第36話 虫籠の中の双蝶
私達は奴隷だった。
もちろん初めからそうだったわけじゃない。最初は貴族でもなんでもない普通の男と女の間に生まれたごく普通の子供だった。……いや、普通とは言い難かったかもしれない。
父親は本当に碌でもない男だった。お金もないのに働きもせず、昼間から浴びるように酒を飲んでは母親に暴力を振るっていた。私には邪魔者を見るような目を向け、それが本当に嫌だったことを覚えている。
そんな男に母親が愛想を尽かすのも時間の問題だった。彼女は幼い私を残し、さっさと暴力夫のもとから逃げ出した。これだけ聞けば母親は被害者のようにも聞こえるが、身勝手に生み落としておきながら無責任に育児を放棄するなんて、私に言わせればあの女も碌でもないと言わざるを得ない。
早々に母親を失くした私だったが独りぼっちというわけではなかった。父親のことではない。そもそもこの男を父親だと思ったことなどない。
私には双子の妹がいた。あの碌でもない女に感謝することがあればファルを一緒に産んでくれたことだろう。そんなことでは相殺されないほどの恨みつらみがあるのだが。
ファルはとても引っ込み思案で大人しい子だった。私以外としゃべることはほとんどなく、四六時中怒鳴り散らす父親を前に、いつも私の背中に隠れて震えていた。ファルを守ることが私の生きる意味、いつしかそんな風に考えるようになっていた。
そんな私達に訪れた転機。妻に逃げられ、それでも酒を飲み続けた結果、財産が底をついた男のとった行動……それは目障りな二人の幼子を金に換えることだった。僅か一夜の酒代欲しさに、私達は奴隷商に売られた。でも、それは決して悪いことではないかもしれない。この地獄みたいな生活からおさらばできるのであれば、何でもいい。今が最悪なのだからこれ以上悪くなることはないはずだ。
だが、それは年端もいかない子供の浅はかな考えであったことを私はすぐに痛感する。地獄を抜けた先には更なる絶望が広がっていた。
今は女王の方針のおかげで劣悪な奴隷商はすっかりなりを潜めたが、当時はひどいものだった。奴隷に人権などなく、人として扱ってもらえないのは当然で、虐待や過剰といってもまだ生易しい程の労働を強いる事が横行していた。そのため奴隷が死ぬこともしばしば。そんな時は商品が使い物にならなくなったというだけで特に罪にも問われない。まさに奴隷にとっては不遇の時代。私達を買い取った奴隷商もその例に漏れることはなかった。
奴隷商の店に連れていかれた初日、私達は血の契約を結ばされた。それは奴隷の血を媒介にし、身体能力を極限まで弱めることによって一切の自由を奪う隷属魔法。無理やりつけられた首輪が外れない限り、命令に背くことは許されない悪魔の束縛。
そして、ここから私達の絶望の日々が始まった。
独房のような部屋に押し込まれ、本当に最低限の食事しか与えられない。小さな窓には鉄格子がはめられ、逃げ出すことは絶対に不可能。まだ幼かった私達は商品として出されることはなかったが、定期的に呼び出され調教という名の折檻を受けた。
初めの頃は泣きわめいていたファルも次第に何も言わなくなった。それは私も同じ。ボロ布ような服をひん剥かれ、裸の自分に鞭を打ちつけられる様を他人事のように見るようになっていた。感情などとうの昔に失くしてしまった。あるのはただ一つ。どうして自分達がこんな目に合わなければいけないのかという素朴な疑問だけ。
時折、鉄格子を抜けて飛んで来る蝶がひどく羨ましかった。あなたは自由に外の世界を羽ばたける。自分の行きたい場所へと行ける。それが本当に妬ましい。
完全に魂が抜けて人形と化した妹の手を弱弱しく握りながら、私はそんな事をいつも考えていた。
*
「ん……」
ゆっくりと目を覚ますと、染み一つない白い床が見える。ファラは尋常ではない倦怠感に襲われながら身体を起こすと、部屋の隅の方で頭を抱えて震えているファルの姿が目に入った。
「ファル……」
「ごめんなさい……ごめんなさい……これ以上叩かないで……!!」
