澄ました顔で言う。
「では、他の殿方に頼みましょうか。イザベル様を口説いてくださる方というと、ライドリーク伯爵あたりにでもお声がけしてみましょうか」
新たに提示された代替案に、イザベルは目を見張った。
「リシャール。ちょっと待ちなさい」
「なんでしょう?」
「紫薔薇の伯爵だけはやめて。あの人と恋仲になる噂が流れるくらいなら、わたくしは外国にでも逃げます」
「……伯爵はそこまで嫌われているのですか。私は案外、いい人だと思うんですけどね。まあ、そこまでおっしゃるなら伯爵は諦めます」
フラグをへし折った。グッジョブ! と自分を褒める。
(万が一、あの人と恋仲と疑われたら、不名誉な噂が流れるに決まってる……!)
淑女は噂話が好きだ。とりわけ、恋の話は特に。
噂はあっという間に広がり、面白おかしく脚色されたエピソードが話の種になるのは明白だ。不名誉な噂は、イザベルのプライドに関わる。
(それにしても、悪役令嬢がリシャールの本性を暴いてしまうなんて……。攻略ルートに弊害が出なければいいのだけど)
幸か不幸か、リシャールはそれ以上話を広げることはしなかった。
作戦を立て直すためというより、イザベルの動向を探るようだったが、細かいことは気にしないことにする。
(それにしても、リシャールがこれだけ婚約破棄にこだわる理由……気になるわね)
乙女ゲームのシナリオを思い返すが、動機がまるで思い当たらない。
しかし、面と向かって問いただしても、この執事見習いは簡単には口を割らないだろう。
(これは……またしても詰んだかもしれない)
*
放課後、イザベルは自分の庭でもある旧校舎にいた。
高等部に進学以降、週に数日はひとり懺悔大会を開いていたのに、ここしばらくはそんな余裕すらなかった。
(ここに来るのは……あの身体測定の日以来ね)
イザベルの涙ぐましい努力の甲斐なく、身長は一昨年と変わらなかった。今思い出しても、あのときの絶望感は相当のものだった。
(うーん。前世でも身長が低いほうだったけど、そこまで悲観することないと思うのだけど。「イザベル」は身長がコンプレックスだったから、なおさらグサリと刺さったのかしら)
人ごとのように分析していると、外から足音が聞こえてきた。
夏の暑さに対抗するように、たくましく生長した雑草を踏み越え、塀が不自然に崩れた箇所から顔を出す。
「フローリア様! こちらですわ」
手招きすると、フローリアはホッとしたように挨拶を返す。
「まあ、イザベル様。こんにちは」
「ここの入り口は狭いから、向こうの裏門に回ってくださる?」
「あちらですね。わかりました」
迂回ルートを教えると、フローリアは心得たように頷く。
裏門の鍵は前もって外してある。二メートルある門扉はさびつき、フローリアが扉を押すと、ギィギィと不快な音がする。
「いらっしゃい。こっちよ」
すぐそばの中庭へ案内すると、フローリアはきょろきょろと珍しそうに周囲を見渡す。
「こんなところに建物があったんですね」
「今は使われていない旧校舎で、ご覧のとおりの廃れ具合だから、ここには誰も来ないはずよ」
雑草は伸び放題で、景観は損なわれているが、秘密の話し合いにはこれ以上ないスポットだ。
「一人きりになりたいときに、ここへ来るの。人目があるところでは、お話なんてできないでしょう? だから、ここなら大丈夫かと思って……」
「……よかった。果たし状ではなかったのですね」
「え、果たし状?」
時代劇や決闘を彷彿とさせるキーワードが出てきて、イザベルは当惑した。
フローリアは、ええ、と深刻な顔で頷く。
「手書きの地図と一緒に『午後四時、指定した場所に来られたし』って、書いてあったものですから。なにか決闘でも申し込まれたのかと……。差出人も不明でしたし」
改めて自分のしでかしたことを説明され、イザベルは血の気が引いた。
(やってしまった……第三者の口から聞くと、自分の過ちがよくわかる。確かに果たし状みたいな言い回しだわ……)
筆跡や言い回しを変えようとした結果、裏目に出てしまった。
決闘と間違えられるような文才は、伯爵令嬢として由々しき問題がある。
「ご、ごめんなさい。わたくしが書いたとバレないように、いつもと違った文章にしようと思って……でもそうね、果たし状にしか見えない文面よね」
「いえ。花柄のかわいらしい便箋だったので、もしかしてそうではないかな、とは思っていましたから」
主人公の洞察スキルも侮れない。乙女ゲームにありがちの鈍感スキルは、まだ発動されていないらしい。
イザベルは視線をさまよわせながら、指を交差させる。
「あれから……その、嫌がらせとかはどう?」
「そうでした! 一週間前から、パタリと嫌がらせがなくなったんです! たまに先輩方からやっかまれることはありますが、許容範囲内なので問題はありません。それよりも、一体どうしたんでしょうね?」
一週間前というと、ちょうどリシャールの宣戦布告を受けた日だ。
やや強引にこじつけた取引は、守られていると思っていいのだろう。
「……理由はわからないけど、嫌がらせがなくなったのなら、よかったわ」
「そうですね。これで上下左右を気にせず、堂々と歩けますし」
さらりと告げられた衝撃的な事実に、イザベルは耳を疑った。彼女の言葉を頭の中でかみ砕き、慎重に問いかける。
「ちょっと待って……。毎日、そんな風に緊張感と隣り合わせだったの?」
「油断したら最後、何が降ってくるかわからないですから」
「なんて過酷な状況なの……」
「密偵の修行みたいで、慣れたら何とかなるものですよ」
嫌がらせをゲーム画面ごとで見るのと、現実で受けるのとでは雲泥の差があるのだろう。怖いと思った感情をなかったことにはできない。
たび重なる危機によって警戒心が強まるのは、当然の成り行きだ。
「フローリア様……」
今までの不遇に同情していると、フローリアは淑女の笑みを浮かべた。
「ですから私、もし縄で拘束された日のために、脱出テクニックも覚えました! 牢屋の鍵も、簡単なものなら開けられるように特訓しています」
「そのスキルって必要なの!?」
「人生は何があるか、わかりません。用心するのに越したことはないと、この学園に来てから実感しました」
力説するフローリアの意志は固そうだ。
(ピッキング技術を特訓するヒロインなんて、聞いたことがない……)
男爵令嬢として間違った方向に進もうとしているヒロインの姿に、イザベルはめまいがした。乙女ゲームの趣旨からも、大きく外れている気がする。
同じ令嬢として止めた方がいいのだろうが、今まで彼女にふりかかった災難を思い出し、説得は無意味だと感じた。
彼女にしたら、命の危機の連続だったのだ。
そして、イザベルはその危機を一度だけ救ったことがある。それがきっかけで仲良くなったわけだが、イザベルの内心は穏やかではない。
(ううん……シナリオが変に狂わなければいいのだけど……)
イレギュラーな出来事の連続に、予感めいた胸騒ぎを覚えた。
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