帝国軍人の専属娼婦

序章 Hotel royale

第1話 ルビー





エルリア帝国、帝都エルリア。





帝国内で最も人口が多く、栄えているここは、よく整備された河川が街を流れ、白い石畳や煉瓦造りの建物の街並みが美しい都市だ。

海に面したこの国は、貿易のための広大な港湾や豊富な海産資源を持つことから、幾度となく他国からの侵略を仕掛けられてきたという歴史を持つ。

だが、いずれも退けてこられたのは、帝国軍という強力な軍隊を持つことからに他ならない。

今から10年程前も、やはりエルリアの広大な土地や港湾を狙った隣国と戦争寸前となったが、交渉の末に回避されるに至った。

しかし人々の戦争に対する不安は経済の不安定という状況をもたらし、失業者は増え、治安は悪化。特に帝都でそれは顕著になる。

国の更なる発展の為には治安の維持は

急務で、帝国の方針でさまざまな政策が取られることとなった。






季節は短い夏を終えた、秋。

静かな夜の帝都を、息を切らして走る女の姿があった。その腕には茶色い紙袋が抱かれている。女は坂の上の住宅街に通じる石畳の階段途中で立ち止まると、呼吸を整えながらセミロングの薄茶色の髪を耳にかけた。

後ろを振り返り、誰も追ってきていないことを確認すると、ほっと胸を撫で下ろす。



「どうした?」




頭上から降ってきた声に、女はびくっと肩を震わせた。

顔を上げると階段上に、青白い月の光に照らされた青年の姿が浮かび上がった。

眼鏡の奥の知的そうな瞳がこちらを見下ろしている。

夜の闇に溶け込みそうな艶のある黒髪に、細身の体には薄手の黒いトレンチコートを纏っている。


そして、足元には二匹の犬。


二匹ともブラックアンドホワイトの毛色をしたボーダーコリーのようだ。

男の後ろでこちらの様子をじっと窺っている。



散歩でもしていたのだろうか?



