第四章 神呪 -アルカナ-
第4章 神呪《アルカナ》①
ああ 今こそ
私はねがう とこしえの
王は示すだろう 我らの遙か道行きを
弦を掻き さんざめく
彼は征く きりひらかれた荒野の先へ
なきもせず かえりみもせず
いのることなく
かえりみられることもなく
〝殻の荒野〟 北西部
マトラ・オアシス臨時集落
ククリと最後に仕合ってから、二日。
「おや、カイト殿。何をしているのかな?」
バインダーに綴られた筆記紙とにらみ合うカイトに向けて、優しげな低音が投げかけられた。
次いで、
ククリの兄、《奏手》のウルスだ。
背後には、薄いヴェールで目元を隠した
ウルスの右手側、彼らの足にして約四歩。……立ち位置から推測するに、「エイ」と呼ばれる個体だろう。彼女たちはウルスを囲む位置と距離とを、厳格に定めているきらいがあるから。
ああ、とカイトは答える。
「夢の記録を取っているんです」
「夢を絵に。それはラナンの風習かい?」
「いえ」
首を横に振りながら、どう説明したものかと考える。とはいえ深い事情を話すのは憚られて、結局のところ、カイトは当たり障りのない言葉を紡ぐことにした。
「趣味のようなものです」
「ふむ」
興味深いモノを見たかのように、微笑みながら顎に手を当てるウルス。当たり障りのない言葉を吐くには、少し時間をおきすぎたか。
「察するに、
「よく分かりましたね」
それらしい情報を与えたつもりはなかったけれど。
わずかに訝しげな顔をしたのがバレたのだろう。彼は苦笑し、手に持つ楽器、その鈴をしゃらんと鳴らしてカイトの隣に身体を下ろした。……そういえば、ウルスはあまりラナンと同じ姿になろうとしないなと、今更ながら疑問に思う。
「私も、よく夢を見るんだ」
回答代わりの、急な告白。見返すと、ウルスは変わらず穏やかな顔でこちらを見ていた。
「
「概ねは。己の中に抱いた望みが、形をなすと」
『神呪とは己の写し身。
頂点に座する天位すら言うに及ばず、有り様は総て、使い手たるお前達自身の望みの姿に他ならぬ』
空間識の狂いそうなあの部屋で、確かにキョトーはそう言っていた。カイトやテマの神呪が、奇妙な特性を顕わしていた理由に繋がる原理の一端を。
「『紡がなければ』。――それが、私の抱く願いらしい」
ぽろろん、と、弦を爪弾く。
「ククリは、同じ母から生まれた二番目の仔だ」
順番的に、ウルスが長の長子であったということか。
「神呪の特性だろうけど、私は生まれつき、それなりの知識と意識を有していてね。……もっと沢山生まれるはずだった弟妹達が、ククリが神器を受け継いだことで死産となったのも、その場ですぐに理解した」
ククリはかつて、ラ族の神器が、母体の命ごとそれを引き継ぐ性質を秘めていると語っていた。
彼女が生まれることで母体が死んだというのなら。多産である蠍の形質を持つ彼らのことだ、さぞ多くの弟妹達を死の淵へ追いやってしまったのだろう。
「すでに、ラ族の総数が大きく目減りしていることも分かっていた。……私の
遠からず苦境に陥ることも察せたさ、と目を伏せる。
「だから私は、私達自身を歌にしようと、そう思った」
神呪がこうなったのはその時からだ、と続ける。
「それは、〝生きた証を遺すため〟?」
「それもあるね」
応えつつ、彼はひとつのフレーズを紡ぎはじめた。
ここは荒れた野 水はなく 命すらなく
けれども我ら 死することなく
我らが命尽かすとき
新たな命の糧とならん
そこに 死と名付けらるる無為はなく
されど 悲しみのみが横たわる
忘るるなかれ 地に在る殻が何者か
忘るるなかれ 生きる我らが何者か
彼が静かに歌い上げるのは、先日もククリと話した、ラ族の死生観についての詩だ。
その哀しげな内容は、文字に起こせば、きっと情熱的な曲想に合わないものに見えるだろう。けれど、いざウルスの声を介して聴けば、それが間違った印象だと分かる。
彼らは正しく、その在り方に情熱を注いでいるのだ。
「私が遺したいのは、生きた証だけではないんだ」
