第6話

***

 美紀とマスオさん、そして西村夫妻は、部屋の外に出た。

 部屋の中にいるのは、ぼくと薫。腰を抜かして動けなくなってしまった藤山老人。そして、死亡した絵美さんの恋人、武広さんだった。

 武広さんは、どうやら絵美さんの首がなくなる瞬間を見てしまったようだった。先ほど聞いた悲鳴は、武広さんのもので間違いないだろう。いったい何が起こったのか、訊きたいところではあったが、あの様子では話をするのはしばらく無理だろう。顔は青白く、無表情に、組んだ自分の手をじっと見つめている。

 ぼくはカーテンをよけて、絵美さんの死体の側に行く。

 ベランダに広がる血だまりを踏まないようにしながら、喪失した頭部を覗きこむ。切断面は斜めで、綺麗な輪切りになっていた。血管や骨が、潰されることなく、切り口を晒している。

 ふと、死体から視線をずらすと、ベランダの縁のコンクリートが一部砕けているのを発見した。自然劣化で割れたのとは違うだろう。壊れた箇所が『新鮮』であることから、つい最近壊れただろうことがわかる。ぼくは、上を見上げる。おそらく、上からなにかが降ってきて、ここにぶつかったのだろう。それはひょっとすると、絵美さんの首を切断した方法と関連があるかもしれない。だが、ベランダにそれらしいものは落ちていない。となると、下――地上にそれは落ちていったことになる。ぼくはベランダから地面を見下ろす。目立った落下物はない。

「……」割れたコンクリートの破片も見当たらないということは……

 部屋の方を振り返ると、薫がサッシの上でしゃがみこみ、ベランダを見下ろしている。

「……」ぼくは、見落としがなかったか再度確認したくなった。

「髪の毛」薫が尋ねる。「髪の毛は落ちてる?」

「……ああ、いくらかは」

「ちょびっと?」

「ああ。それほど多くない」

「ふーん……」それきり黙って、薫は部屋の中に引き返す。ぼくもそれについていく。

 窓の前のベッドには武広さんが、ドアに近い方のベッドには藤山老人が、腰を下ろしている。横を通るときに、武広さんを一瞥する。彼は無表情に固まったままだった。

 一方、藤山老人は、がっくりとうなだれて、

「どうなってるんだ。いったいどうしてこんなことに」とブツブツつぶやいている。

 部屋を出ると、他の客達がぼくらを待ち構えていた。

 美紀とマスオさん、西村夫妻……全員が確認したいことは沢山あるが、どれから始めればよいかわからない、という顔をしていた。

「他殺であることは間違いないでしょう」ぼくは言った。

「他殺……?」

「誰かに殺されたってことだよ、美紀ちゃん」マスオさんが教える。

 美紀は強ばった表情で周りを見渡す。「やっぱりこの中に殺した奴がいるってこと?」

「大丈夫?美紀ちゃん」マスオさんが美紀の肩を抱く。美紀は抵抗しない。

全員の関心は自然と犯人は誰なのか?ということに移る。

「そういえば、ここにいないのがいるだろう」秀二さんが言う。「ほら、あの犬の……なんと言ったかな?」

「江能さんですか?」

「そう。それだ」秀二さんが手を叩いてぼくを指さす

「……あの人が犯人なの?」美紀が言う。

「まだ、そう決めつける材料は無いよ」ぼくは言う。

 美紀は、唾を飲み込む。

「しかし、ここにいないのはあの犬連れの女だけだ」秀二さんが言う。「なら、一番怪しいのは彼女ではないかね?

「そういえばあの人……、昼の時からいなかった」美紀が言う。

 他の人間もうなずく。

「こんな時間です。すでに眠っているのかも知れません。ともかく何もわかっていないんです。憶測だけでもめるのはやめましょう」

「そういう君はいったい何をしてたのかね?」秀二さんがぼくに訊いてくる。

「ぼくは彼女と部屋の中にいました。皆さんは?」

 皆、一様に自分もそうだ、とうなずく。

「……」ぼくは背後に立っている薫に注意を向ける。が、薫は特に何も口を挟んでこない。「……とりあえず、そうですね。こんなことがあったわけですから、江能さんを呼んでこようと思います」

「あなたが行くんでしょうね?」秀二さんのとなりにいた悦子さんが言う。

「ええ。皆さんはとりあえず、ここにいてください。これからの対応は全員が集まってからということで」ぼくはその場から離れる。ホテルの灯りは消灯されていて、非常口の緑色の表示がずっと向こうに見えるだけだ。ただの一直線。皆の視線があるとはいえ、暗闇の中を歩くのは緊張した。

 江能さんの部屋は、反対側の最奥――つまりぼくと薫の部屋から一番離れた所にあった。これならば、先ほどの揺れや音に気がつかなくてもおかしくはない。

 ぼくはドアをノックする。

「江能さん?」返事はない。「江能さん、いますか?」何度かノックしてみたもののだめだった。

仕方がないのでぼくは引き返し、オーナーである藤山老人についてきてもらうように言う。

「反応がありません。鍵を開けてもらえますか?」

「え、ええ、了解いたしました」

「私も行く!」と申し出たのは美紀だった。意外だったのでぼくは美紀を見る。彼女は恐怖のためか身を強ばらせている。冷静な判断ではないようだ。

「……行きましょう」ぼくは言って、二人を先導して再び江能さんの部屋に向かう。

 藤山老人に鍵を開けてもらう。

「江能様。入りますよ」

 藤山老人がドアを開けた。すると、部屋は暗闇に包まれていた。

――んぐ、ぐ……ぐ……

 うめき声のようなものが聞こえる。ベッドのきしむ音も

「江能さん?」返事はない。ぼくは、部屋の中に立ち入り、パチと灯りをつける。

「――え?」間抜けな声は、誰のものだっただろう。

「……」なにかを握り、舌を出していた江能さんが、ぼくらを振り返り両手を上げる。「きゃあ!」

「……」ぼくらは無言で立ち尽くす。

 大きな白い犬――ビックが仰向けでベッドに寝そべっていた。彼は赤黒い肉棒が屹立させ、短い呼吸を繰り返している。

「あのっ、違うんです!これは……、えっと、違うんです!ね、ねぇ、ビック?そうだよね?」

 ビックはただ短い呼吸を繰り返すばかりだ。

「……」ぼくは後を振り返る。2人とも、何とも言えない表情をしていた。

「……出ましょうか」頷き合って、ぼくら三人は部屋から出た。背後では江能さんの弁解する声が聞こえていたように思う。

 共通の秘密を抱えてしまったぼくと美紀と藤山老人は、うつむき、床を見つめながら、皆の元に戻ってきた。

「どうだった?」薫が訊いてくる。

「なんと言ったらいいのか……」ぼくは2人をふり返る。

「まさか、死んでたのかね?」と秀二さん。

「いえ、元気そうでしたよ。すこぶる。もてあますくらい」

「……?なら、どうして連れてこないのかね?」

「……ともかく、彼女は犯人ではないでしょう」

「うん……」ぼくの後の美紀もうなずく。「わたしもそう思う」

「……いったい、何を見たのかね?」

 ぼくはただ首を振る。

 薫以外の三人は、いったいなんだ、という顔のままだった。薫はニコニコしている。

「……はぁ」ぼくはため息をついて、気を取り直す。「とりあえず、これからの動きを考えましょう」江能さん抜きで、と付け加える。

「待って」薫が口を開く。「その前に、閉じ込めておくべき人間が一人いる」

 皆が、薫の方を振り返る。

「――誰ですか?」そう尋ねたのは美紀だった。

「その部屋にいる、武広さん。殺された絵美さんの、彼」

「彼を?」悦子さんが声を上げる。「彼は、恋人を殺されたのよ?あなた、何言ってるの?」

「一緒の部屋にいたんだから、この中の誰よりも殺しやすい」

「しかしだな君、あんな仲睦まじい……」秀二が言う。

「……」薫は目を閉じて、黙って聞いている。

「……現場を見る限り、なにか、上から刃を落として、絵美さんの首を刎ねたのでは?」ぼくは言う。

「それはないと思う」しかし、薫は否定する。「それだったら、ベランダには、首と一緒に切断された髪の毛が沢山落ちているはず。絵美さんは髪が長くて背中まであったから。それに、風はあの時、部屋の内側に向けて吹いていた。だから、髪の毛がベランダにほとんど残っていないのは、おかしいの」

「……」ぼくは少し考えて、「髪を結わえていたかも知れない。だから、髪の毛が切られなかった、という可能性はある」

「そうだね。けど、絵美さんは、料理の時も髪をまとめてなかった。ずきんは被ってたけど。髪を結ぶ習慣のある人なら、料理の時も、そうするんじゃない?」

「……」

 ぼくらの間に重い空気が横たわり始める。

「あ、あの」 美紀がおずおずと手を上げる。「死んだ人の、彼氏さんに訊けば良いんじゃ……」

「どう答えても、私は武広さんの言葉は信用できない」薫が言う。

「あ……、そうですよね……」

「でも、確かにね。仮にギロチンみたいなもので切断したとして、いろんな条件が重なって、髪の毛が残らないことはありえる」薫が言う。「それは、地上に落ちたであろう凶器と絵美さんの頭を探せばわかることだもんね」ほほえむ。

 彼女以外は、誰も笑わなかった。

「私が言いたいのは『それ』を探し出して、無実かはっきりするまでは、一番犯行が行いやすかった武広さんは、外には出られないようにするべきだってこと――話が長くてごめんなさい」薫が頭を下げる。

 静寂が、場を支配する。

「……バリケードを張るべきじゃないか?」秀二さんが言いだす。

「でも、犯人じゃないかも知れないのよ?」と悦子さん。

「だが、犯人だったら、それを野放しにするのはまずいじゃないか」

「バリケードだけじゃなくて、縛った方が良いんじゃないですか」マスオさんが口を挟んでくる。「いや、あの、バリケードを張ってもですね、窓から、とか……」

「ううむ……、なるほどな」

「ちゃんとまだ、中に、いるよね?」美紀が部屋の中を覗く。

「だが、もう、窓から逃げようとしているかも知れない!」秀二さんが言い、武広さんのいる部屋の中に立ち入る。

「縛り上げろ!」

武広さんは無表情になされるがまま縛り上げられる。

 彼を縛り上げ終えたメンバーは、椅子などを利用して、バリケードを構築した。重みはたいしたことはないが、ドアノブは封じられ、ドアの下部には、板をかませて、内側から開かないようにする。

 ぼくと薫は、黙ってそれを眺めていた。

 横を見やる。

 薫は、ぼくの視線を受け、目をつむって首をかしげる。

 呆れるように。

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