12. 誘惑と静かな嫉妬

 その後、ジェシカ経由で聞いた話によると、フローリアへのやっかみは地味に続いているらしい。ただ、たまたま通りかかったジークフリートやレオンによって、その場を脱していることもすでに数回あるとか。

 イザベルはリビングのソファに身を沈め、ひとり唸る。


「侮りがたし。これがゲーム内補正……」


 察するに偶然助けてくれるのは、好感度が高かったメンバーだろう。この場合、クラウドの出番が少ないことは喜ぶべきか。


「いかがなさいましたか、イザベルお嬢様」


 イザベルが顔を上げると、ティーワゴンでお茶の用意をしていたリシャールと目が合う。今日は燕尾服姿だ。黒のクロスタイに白手袋は、執事の王道ともいえるスタイルである。

 黒ベストの前に留められたチェーンの先には、懐中時計がつながっている。その懐中時計は、昔イザベルの父が買い与えたものだったはずだ。

 リシャールは、カップと同じ薔薇が描かれたティーポットを傾け、紅茶を注ぐ。コトン、とローテーブルにティーカップを置く動作も無駄がない。


(うーん。こうして執事らしい姿を改めて見ると、やっぱりカッコイイかも)


 だが忘れてはいけない。彼は「黒薔薇の執事」だ。この笑顔の下にはブラックな感情が眠っている。寝た子を起こすな、触らぬ神に祟りなし。

 リビングのソファから身を起こし、ソーサーを左手で持ちながら、右手でティーカップの取っ手に指をかける。


「なんでもないわ。試験結果のことを考えていただけよ」


 口をつけると、ミルクティーの優しい味がした。


「試験というと、今回はレオン殿下が一位だったそうですね。お嬢様は三位だったと聞きました」


 学校は別々だというのに、我が家の執事は、相変わらず耳が早い。

 先週は前期学力考査があり、週明けの今日は順位が掲示板に張り出されていた。

 おおかた、イザベルの順位速報についても、執事の情報網とやらで入手したものだろう。

 成績のみならず、体重の微妙な変化についても熟知し、本人の承諾なしにシェフにカロリー相談しているのだから、油断ならない。

 しかし、こういうのは気にした方が負けだ。伯爵令嬢たるもの、いかなる場合においても取り乱してはならない。

 イザベルはこれまで培ってきたポーカーフェイスを装い、言葉を返す。


「学年三位をキープできたのはよかったけど、フローリア様はやっぱりすごいわね。いきなり二位に入り込んだのだもの。びっくりしたわ」

「フローリア様というと、転入生の方ですね。学園の転入試験は難しいと聞きます。さぞ優秀なのでしょう」


 そう、フローリアは二位だった。

 学園内では誰もが驚いていたが、主人公は勤勉家という設定だった。だから、ゲームの知識があるイザベルは、この順位にむしろ納得していた。

 ただ、ゲーム内の選択肢によって順位は変動する仕組みだった。

 記憶が正しければ、試験週間の過ごし方は三パターンから選べたはず。


 一、攻略相手の親密度を上げる

 二、クラスメイトと交友を深める

 三、自宅で試験勉強をする


 イザベルはゲームのしおり機能で、すべての選択肢を試したことがある。

 三を選んだ場合、順位は一位に輝く。学年トップということで、各攻略キャラの評価がわずかに上がる一方で、レオン王子の評価がわずかに下がる。

 一を選んだ場合は、その攻略キャラと試験対策をするのだが、ドキドキして集中できなかったせいで、順位は五位になる。ただし、キャラの親密度は大きく上がる。


(つまり、クラスメイトとの試験勉強を選んだわけね)


 ちなみに、二を選んだときは親密度は変化なしだ。乙女ゲームでいえば、ノーマルエンドにつながる選択肢だ。


「よろしければ、どうぞ」


 視線を下げると、ジュエリーボックスならぬ、チョコレートボックスが目に入る。しかも豪華な三段の詰め合わせになっており、一粒一粒が宝石のようにキラキラしている。

 リシャールを見やると、光り輝くような微笑みが返される。漫画的にいえば、薔薇とキラキラのトーンが背後に散らばっているシーンだろう。


(……さしずめ、これは試験を頑張ったご褒美かしらね)


 生チョコレートの未練が断ち切れないイザベルは生唾を飲み込み、桜を模したチョコレートに手を伸ばす。

 一口食べた瞬間から、芳醇な味わいが広がり、甘美な陶酔に浸る。けれども、世の中には乙女に残酷な事実がある。


「うう……」

「どうなさいました?」

「おいしい……おいしいわ」

「それはよかったです」

「でも、夜遅くに食べさせるなんて……あなた、いい性格してるわね」

「一口や二口、大丈夫ですよ」


 これは悪魔の囁きだ。耳を傾けてはならない。

 イザベルは注意していないと、太りやすい体質なのだ。時計の針は、九時半を過ぎたところだ。

 夜の間食がどれだけおそろしいか、この執事はわかっていないのだろうか。


(くっ……太りにくい人には、この気持ちがわからない)


 リシャールは小言が多いが、基本的に、アメと鞭はアメの部分が多い。いい意味でも悪い意味でも、甘やかされている節がある。

 このお菓子の差し入れなどがそうだ。本人は労いの意味で用意してくれたのだろうが、甘い誘惑を抗う身にもなってほしい。


(はっ……もしや、試されている?)


 これまで何度もこの誘惑に負け、後悔する羽目になってきた。過ちは繰り返してはならない。そう誓ったばかりではないか。

 イザベルは声を絞り出すようにして言った。


「残りは……後日ゆっくり食べるから、取っておいてちょうだい……」

「もうよろしいのですか? まだこんなにあるのに」


 乙女とは、時に本音と逆のことを口にせざるを得ない生き物である。力なく首を横に振り、うわ言のようにつぶやく。


「いいの……もう、じゅうぶん……」


 誘惑を断ち切るため、イザベルは目をつぶる。リシャールの足音が遠のくのを確認し、最近会えていないヒロインのことを考える。


(あのハンカチ事件から、フローリア様とは話せていないのよね。かといって、人目がある場所だとゆっくりできないし。二人っきりで話せる場所、どこかにないかしら)


 学園の見取り図を頭に思い描くが、先ほど見たチョコレートが脳裏に焼きついて離れない。まるで宝石のような、あの美しい見た目は罪だ。


「イザベルお嬢様。今夜は少々肌寒いので、ブランケットをお使いください」

「ありがとう」


 膝元までブランケットを広げると、肌寒さが緩和された。


(もしも、バッドエンドが回避ができなくて、いきなり見た目が老けてしまったら……。実家を出るとき、リシャールは一緒に来てくれるかしら)


 彼がそばにいれば、どれだけ心強いだろう。代々エルライン家に仕える執事の忠誠心を疑うつもりはない。

 とはいえ、イザベル個人への忠誠となると、話は別だ。生涯を尽くして仕えたい、と思われる主人になれているだろうか。


(いや、それはないわね。伯爵令嬢としてダメ出しされ、お菓子のご褒美をもらっているようじゃ、そうなる日は遠い。……たまには、昔みたいに「姉上」って呼んでくれてもいいのに)


 イザベルは家族同然の存在だと思っているのだが、リシャールは違うのだろうか。

 敬称で呼ばれるたび、線引きされているのを感じる。その境界線はどうやったら乗り越えられるのだろうか。

 その晩、いくら悩んでも、その答えは出なかった。


      *


 思えば、その日は朝から不運の連続だった。星のめぐりが悪いとでもいえばいいのか、何をやっても裏目に出る。

 朝の爆発したような寝癖もさることながら、送迎用の車はエンジントラブルときた。徒歩で行くことにしたら、散歩中の大型犬に追いかけ回されるわ、謎の鳩の集団が行く手を防ぐわと、あらゆる妨害行為に出くわす始末。

 ちなみにリシャールは指導委員の仕事があるらしく、イザベルが朝ごはんを食べる間にすでに登校している。彼は一人だけで登校するときは送迎車は使わないので、車の不調にも気づくことはなかったのだ。

 結局、遅刻ギリギリの時間になり、イザベルは教室に駆け込むことになった。

 そして現在、まだその不運は続いていた。


(……これが注意力散漫の結果というやつかしら)


 体育の授業中、バスケットボールで突き指をしてしまった。

 だが不運はさらに続く。保健室へ向かおうと背中を向けたとき、背後から流れ玉が襲い、慌てて避けようとして足首に激痛が走った。


「イザベル、今の当たってないわよね!? どこか痛いの?」


 逆側にいたコートから真っ先にジェシカが飛んでくる。ボールは壁際に当たり、床に転がっている。


「大丈夫……でもちょっと、足首をひねったみたい」


 突き指した手をかばいながら、目線を足首に向ける。ジェシカは憐れむような視線を向けた。


「本当に今日はとことんついてないみたいね。でもどうしようかしら、担ぐとなったら男子の手を借りないと」


 今日は男女ともに体育館での授業だ。ネット越しに男子を見ると、騒ぎをいち早く嗅ぎつけてきたのか、クラウドがひょっこり顔をのぞかす。


「何か困りごと?」

「あーうん。イザベルが突き指した挙げ句、足をひねったみたいでね」

「そうなんだ。じゃあ、俺が運ぶよ」


 首の後ろとひざ下に腕が差し込まれたかと思うと、そのまま体を持ち上げられる。俗に言う、お姫様抱っこというやつだ。


「え、ちょっ……クラウド!?」

「ごめん。あまり動かないで。落ちるといけないから」

「でも! 重たいわ」

「ん? そうかな、羽みたいに軽いけど」

「……そ、そんなわけないわよ……」


 漫画みたいな台詞だが、現実はかなり重いはずだ。

 イザベルは低身長ながら肉付きはいい方だ。牛乳やチーズ、小魚や小松菜と海藻類もしっかり摂取しているのに、身長は伸びず、胸やお尻だけ肉付きがよくなっている。

 彼の細腕に、相当な負担になっているのではないだろうか。


(ああ……あとでなんとお詫びをしたらよいのか……)


 夢にまで見たシチュエーションだが、いざ現実にすると、幸せタイムに浸る余裕はまったくない。やはり、漫画やゲームは非現実の空間なのだ。


(うう……恥ずかしい……)


 羞恥心で顔全体が熱くなる。

 さっきから心音が激しいし、どうにかなりそうだ。ドキドキは強くなる一方で、うまく呼吸ができている気がしない。

 酸欠になるのも時間の問題だとイザベルが覚悟したとき、クラウドが小さくつぶやいた。


「これはナイトの登場かな?」

「へ?」


 ひたすら両手で顔を覆っていたイザベルは、反射的に手をのける。すると、社会科準備室から出てくるジークフリートと目が合った。

 ただならぬ様子と判断したのか、早足で近づいてくる。


「イザベル? どうしたんだ?」

「……ちょっと足をくじいてしまって、動けなくなったところを助けてもらったのです」

「そうだったのか。ここまで運んでくれて感謝する。彼女のことは僕が預かろう」

「よろしくお願いします」


 言うや否や、そっと降ろされる。足が地面に着き、ふらついたところをジークフリートがすかさず支えた。

 痛む右足をやや浮かし、イザベルはクラウドに向き直る。


「クラウド、腕は大丈夫? もし痛くなったら言ってね。わたくしができることなら、何でもするから!」


 息巻いて詰め寄ったせいか、クラウドは及び腰になる。


「あー……うん……本当に平気だから。それよりイザベルこそ、しっかり休むんだよ」

「もちろんよ。もう無理はしないわ。本当にありがとう」

「気にしないで。たまたま近くにいただけだから。じゃあ、またね」


 踵を返し、まるで逃げるように早足で去っていく。

 その後ろ姿が完全に見えなくなってから、ジークフリートは前髪をかきあげた。その表情はどことなく疲れている。


「……イザベル。男相手になんでもする、という約束は今後一切しないように」

「え? 相手はクラウドですよ?」

「彼も男だろう。頼むからこれ以上、僕の心を乱してくれるな」

「……わかりました」


 腑に落ちないまま了承の意を伝えると、ジークフリートは優しくイザベルの髪を撫でた。

 まさか、第二のルドガーが現れようとは思いもしなかった。今後、ジークフリートの前でうかつな発言は注意しよう、とイザベルは心に誓った。

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