「なるほど。自分たちの想いや価値観、そのすべてを遺そうとしたんですね」
彼らラ族は、文字を持たない。
だから、記録や伝承はすべて歌か口伝になってしまう。
ウルス自身も、潜在的な本の筆者だったというわけだ。
「その通り。そして、ここでようやく夢の話に戻るんだ」
そういえば、話の発端は夢の話題であった気がする。
「君は、どんな夢を見るんだい?」
「僕は、自分の記憶を」
「記憶?」
「ええ。僕は元々、荒野で見つかった拾い子で。どこで生まれたのか、自分が誰なのか、どうして荒野にいたのかさえも、何も思い出せないんです」
「それが、夢に出てくると」
「本気で神呪を使った夜だけですが」
例えば、ククリと仕合った幾夜もの鍛錬。
――
でも、とカイトは続ける。
「無くしてしまった記憶自体に、僕が僕たる何かがあるんじゃないかって、そう思ってるんです」
「そうか。さしずめ、『知りたい』という望みそのものが君の核であるのだろうな」
似たような特性を持つゆえか、すんなりと納得するウルス。それから自分の杖をもたげて、しゃらんとひと振り。
「『
神呪の励起。
瞬間、彼の握る杖から七条、緋色の光が鋭く奔った。
緋色の光は方々へと散り、そのうち一つが、側に控えるエイトおぼしき少女の手首に巻き付いた。
それ以外、特に大きな変化はない。
「私の神呪は、『
率いる楽団に、士気を高揚させる曲を弾かせるものだよ」
「初めて聞く分類です」
皇帝。……大アルカナに属する言葉である以上、存在は確かに示唆されているのだけれど。
だろうね、とウルスは頷く。
「もとより、『皇帝』の使い手は少ない。寡聞にして噂も聞かない。いたとしても、片手で数えるほどだろう」
それから、小さく息をつく。
「この神呪は、次に宿るべき人を選ばせる
「うん?」
アルカナといえば、生まれた瞬間に本人の適性に合ったカタチで定着するものというイメージがある。……少なくとも、ラナンの中ではそういうことになっている。
そうでなければ、生まれてからずっと同じ識別票を首から提げることもない。
「疑問に思うのも無理はない。私ですら、気づいたのは最近なんだ」
「それが、〝夢〟ですか」
「ああ。私が仮に死んだ後、それを誰に継がせるのが最も適した選択肢なのか。それを考えさせられる夢だ」
察するに、安眠とはほど遠い夢だと思う。
「君が来たとき、そして、何を志しているのかを聞いたとき。――私は、君にこれを継がせようと本気で思った」
「えっ」
「過去の話だ。神呪に拒否されてしまったよ」
「『皇帝』に?」
「ああ。『彼には最も適した神呪が宿っている』ってさ」
……『
「君も知ってはいると思うが、神呪、いや、神呪の生み出す意思が嘘をつくことはない。……本当に、君には一番いい神呪が宿っているんだろう」
確かに、と思う。エンジュもその他精霊たちも、気まぐれに交渉を拒否したり誤魔化すことはあっても、明確な害意をもって虚言を弄することはなかった。
だから、と続ける。
「君がこの集落を離れるとき。
――エイを、連れて行って欲しいんだ」
「どういうことですか?」
理解が及ばず、問い返してしまう。
「私は、彼女に、『皇帝』を継がせようと思っている」
返答は、新たな告白。
「とはいえ、今は戦いが続く不安定な情勢だ。私達とてみすみすすぐに死ぬつもりはない、それでも、跡目諸共戦場に出るというのは、正気の沙汰ではないだろう」
「一緒に戦死してしまえば、意味がありませんからね」
「そう。そして『皇帝』はいずこかへと失せてしまう」
それだけは避けたいんだと、彼は言う。
「『皇帝』には、過去にあった所有者の知識、その一部が保持されるらしい。現に私が、生まれてすぐに弟妹の死を悟った理由がそれだしね。
私の集めた知識の束が、紡いできた歌の断片が、価値も知らない誰かに継がれてしまうのは、些か癪に障るんだ」
折角紡いだ歌たちも、唄われなければ意味がない。理解ある誰かが神呪を継ぐかどうかは、半ば博打だ。
そもそも、次の『皇帝』の所有者が楽器として神呪を発現するかも分からないのだ。それならいっそ、自身の在り方をよく知る
「……」
理解は出来る。だが、カイトはそれを快諾しかねた。胸中で、得体の知れない忌避感がその鎌首をもたげたからだ。
やはり自分は、根本的に託されるのが好きではないのかもしれない。
特に、死ぬことを前提としたものについては。
「旅の仲間としてでも、立場上問題ならば、君所有の奴隷としてでも構わない。彼女に、ラナンの世界を見せてやって欲しい。戻るのは、ゆっくりで構わない」
「戻ってくるとは限りませんが」
こちらだって、『藍鯨』が壊滅したのだ。次に組まれる遠征隊に、敗軍の生き残り、しかも下位の『魔術師』持ちが組み込まれる可能性はそう高くないだろう。
最悪、そのまま大帝国に骨を埋めることにもなりうる。
カイトの抵抗に、戻るとも、とウルス。
「『知りたい』という望みのカタチを持つ君が、一生を故郷でもない国の中で過ごすはずがない」
だからこそ、神呪はその願いを核にしたのだと。
「エイさんの同意は、あるんですか」
「お言葉ですが、カイト様」
苦し紛れのカイトの言葉に、エイが初めて口を開いた。
肩口で切り揃えられた黒髪に、黄味がかかった白い肌。目元のヴェールは綺麗に表情を隠していたが、声を聞いた今なら分かる。
彼女は、静かに激怒していた。
「マスターが、私の嫌がる決を下したとでも?」
「分かった。ごめん、失言だった」
「……ご理解いただければ、結構です」
外堀は埋められている。
「分かった。荒野に詳しい人がいてくれれば百人力だ」
そう、頷くほかない。よかったと、ウルスは笑んだ。
外交を司る彼のことだ。きっと強く拒んだところで、次の手は用意してあったのだろう。
「これで、私がやるべきことは片付いた」
「やるべきこと?」
「ああ。……トリ氏から、君の車が直ったと言伝があったからね。そろそろ別れの準備をしなければと、そう思っていたところなんだ」
ほら、と彼がオアシスの方を指さすと、確かにそこには、ゆっくりとこちらへと近づきつつある
マストの横でこちらに手を振る、辰砂の髪を持つ少女。
蠍としての半身をしまったククリだ。
「君にエイを預けることが出来ただけでも、十分だ」
返す言葉を考えるうちに、三人の前にたどり着くモストーラ。甲板部に立つククリが、制動の慣性に合わせてカイトの方へと飛び降りた。
「えいっ!」
「ちょ、うわっ⁉」
断りもなく落ちてきたククリを思わず抱き留める。勢いを殺しきれずに、そのままくるりと一回転。
社交ダンスを彷彿とさせる体勢に、カイトはにわかに気恥ずかしさを覚えてしまった。
腕を放すと、ククリはにっこり笑顔で密着していた身体を離す。カイトの胸のあたり、柔らかなぬくもりが離れたあとを、乾いた風が拭っていった。
「馬鹿、危ないだろ」
「ふふっ、でも受け止めてくれました」
「もし受け損ねたら――」
「大丈夫です、カイトさんですから」
「答えになってないぞ」
「いいんです、それで」
何がいいんだ、何が。
突っ込む気力も失って、カイトは指で眉間をもんだ。
雨降って地固まる、というべきなのか。
言い合いの緊張感が解消されてからというもの、カイトとククリは、どことなく打ち解けた関係性を構築していた。
相手の様子を窺うような言動は鳴りを潜めて、カイトは若干ぶっきらぼうに、対するククリはわずかながらも蓮っ葉に。ラ族のパーソナルスペースが元々狭めであるだけに、見る人が見れば、恋人か何かのようにも見えるだろう。
別に、そういう関係になったわけではないけれど。
それより、とククリが続きを促した。
「いかがですか、モストーラの出来映えは?」
言われて見やる。
元々ずんぐりとした雌蜘蛛のようなフォルムだったが、継ぎを当てられ、さらに重ねて補強を施されたのだろう。白く塗られたその外見は、いっそカイコガか何かのような雰囲気すら纏っていた。歩みが鈍重だったのも、おそらく重さが原因だ。
総括して。
「……ちょっと、太った?」
今モストーラに自我があったら、殴られそうな感想を零すことになる。
