第3章 淘汰(ベル・ゴ)終
◆
甲翅族中央集落 広場
『おお、ファラよ。私の娘よ』
初めて彼がそう言ったのは、いつのことだっただろうか。
少なくとも、それまでのファラの記憶には、彼が自分を自らの娘であると、名をファラであると、わざわざ呼んだことはなかった。
薄暗い塒の中で、ファラは天の孔を仰いだ。光のために縦に掘られた岩盤は、古びて欠けた硝子の板で綺麗に密封されている。いつだったか、ファラは誰かに、それがいわゆる亡国の遺物であると聞いていた。王たるナ氏がひとつの国を持っていた頃、精錬された名残であると。
(ああ)
そうだ。
それを語った彼女は確かに、私の母であったのだ。
甲翅の民に生まれる赤子は、人のカタチと知性を持たない。一抱えもある卵から生まれたそれは、一定の期間をおいて、
彼らが真にゴ族となるには、蛹より
だからこそ、ファラは自分の出自を知らない。
すべてのゴ族が、己の親を知らずに育ってしまうのだ。
蛹より出で、成体としてのカタチを持った彼女はすぐ、己が異質であると悟った。
頭を覆うは、緑がちな虹色の髪。
背負うのは、七色に輝く
華やかさとはほど遠い形質を持つゴ族の中では、いっとう浮いた存在であると。
集落には、同じ形質を持つ
手足も細く、甲翅もさほど堅くない。
戦場では輜重にもなれないふたりに、けれども甲翅に属する民は、干渉を避け続けていた。
今にして思えば、当然のことだと思う。
ふたりが甲翅の民を統べるもの――ベル・ゴの係累ともなれば、腫れ物を扱うようにもなるだろう。
ベル・ゴ。
二度目の生を受けてすぐ、先代より神器を奪った簒奪者。
連綿と続く甲翅の中でも、最も武勇に優れた
彼の怒りを買おうとは、誰も思うはずがないのだ。
はじめ、ファラは彼を父だと思っていなかった。
ただ、自分に教えを授ける雌に、付き従う雄であると。
だから、ファラは驚いたのだ。
そうした雄が、突如自分を娘と呼んだその時は。
だからこそ、受け入れる時期を逸してしまった。
――
ちりちりと、小鳥の歌う声がする。
父として塒を共にする彼は、既に外へと繰り出していた。
背後を見やる。古びた硝子の水差しが、清水を湛えて佇んでいる。……きっと、彼が朝露を汲んできたのだ。
「はたらきもの」
苦笑した。
父だと名乗ってみせるなら、家事のひとつやふたつくらい、娘に任せてくれればいいのに。
私はとっくに
行き先は分かっている。
塒の裏にあつらえられた、練兵場だ。
散逸した戦士達は既にその過半が戻り、再編された軍勢は、先のラナンとの会戦時にも劣らぬ意気をみせていた。今頃は、単対多の研鑽を積むべく、彼自らが軍勢と斧を交えているのだろう。
武を誉れとする甲翅の民は、かつて王たるナ氏が起こした国で、軍事を担っていたという。強固な殻を備えた甲翅の民達は、こと国土を守る戦において、無類の強さを発揮したのだ、と。
だが実は、単身あたりの攻撃力は高くない。
守ることに特化した彼らの体躯の構造は、敵を傷つけ、殺める力に欠けていた。攻める力で言うならば、《祈り手》たるラ氏のほうがよほど優れているだろう。
甲虫に、鋏も毒尾もありはしない。
だからこそ、甲翅の民の戦術は、数で圧倒することにその重点を置いていた。
神器を持たぬ民達に、神器を持つラ氏の頭を討つことは期待できない。
だが、彼女を身を挺して留め置くことならできる。
熱砂を放つ重砲も、大きさの割には鈍い剣も、すべてはラ氏の《祈り手》を留めるために編み出されたのだ。
塒の藁から身を起こす。彼からもらった一張羅――すり切れかけた小さなローブを身に纏い、出入り口たる横穴の脇、ほこりっぽい塒の割に整えられた鏡台を見る。
「……」
鱗が張った銀盤に、ファラの姿が映し出される。
その顔立ちは、やはりどこまでも母に似ていて。
『娘よ。――ファラよ』
頭の中に、穏やかに響く彼の声音がこだました。
呼びかけは、どこか己に言い聞かせでもしているようで。
わかってる、とファラは小さく頭を振った。
彼はきっと恐れているのだ。
育つほどに
己が最も愛する
「だから、願ってしまったんだよね」
己の番が、死の国から舞い戻るのを。
そう。
畢竟、
神器の求める代償は、ゴ族の誰もが知っている。
甲翅の長たる神器の主は、一度願ってしまったことを諦められない。
彼が戦を求める理由は、ファラだからこそ知っている。
ベル・ゴは翼を持つ少女、クルスィと名乗る食客に唆されてしまっているのだ。
ラ氏が奉ずる蟲神キョトー。
かの神が――時を戻すアルカナを有している、と。
だからこそ、彼は止まることが出来ない。
方策が見えぬものなら、それを求めて立ち止まることも許されたろう。見いだした解決策が時間を要するものならば、機を待つことも許されたろう。
だが、その途はクルスィが断ってしまった。
進み、そして奪うことで足りてしまうと、示したことで。
虫の知らせ、という言葉がある。悪い未来を言い当てる、説明しがたい予感や直感を示す慣用の句だ。
〝きっと、ベル・ゴの願いは報われない〟。
ファラは、そんな未来を予感していた。
深呼吸。
今は心を痛めるべき時ではなかった。
彼はきっと、ラ族の打倒を成し遂げるだろう。あらゆる敵が、あらゆる壁が、彼によって砕かれるのだ。
そう確信するからこそ、ファラの神呪は輝くのだから。
『
己の信ずる対象を、信ずる限りに守護する権能。
――彼の勝利を信じる限り、絶対不壊の壁となる。
例外は、神器の所持者の悪意だけ。
守って、守って、勝って、奪って。
それでも成し遂げられないことが分かれば。
その時は。
「私が、
どろどろとした情欲が、ほんの一言口から漏れた。
どうせ、自分は娘として愛されていない。
ファラだって、父としては彼を愛していないのだ。
歪であると笑わば笑え。
その後に後悔しても、助けてなんてやるもんか。
最後に勝つのは、
「大丈夫」
横穴から練兵場の彼を見る。巨大な斧持つ偉丈夫は、自身を取り巻く軍勢たちを軽々と蹴散らしていた。
「いくらでもやりようは有るよ。パパ」
ふわりと微笑む。
その笑みは、どこまでも無邪気で、無垢で。
彼女はまさに――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます