34:星降る中庭

 少し遠くで流れる音楽が、中庭でひっそりと佇むシェリルの耳にも届く。


(パーティが始まったのかな? リタたち、楽しんでるかしら)


 中庭には誰もいなかった。冬の終わり、まだ春と呼ぶには早いこの時期、中庭は少し物寂しい。丁寧に剪定された庭木があるばかりで、花は一輪も咲いていない。

 上着もないままやって来てしまったけれど、それほど寒くは感じなかった。夜空を見上げると星々が瞬いているし、一人で星見というものなかなか悪くない。

 本当は泣いてしまいたい気分だったが、せっかくのお化粧がとれてしまう。こんな綺麗なドレスで木登りをするわけにもいかないから、泣く場所もない。

 履きなれない華奢な靴で立ちっぱなしでいるのはちょっと辛い。シェリルは中庭の中央にある東屋に移動して、ちょこんと座った。


「……せっかく、素敵なドレスを着ているんだけどなぁ」


 小さく呟いて、シェリルは自嘲気味に笑う。

 どんなに綺麗になったって、好きな人は振り向いてくれない。シェリルにパートナーがいたってクライヴはなんとも思わないのだ。やはりせいぜい妹分といったところで、特別な女の子にはしてもらえそうにない。

 隠れているシェリルを簡単に見つけるくせに、隠しているシェリルの気持ちには全然気づいてくれない。隠すことをやめようとしてみたら、クライヴは盛大な勘違いをしているのだから、シェリルもお手上げだ。

 ここまで意識されていないと、頑張って振り絞った勇気だって萎んでしまう。

(――あ、ダメ)

 ついついクライヴのことを考えていたら、涙が滲んできた。泣いたらお化粧がとれてしまう。

 誰もいないけれど、誰かに見られそうな場所で泣くなんて嫌だ。シェリルは顔を上げて涙を飲み込もうとする。ぼやけた視界では星さえ数えることができそうにない。

 そんな時だった。


「シェリル!」


 夜闇の中で響いた声に、涙は引っ込んでいった。

 声がしたほうを見れば、そこには正装を少し乱して、息を切らしているクライヴが立っている。

「クライヴ……?」

 なんで、と思いながらもシェリルはどこかで納得していた。だって、クライヴはいつもかならずシェリルを見つけるから。彼がシェリルを探したなら、見つかってしまうだろう。

「おまえ……なんで木の上じゃないんだよ」

 はぁはぁと肩で息をしながらクライヴがそんなことを言う。もしかしてシェリルが泣いていると思って、林のほうまで探しに行ったのだろうか。

(泣きたくなっていたんだから、間違いではないわね)

 本当に、どうしてわかってしまうんだろう。そのたびにシェリルの気持ちはぐらぐらと揺らいでしまう。

「このドレスじゃ、木には登れないもの」

 揺らぐ気持ちをかき消すように、シェリルは答えた。

 ドレスの布地はとても繊細だ。木に登ったりしたらあちこちが破けてしまう。

 座ったままドレスの裾を持ち上げてみせると、クライヴはじっとドレスを見つめたあとで慌てて上着を脱いでシェリルの肩にかけた。

「おまえ、寒くないのかよ」

「それほど寒くなかったんだけど……今はあったかいわ」

 クライヴの体温が残っているので、夜風で少し冷えた身体には心地いい。

 クライヴは当たり前のようにやさしくしてくれて、シェリルもそれが当たり前なのだと受け止めているのに、どうしてうまくいかないんだろう。

 クライヴがシェリルをとても大切にしてくれているのだと、自惚れてしまいそうになる。いつもならもっと不安や疑問で頭がいっぱいになって、つい喧嘩になってしまうのに、今は不思議と穏やかな気持ちだった。

 今ならいつもよりほんの少し、素直になれるかもしれない。

 クライヴの上着をぎゅっと握りしめて、そのぬくもりが残っているうちにとシェリルは口を開く。

「……ごめんね、クライヴ」

 声は震えてしまった。

 けれど今この場には二人しかいない。聞こえてくる音楽はとてもかすかで、シェリルの小さな声をかき消してしまうほどではなかった。


「四年前、オズワルド兄様と話しているのを勝手に聞いてごめんなさい。ひどいことを言ってごめんなさい。あれから、クライヴのことをずっと避けていて、ごめんなさい……」


 泣きそうになったから、シェリルは必死でクライヴを見上げた。

 クライヴは唇を引き結び、シェリルを見下ろしながらその頬に触れる。大きな手で頬を包み込まれた。クライヴの手はとても熱くて、シェリルはその手に自分の小さな冷えた手を重ねる。