直截すぎますよ、とククリが小さく苦笑した。
「灌木の枯れ木だけでは足りなくて、
これで雨でも安心です、と彼女は続ける。
「運転は誰が?」
「私だよー、せんせー!」
上部ハッチがかぱりと開いて、見慣れた少女が顔を出す。
「アナンシ⁉」
驚くカイトに、ククリが横から補足した。
「彼女もこれの修繕に関わっていましたから。直すものの機能を深く理解するのは、トリ氏の意地のようなものです」
「操縦? 周りの歯車機構、すっごく細かくてびっくりしちゃった! ラナンすごい! 勉強しに行きたい!」
「勉強って……」
彼女が子どもである手前、一応敵性種族だぞ、とも言いづらい。苦笑したカイトの顔をどう読んだのか、そうだ、とククリが手を打った。
「カイトさん。折角沢山の本があるんです、工作に関する本があるなら、貸してあげてはくれませんか?」
その手があったか。
「ああ、あったはず。もちろんいいよ」
「いいの? やったー!」
やりとりを聴いて、アナンシがにわかに喜ぶ。
手すりもないタラップで諸手を挙げちゃいけません。
「はしゃぎすぎて落ちないようにね。
本は中にあるから、好きなのを選んで」
「はーい!」
危なっかしい動きのまま、アナンシが再びモストーラへと戻っていった。既に十分文字と語彙は教えてあるので、今更タイトルが分からない、なんてこともないだろう。
まあ。
貸すとは言っても、これから
(喜ばしいことだし、いいか)
元々、カイトの取り扱う本は、記された中身を求める人のためにあるものだ。こうして文字を教えた相手が、自ら欲して本を手にする。それを喜びこそすれ、嫌がる理由はどこにもなかった。
栄えある第一号へのご祝儀だ、一冊や二冊安いもの。
「カイトさん」
ククリに呼ばれる。
目を合わせると、先ほどまでの無邪気なそれとは打って変わった静かな笑顔が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「
――すべての用意が整いました」
それは、確認。
義務を履行したかどうかの、最終的な擦り合せだった。
「ああ。一矢、報えそうかい?」
「十分に」
「そっか」
これで、
「明日、ここを発つよ」
「そう仰ると思いました」
ふわり、と彼女が笑みを深くする。
「今晩、別れの宴を開こうかと思います。
カイトさん……招かれていただけますか?」
言われ、なんとなくだが名残惜しさが去来する。
時間にして一ヶ月ほど。
確かに短い滞在だけれど、過ごした日々の濃密さを考えると、とてもそうとは思えなかった。過ごした日々を名残惜しく思えるほどには、楽しめていたということだろう。
けれど、ここに居続けるわけにはいかない。
(明らかに、遅くなってる)
モストーラをちらりと見やって、考える。
(巡航速度があれくらいなら、所要時間は早く見て倍)
行方不明者が死者として取り扱われるまでの猶予は、ちょうど半年。既に、その三分の一近くが消費されている。
カイトはあくまで、
彼の国にはまだ、彼を待つ
(道中何が起こるかも分からない。ここが引き際だ)
一日でも到着が遅れてしまえば、臣民籍は抹消される。
温情や遡及などは存在しえない。
神サマが裁可するゆえに、傅く民には覆せない。
(そうなったら、テマが悲しむしね)
「……カイトさん?」
沈黙を訝しんでか、ククリが小さく問い直す。
ああ、ごめん、と、カイトは苦笑してみせた。
「ラ族にも、別れの宴があるんだなって思ってさ」
とってつけたような返答。
名残惜しく思っていながら、ずいぶんと薄情なことだ。
「別れもまた、生活の一部なんだと思ってたよ」
葬礼を持たず、死んだ仲間が遺した
なに言ってるんですか、とククリが笑う。
「生きているからこそ、別れを惜しめるんですよ」
得心する。
――死に別れ、という概念は、やはりどこまでも希薄なようだった。
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