うわ言の様に呟くその言葉は、奴隷になりたての時にファルが何度も叫んでいたものだ。あの時と全く同じ感覚に苛まれ、トラウマが蘇ってしまったようだ。隣にいるフランが心配そうな顔でファルの肩に手を添えている。わけのわからない状況に陥り、不安でしょうがないのは彼女も同じはずなのに、それでもファルを気遣えるのは彼女の本質が優しさであるからに違いない。
ひとまずファルの事はフランに託し、状況を確認する。自分達がいるのはなにもない真四角の広い部屋。まだ、数人眠ったままの者がいるが、クラスメートは全員ここにいる。部屋には扉が二つ。一つは普通の両開きのものだが、もう一つは明らかに頑丈に作られた鋼鉄の扉。助かるためには出口に繋がっている事を信じてあそこからこの施設を抜け出す他はない。
「い、一体どうなっているんだ? やけに体がだるいんだが」
頭の中で逃げ出す算段を組み立てていたファラにクリスが話しかける。彼はクラスの中でも動ける部類。自分やファルとは比べるまでもないが、それでもファルがあの状態である以上、猫の手でも借りたい。
「……私達は罠にはめられてしまったようです。今、私達が満足に動けないのはこれのせいです」
ファラが右腕についているミサンガをクリスに見せる。それを見てハッとした表情を浮かべた彼は慌てて自分の腕を見た。
「奴隷の証とでもいいましょうか? 恐らくこれは血の刻印による隷属魔法です」
自分達が奴隷にされたときにかけられた魔法。感染症の検査などと適当な事を言われ血液を差し出したのが運の尽きだった。自分の浅はかさにいら立ちを隠せないファラが怒りに顔を歪める。
「奴隷だと!? この上級貴族の俺様がか!?」
「奴隷に貴族も平民も関係ありません。これをされた以上、魔法の使用者に逆らうことなど絶対にできないのですから」
「その通り」
ファラとクリスが同時に声がした方へと視線を向けた。だが、そこには人影はない。なぜか声だけが部屋の中で反響している。
「よくご存じだね、お嬢さん。ひっひっひ……やっぱり君は奴隷の経験があるようだなぁ」
他のクラスメート達も声の出所を探そうとキョロキョロと顔を動かすが、部屋の中には自分達以外に誰もいない。すると、白一面だった壁の一部が横にスライドし、ガラス越しに三人の男の姿が現れた。
「ご機嫌よう、未来を担う若人達よ」
その真ん中に立っていた肥満体型の男が冷たい笑みを浮かべながら話し始める。
「窓越しの挨拶で申し訳ない。生憎、新鮮なエサに対して払う礼儀は持ち合わせていないのでね」
不穏な言葉を聞いた生徒達が目に見えて動揺を見せる中、ファラは一人頑丈な扉に目を向けた。
エサ、ですか……なるほど。そういう趣向なんですね。
奴隷時代に他の奴隷が受けていた仕打ちを見たことがあるファラにとって、これから行われるであろう事は容易に想像がつく。
「私の名はサリバン・ウィンザー。本来であれば名乗る事などしないのだが、今回は私の知っている貴族の子もいるようなので特別というわけだ。光栄に思うがいい」
サリバン・ウィンザー……聞いたことのない名前だ。少なくともレイが言っていた注意すべき貴族の中には入っていなかった。
「さて、これから諸君が行うショーについて説明してもいいのだが……百聞は一見にしかず。実際に目で見た方が早かろう」
サリバンは薄く笑うとパチンッと指を鳴らす。それを合図に普通の扉が開き、そこから白衣の男二人に腕を抱えられた担任の教師が入ってきた。そのまま投げ捨てるように教師を部屋へと入れると、白衣の男達は何も言わずに扉から出て行く。
「ど、どういうことですかサリバン卿! この作戦に協力したら私も仲間に入れてくれるという約束だったはずではっ!?」
唾を撒き散らしながらガラスに向かって吠える教師を、サリバンはつまらなさそうに眺めていた。
「五月蝿い虫ケラにはさっさと退場してもらえ」
「かしこまりました」