「……なんでおまえが謝るんだよ。悪いのは俺だろ」

 クライヴの指先が、シェリルの眦を撫でる。涙を拭いとるような指先の動きに、溢れ出てしまっただろうかと思う。

 見上げた先のクライヴは、泣き出しそうな顔にも見えた。四年前のあの日、シェリルが走り出した瞬間に見たクライヴの顔に似ている。


「ずっと謝れなくてごめん。傷つけてごめん。……泣かせたのに、慰めに行けなくてごめん」


 静かに落ちてくる謝罪の言葉は、雪のようにやさしく降り積もる。ふわふわと心の底に積もっては、じんわりと溶けていく。

 しばらく顔を見合わせていると、お互いに同じ顔をしていることがおかしくてシェリルは思わず笑ってしまった。だって、シェリルもクライヴも泣きそうな顔をしながら許しを乞うて謝り合っているのだ。

 ふふ、と笑うシェリルに、クライヴの顔も緊張が消えて笑みを零した。笑い合っていると小さな頃に戻ったような気がした。

 けれど見あげる先にあるのは、やさしくも真剣な顔のクライヴだった。幼い頃のように背は同じくらいではない。重ねた手だって、こんなにも大きさが違う。


「……好きだよ、シェリル」


 囁くように小さな声だけど、シェリルの耳には確かに届いた。不思議と空耳だろうかなんて心配はなかった。見下ろしてくるクライヴの青い目には、確かにやさしいぬくもりがあり、嘘ではないことを語っていたから。

 わたしも、とシェリルは口を開く。重ねた手の温度はいつの間にか溶け合うように同じになっていた。


「わたしもあなたが好きよ、クライヴ」


 素直になることはあんなに怖いことだったのに、声に出してしまうと驚くほど唇に馴染んでいた。何度だって好きだと言いたいくらいに、胸がいっぱいで少し苦しいくらいだ。

 ようやくシェリルの胸に刺さった棘が溶けたような気がする。




 どれほど見つめ合っていたかわからない。

 言葉を交わさなくても胸はどんどん満たされていくし、シェリルは時折甘えるようにクライヴの手のひらに頬こすりつけたりしていた。

「……そろそろ会場に行くか。ここじゃ冷えるだろ」

 クライヴがシェリルの頬を包む手が離れていく。あたたかさが遠ざかって、シェリルは思わず小さく「あ」と名残惜しそうに声を漏らす。

(そ、そうよね、ここにいる理由はもうないし……)

 差し出されたクライヴの手をかりながら、シェリルは立ち上がる。ふわりとドレスの裾が夜風に揺れた。暗いのでよく見えないが、ドレスが汚れていないか少し心配だ。

「……やっぱり行かなくてもいいか」

「どうして?」

 クライヴが神妙な顔でそんなことを言い出したので、シェリルは首を傾げた。シェリルとしては別にこのまま二人で話しているのも良いのだが、シェリルに上着をかしているクライヴは少し寒そうだし、お腹も空いてくるんじゃないだろうか。

「おまえのその姿を他の奴に見せたくない」

「……そんなに似合わない?」

 似合っていると思っていたけれど、人に見せたらまずいほど似合っていないと言いたいのだろうか。素敵なドレスだから、もしかしたらドレスに着られている感はあるかもしれない。

「おまえバカだろ」

 はぁ、とため息を吐き出したクライヴに、シェリルは思わずカチンときた。

「バカって何よ。言いたいことははっきり言って。だから喧嘩になるのよ」

「おまえには複雑な男心なんてわからないよなって話」

「わかった、また喧嘩したいのね?」

 シェリルは拳を握ってクライヴを睨む。

 些細な言い合いに、互いにムッとした顔になるものの、それが喧嘩に発展するようなことはなかった。この程度の言い合いなんて、以前は日常茶飯事だった。

「……他の男にそのドレス姿を見せたくないって話だよ」

「な」

 予想外の素直な言葉にシェリルは真っ赤になって言い返せなくなってしまう。

「ところでシェリル。パートナーはいないって聞いたけど?」

 少し躊躇うようにクライヴが声に出す。

 誰に聞いたのだろうと思いながら嘘がバレてしまったことにはもう危機感はなかった。

「……そうね」

 シェリルは素直に認めた。ここで意地を張っても仕方ない。

「なんでいるなんて言ったんだよ」

「複雑な乙女心はクライヴにはわからないわ」

 先ほどのクライヴの言葉を借りて言い返すと、クライヴは渋い顔をした。その顔にシェリルはくすくすと笑う。

 シェリルはそっと手を差し出してもう片方の手でドレスのスカートをわずかに持ち上げる。

「……エスコートしてくれる?」

 クライヴはその手を取って答えた。目を合わせてくすりと笑い合う。

「俺でいいなら」

「もちろん、クライヴがいいわ」

 手を重ね、音楽が聞こえる方へと二人で歩き出す。星の輝きが二人を祝福するように照らしていた。

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