男は抑揚のない静かな声で話し始めた。



「こんな夜中に女1人で出歩くとは、不用心だぞ。」


「……。」


この男に構ってる暇などない。

無言で通り過ぎようとすると、背後から、

「おい、いたか?!」

「いや、こっちに行った!」

と言う声がこちらに近づいてきた。


逃げないといけない……。


「追われているのか?」


そう問いかける男を無視して横を通り過ぎようとすると、急に腕を掴まれ、脇の暗い路地裏に連れ込まれた。

驚いて腕を振り払おうとすると、背後から抱きしめられるようにして口を塞がれる。






ぞくり、と背筋を這う冷たい気配。







殺される。





本能的にそう悟った。

逃れようともがくと、男は人差し指を自らの唇に当てる仕草で、静かにするように指示した。


「何もしない。大人しくしていろ。必ず生かして帰してやる。」


そう少し掠れた声で囁く言葉には、決して嘘ではないという響きが含まれていて、女は小さく頷いた。

追っ手たちの足音がバタバタと近づいてくる。心臓の音で気づかれるのではないかと思うくらいの早鐘を鳴らしていたが、足音は通り過ぎていった。


「……行ったようだな。」


男は小さく呟くと女を解放した。

「あ、ありがとう、ございます……。」

振り返って男の顔をよく見ると、眼鏡の奥の瞳は青い色をしていた。

暗く、深い海のような。


「こんな時間に女が出歩くな。家まで送ろう。」


あまり関わり合いたくなかったが、確かに1人よりは安全かもしれない。






帝都内を流れる川に掛かる石造りの橋。脇の階段を降りると、川の流れに沿って舗装された道に続く。川はチロチロと緩やかな音を立てている。

道中、男は会話らしい会話をしようとしなかったが、そのかわり、二匹の犬が、しきりに見上げてきたり足元をくるくると回ってきた。

「……可愛いワンちゃんですね。」

男はその一言に「そうだろう?」と反応したが、あまり感情表現が豊かではないのだろう。言葉の割に表情は乏しく、声も淡々としている。

男は屈んで2匹の頭を撫でた。


「レックスとフライだ。」


「美人さんですね。女の子ですか?」


「フライは女の子だ。」


「へぇ……。」


女も屈んで頭を撫でると、2匹は嬉しそうに体を寄せてきた。


「……驚いたな。警戒心が強くて私以外には誰にも懐かないんだが……。どうやら君のことは平気なようだ。」


男は、ふと何かに気づいたように眼鏡の奥の目を細めた。


「珍しいな。君は、赤い瞳をしているんだな。」


女もまた、その赤い瞳でじっと男を見つめた。

身体の血液が透けるような、柘榴の果実のような瞳で。


すると突然、2匹の犬が低く唸り始め、男はその方向を振り返った。



「いたぞ!」

「こんなとこにいたのかよ。」



先程、この女を追っていた男たちのようだ。

女は下がっているように言われると、威嚇を続ける犬たちの一歩後ろに下がった。


「なんだぁ?兄ちゃん。俺らはその女に用があるんだよ。 」


鼠のような小男がニヤニヤしながら近づいてくる。隣の男が大きいせいか、余計に背の低さが際立つ。


「その女を渡せ。」


「帰れ。生憎、彼女はお前達と遊ぶつもりはないらしいぞ。」


毅然と言い放つ態度が男たちの癪に触ったようだ。

「黙れ!」


「構わねぇ、殺せ!」


大男の方が、ポケットから出したナイフを構えて向かってきた。


「……!」


女は声も出せず、思わず硬直してしまう。


「身の程知らずもいい加減にしろよ。」


そう言った男が羽織っていたコートを脱ぎ捨てると、その下にはこの男の為だけに仕立てられたかのような、細身の体によく合ったシルエットの黒い将校服の姿が現れた。

そして、腰の革製のベルトから下げられたサーベル。


女はここで初めて気づいた。


戦争に対する不安は経済の不安定をもたらし、失業者が増え、街の治安は悪化の一途を辿った。

そこで帝国軍総帥の指示で治安維持の為の部隊が編成されることになる。

帝都の治安を乱す者には容赦ない彼ら。

 



特別武装治安維持部隊。




「いけない!この人は……!」

勿論、軍服の男に言ったのではないのだが、遅かったようだ。

気づいた時には、軍服の男のサーベルが大男の体を貫いていた。大男は呻き声を上げる間も無く、どさっと目の前に転がる。

「…っ……!」

たった今、目の前で失われた命と、石畳の隙間を埋めるように流れてくる血を見て、女は腰を抜かしてしまった。


「雑魚が……。」


軍服の男はサーベルを軽く振り、血を払いながら鼻で笑った。



「お、おまえ…軍人?!特別武装治安維持部隊か!」


「今更気づいたのか?間抜けめ。」



通常、特別武装治安維持部隊の隊員は二人組か複数で行動していると聞く。

1つは相手を確実に仕留めることが目的、そして、訓練された隊員とは言え、不特定多数から襲撃されるようなリスクを減らす為。

が、この男が単独で行動しているところを見ると、おそらくそれらの懸念がないということ。



つまり、部隊の中でもかなりの手練れ。

おそらく隊長格か、それに近い者。



それにしても、先程からこの男が醸し出す、嫌な緊張感は何なのだろう。

肌を刺すような派手なものではなく、じわじわと、生きながらにして足元から浸食されていくような。



そう。

まるで、蜘蛛の巣。



罠に掛かったことを察した小男は背を向けて逃げ出したが、

「レックス、フライ!」

軍服の男がそう鋭く言うと、2つの影が小男に飛びかかった。


「な、なんだこの犬……!やめろ!」


1匹が右腕に噛みつき、男が左腕で引き剥がそうとすると、もう1匹が左腕を封じる。ぎゃあ、という下品な叫び声を聞いて、軍服の男はくっくっと喉の奥で笑った。


「その二匹はただの犬じゃない。誰にでも噛み付く気性の悪さが祟って軍用犬にはなれなかったが、訓練された犬だぞ……。私が命令すれば、お前をどこまででも追いかける。」


男の言葉通り、2匹は統率された軍隊のように動いている。この男は決して単独で行動しているのではない。この二匹も彼の両手足になるのだ。

しかし、一方的にこの小男が蹂躙される様はさながら狩りのようで、目を背けたくなるものだった。


「もういい。レックス、フライ。」

「…ひ、ひぃっ!た、助けてくれ!」


血だらけになった手足を引きずりながら小男は逃げ去って行った。

戻ってきた2匹に「いい子だ。」と言葉をかけながら、軍服の男はサーベルを納める。

振り返ると女は青白い顔をしながら座り込んでいた。

「大丈夫か?」

手を差し伸べたが、怯えた表情でこちらを見ながら、一人で立ち上がって無言で走り去ってしまった。


まぁ仕方ないことだろう。


特に追う必要性も感じないので、その場から離れようとすると、1匹が何かを知らせるように顔を見上げて吠えてきた。


「どうした?」


その意志を汲み取ろうと屈む込むと、

足元にガラスの小瓶が転がっていることに気づく。




男はそれを拾い上げて、目を細めた。

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