第九章 少女達の未来《あした》

第一話 ルシルとリコット

「本当に戦争が終わったんですね!」

 リコットの声は弾んでいた。あの戦いでついえそうになった命を拾い、自分たちを執拗に追いかけていた戦争という死の矛先を、すんでの事で逃げ切ることが出来たのである。

 ウォール・バンガーもボロボロ、クロアも重傷ではないが負傷し、ルシルたちも軽い無数の傷を受けた。

 しかしようやく戦争は終わったのだ。これからは胸を張って誰憚ることなく生きていく事が出来る。

 幸か不幸か、ルシルにはもう何も残っていなかった。過去のしがらみも鬱屈した日々も。戦争前の記憶さえ曖昧になりかけていた。

 だが未来を見据えたとき、そこには間違いなく希望があった。リコットといっしょに生きていく、過去には想像だにしなかった輝かしい未来が。

 ところどころ破れすり切れた迷彩服の長袖から覗く、腕の切り傷すら愛おしかった。女を捨てようと決心してから、ルシルは自分を縛るあらゆる楔から解き放たれた気持ちになった。

 これからは存分にリコットと愛し合おう。たとえ人からキメラと呼ばれようともミキシング・ジェンダーとして生きる決意をした。

 ハルミドに行き、二人で生きていこう。働いて居場所を作り、お金を貯めて……まずは手術だ。生殖器の形成が上手くいけば、子供を作ることだって出来るのだ。家庭を持って、それから……夢は尽きない。

 自然と笑みが零れる。リコットは運転席の前で大きな基盤を並べて、そのひとつひとつを丁寧に眺めていた。半壊状態のウォール・バンガーの電子基板である。リコットは直るかどうかわからないウォール・バンガーの修理をずっと続けていた。ハルミドに到着するその時まで、これと共にいたいのだろう。それは修理屋としてのこだわりか、それとも苦楽を共にした思い入れだろうか。

 ルシルはそんな楽しげに作業を続けるリコットを、運転席に座って眺めていた。時折、彼女が顔を上げ、自分の頬を指さして微笑む。それでルシルは何とも言えない穏やかな気持ちになって、笑みを返した。

 フラフープのような大きなハンドルに手を乗せ、動かなくなったそれをぐっと握る。大きく歪んだ搭乗口の向こうには、ここが谷のどん詰まりであることが分かる高い崖が両脇に伸びていた。

 この谷を抜け、まっすぐに進めば、その先にハルミドがある。あたし達の未来がある。そこには多分、いえ、きっと希望が待っている。

 ルシルはそんな想いで空を仰ごうとした。

 その時。

 崖の上で何かがチカッと光った。

「何? 今、何か光っ……」

 それがルシルの見た、最期の光だった。


 リコットは、えっ? と顔を上げた。ルシルの声がしたように思ったが、聞き取れなかった。それとは別に奇妙な音が、それは風を切る音、卵の殻が割れるような音、鉄を打ち付けるような音、そしてペンキをぶちまけるような音、それらが立て続けに、ほぼ同時に響いてリコットはそれに何かを感じ取った。

 得体の知れない何か、不安、戦慄、恐怖、浮かれていた気分に覆い被さるようにそんな気持ちに取り憑かれ、リコットは運転席に目をやった。

「ルシル?」

 返事はない。

 もう一度、彼女の名前を呼び、立ち上がって返答のないそこに歩み寄った。

 運転席にルシルはいなかった。あったのは彼女の体だけ、下あごを残してその上が無くなっていた。

 彼女の背後には、まるで花が咲いたように赤黒い色が、無数の小さな肉の塊と一緒に飛び散っていた。

 ルシル? もう一度、その名前を呼ぶ。

 ルシル、ルシル、ルシル!

 何度も繰り返し、最後はとうとう叫び声になった。

 胸がドクドクと脈打ち、破裂しそうになる。息が苦しくて口を開けるが、息の仕方を忘れたかのように、そこに何も入ってこない。

 そうだ、ルシルはどこかに行ってしまったのだ、何か急ぎの用があって……でなければ自分をひとりにするわけがない。そう約束したのだから。

 リコットはそう思い立った。それ以外に考えられない。きっとそうだ。

「ルシル!」

 彼女を探そうと外に出ようとした時、何か熱いものが体の中を通り過ぎていき、その勢いに押されてリコットは床に打ち付けられた。ごとりと音を立てて細長い見知ったものが床に転げ落ちる。肉の焼けたような嫌な臭いが漂った。

 やたら鈍重な体を起こそうとしておかしなことに気づく。左腕の使い方を忘れてしまったのだ。ふと見ると、落ちているのは自分の左腕だった。恐る恐る確かめて体にそれが無いことを知った。付け根は黒く焼け焦げ、粘っこい血が塊になって垂れ落ちる。だが痛みはなかった。

 腕が取れてしまうなんて不思議なこともあるものだ。きっと体の中の……骨か関節が緩んでいたのだろう。きっとルシルもそうだ。酷いことばかりあったので体がガタついていたのだ。だから体を忘れていったのだ。やはりちゃんとメンテしなければ……。

 その時、遠くから軽い断続的な響きが聞こえてきた。タタタタンと不規則なドラミングが続きの徐々に数を増していく。鳥? 一体何羽いるのだろう。

「敵だ! 敵だぞ!」

「敵襲だ!」

 そんな叫び声が響く。

 敵? 戦争は終わったのに?

 リコットの疑問を余所にドラミングはどんどん大きくなって増えていく。そこに男や女の怒号や悲鳴が混じる。そしてそれはウォール・バンガーのすぐ近くまで迫ってきた。

「ビルド・ワーカーだ! 潰せ!」

「破壊しろ!」

 はっきりしたそんな声が聞こえて、リコットは震え上がった。しかし体を動かそうにも腕は取れたまま、バランスが悪くそしてやたら重い。

 搭乗口から何かが飛び込んできた。こぶし大のそれがリコットの足下に転がってくる。

 ひっ! と、それを見て背筋が凍る。それは手榴弾だった。

 這うようにして手榴弾を手に取ったリコットは、無様にそれを外に投げ返した。直後、ドンという爆音がウォール・バンガーを揺さぶり、入ってきた熱風がリコットを吹き飛ばした。

 運転席の横に叩き付けられたリコットは、痛みに顔を歪めてルシルを見上げる。相変わらずそこにあるのは彼女は体だけだった。

「ねえ、ルシル、戻ってきて……あなたがいないと、わたしは……」

 立て続けに三つ、同じものが投げ込まれた。それらは中で跳ねて好き勝手に転がっていく。そのうちの一つが運転席、ルシルの足下で止まった。

「だ、だめ……、そこは……ルシルの……」

 体は鉛になったかのように動かない。片方しかない腕を伸ばして、小指と薬指が変に折れ曲がっていることに気づいたが、そんなことにかまっていられない。

「だめ……だめ、なの……ルシル、ルシル……」

 必死で這って、ようやくそれを掴んだ。

 よかった、と笑みを浮かべた瞬間。

 それらが一斉に爆発して、ウォール・バンガーの上半身をバラバラに吹き飛ばした。

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