後ろに控えていたアクールが手に持つスイッチを押す。その瞬間、頑丈な扉が重々しい音ともにゆっくりと開いていった。
そこにいたのはグリズリーという魔物に似た何か。だが、決してグリズリーではない。なぜならその体躯も、威圧感も、禍々しさもその比ではないからだ。
これから起こり得る惨劇を事前に察知したファラは急いでフランのもとに駆け寄る。そして、両手でその目を覆い隠した。
「えっ? えっ?」
「フランさん、絶対に動かないでください」
有無を言わさぬ口調でファラが告げると、フランは黙って首をコクコクと振る。これから繰り広げられるショーは彼女のように純粋で優しい心の持ち主には見せるべきではない。
「その男を食べなさい、グリズリーマザー」
アクールが無慈悲に言い放つと、グリズリーマザーはその真っ赤な瞳を教師に向けた。
「なっ……う、嘘だぁぁぁ!!」
腰砕けになりながら逃げ出した教師を、その巨躯に見合わぬ俊敏さで距離を詰め、冒険者の剣ほどの長さのある爪をその身体に突き刺す。
「あぁあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ!!」
耳をつんざくような断末魔の声。フランの身体が強張ったのを感じたファラは、目を隠す手に力を込める。グリズリーマザーは身体から爪を抜くと、なんの躊躇もなく頭から齧り付いた。
ゴキュッ……ゴキュッ……。
静けさに包まれた部屋で咀嚼音だけが不気味に響き渡る。悲鳴は上がらない。いや、恐怖のあまり上げる事が出来ないといった方が正しい。その凄惨な様を見て、嘔吐するクラスメートもいた。クリスは吐いてはいないものの、顔面を蒼白にしながらガタガタと震えている。直接見ていないフランも、音だけで大体の状況は理解したのだろう。彼女の目から流れる涙がファラの手を濡らしていく。
誰もが目を背ける中、ファラだけはしっかりグリズリーマザーを観察していた。牙の具合、獲物をしとめる速度、凶暴性、全てを見極め生き残る確率を少しでも上げる。
この魔物は恐らくグリズリーを人為的に強化したものだ。第零騎士団の任務で同じような魔物を相手にしたことがある。その時は魔物に強化を施した研究者が生み出した魔物に食い殺されるというこの手の話ではお決まりのパターンで死んでしまい、その後処理を自分達が請け負った。今回はその危険性を失くすために隷属魔法を魔物にかけているようだ。
だが、一つ気になることがある。魔物の強化にコアを使っていると思うのだが、今目の前にいる魔物は明らかに以前討伐した強化魔物より強い。それでも零騎士のメンバーに匹敵するほどではないが、隷属魔法により戦闘力を大幅にダウンしている自分では到底勝ち目がないのは明白だった。
グリズリーマザーは食事を終えると、自分達の方に向き直る。新たな餌をもとめてぎらつく瞳は「早く『殺せ』と命じろ」と主張しているようだった。
「素晴らしいでしょ? この魔物は私が作り出した最高傑作なのですよ」
愉悦の笑みを浮かべながら、アクールが誇らしげに言った。
「この魔物の革新的な点は食した相手の魔力を力にすることができる点です。……まぁ、雇われ教師の魔力などたかが知れていますが、選ばれたセントガルゴ学院の生徒である君達であれば、それはそれは凄まじいパワーをこの子に与えてくれることでしょう!」
狂気に近い笑い声を上げるアクール。彼の言葉のおかげでファラの抱いた疑問は解決した。食べれば食べるほど強くなる魔物……なるほど、これは野放しにはできない。
「……それではメインイベントにまいりましょうか」
ひとしきり喜びを表現したところで、冷静になったアクールがファラ達に視線を向ける。
「グリズリーマザー……目の前にいる上質な餌を少しずつなぶり殺しにしてあげなさい」
冷たい声で告げられた命令。それを聞いたグリズリーマザーは待っていましたと言わんばかりに、天を見上げ高らかに咆哮を上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます