第15話 おしっこ漏らし?事件―花火を見に行った帰りの出来事
8月下旬になってもまだまだ暑い毎日が続いている。脱臼した右肩の調子もまずまずで、吊っていた三角巾も外してよくなった。ただ、完治までは週1回は病院へ行ってリハビリをしなくてはいけない。全治3か月の怪我だった。
今週の土曜日に二子玉川で花火大会があるから行ってみたいと久恵ちゃんが言っている。数年前に行ったことがあるので、すごい人出であることが分かっていた。東京の花火大会は規模が大きいが、人出も並外れている。
ここのところ、花火はもっぱらテレビで見ることにしていた。クーラーの効いた部屋を暗くして大型テレビでビールでも飲みながら観るのが最高だと思っている。
そう言っても、行ってみたいと言って聞かない。一度行けば大変さが分かると思って出かけることにした。
◆ ◆ ◆
当日は天候が不安定で夕立もあるとの予報が出ていたので、リュックに折り畳み傘やら敷物やら飲み物を入れて出かける準備をした。
久恵ちゃんはずいぶん支度に時間がかかっている。もう2時間近く部屋に入ったきりだ。早めに行って見やすい場所を見つけておいた方が良いのにと思っていると部屋から出てきた。
浴衣を着ていたんだ。黄色地に真っ赤な大きな花柄が入っている。それに真っ赤な帯をしている。ショートの髪は浴衣にも良く似合っている。
「すごく浴衣が似合っている。とてもいいね」
「そう言っていただけると時間をかけて着たかいがあります」
「自分で着られたのなら大したもんだ」
「おばあちゃんが着付けを教えてくれました。これは崇夫パパが買ってくれたものです。成人式の着物を買ってくれるというのでそれは貸衣装でいいと言ったら、それならとこれを買ってくれました。一度だけこれを着て3人で花火を見に行きました」
「思い出の浴衣なんだね」
「だからこれを着てみたくて、そしてパパにも見てもらいたくて」
「ありがとう。とっても素敵だ」
「そういえば成人式には出席したの?」
「両親が亡くなって49日も済んでいなかったので出る気になれず、欠席しました」
「気が付かなくてごめんね。何とか出席させてあげたかった。兄貴もそう思っていたはずだから」
「もう過ぎたことです。それより早く出かけましょう」
旗の台で大井町線に乗り換えるが、浴衣姿の若い女性が目につく。下駄の心地よい音が聞こえる。でも久恵ちゃんがひときわ目立っている。これはひいき目ではない。一緒にいる僕も鼻が高いし、悪い気がしない。
もうずいぶん電車が混んできている。乗り込んで奥の方へ進む。席に座っている中年の女性が僕たち二人を見上げている。親子だろうか? でも年が近すぎる。まさか恋人同士ではいないだろう。歳が離れすぎている。そんな怪訝な顔をして見ていた。
大岡山、自由が丘でも大勢の人が乗ってくる。降りる人は少ないので電車がますます混んでくる。久恵ちゃんと身体が触れ合うくらいだ。必死で身体を離す。
ようやく二子玉川へ到着した。ほっとした。ホームは人でいっぱいだった。改札口を出ても人でいっぱいだ。まるで渋谷のスクランブル交差点を歩いているみたいだ。しっかり手を繋いで離れ離れにならないように注意して前進する。
辺りはまだ明るい。花火が始まるのは7時を過ぎて十分に暗くなってからだ。それまで明るいうちに二人が座れる場所を見つけておかなければならない。河原の方へ降りていくことにした。
幸い二人でなんとか座れる場所を見つけて陣取った。敷物をリュックから取り出して敷いてその上に久恵ちゃんを座らせる。そのすぐ隣に僕が座る。身体が密着するほど狭いが仕方がない。
久恵ちゃんが汗でびっしょりなのに気が付いた。リュックからタオルを出して汗を拭くように渡す。
「すごい汗だ、よく拭いて」
「ありがとう。こんなに人が多いとは思わなかった」
「でも何とかこうして座れてよかった。始まるまでまだ時間がある」
僕はリュックから持ってきたポカリのボトルを2本取り出して1本を久恵ちゃんに渡した。喉が渇いていたと見えて、久恵ちゃんは一息で飲み干した。僕は半分くらい飲んでまたリュックにしまった。
そして、リュックから扇子を取り出して久恵ちゃんを扇いでやる。蒸し暑いがこれで少しはマシだろう。
「さすがにパパは準備が良いからいつも感心する。だからパパと一緒だと安心していられる。本当に私の守護神ね」
「そのとおりだ。僕は久恵ちゃんをどんなことがあっても必ず守る。兄貴との約束だからね」
それに応えるように久恵ちゃんは身体を持たれかけてきた。汗の匂いの入り混じった久恵ちゃんの匂いがする。熱い腕が密着する。ちょっと暑苦しいが悪くない。
こんな蒸し暑い人ごみの中だけど今が一番良い時に思える。この感じ、どこかであった。そうだ、上京するときの新幹線の席だった。
少し眠っていたかもしれない。ドーンという音で目が覚めた。あたりは暗くなっていた。僕だけ眠っていたみたいだ。
「とっても綺麗」
「始まったんだ」
「いびきをかいて寝ていたけど、目が覚めた?」
ドーン、ドーンという音が心地よく響いて聞こえる。風向きによって時々火薬のにおいがする。久恵ちゃんはずっと見上げたまま動かない。嬉しそうなので連れてきたかいがあった。
途中で喉が渇いたというので、残っていた僕のペットボトルを「これでもいいか」と言って渡した。
何のためらいもなく一気にそれを飲み干してしまった。間接キスをしたことになるが気にも留めない様子だったが、僕は気に留めた。
花火が終わった。長いようで短い時間だった。一斉に人が立ち上がり、帰りの駅に向かって歩き出す。人が多くて動きが遅い。
電車に乗るまで小1時間もかかった。来た時と同じ通勤ラッシュ並みの満員電車だ。雨が降り出した。電車の窓がびしょ濡れだ。稲光がしている。予報どおりの夕立か? 幸い傘は準備してきているので大丈夫だ。
雪谷大塚の駅を降りても雨はやんでいなかった。というよりすごい土砂降りになっている。
「少し雨宿りする?」
「すぐに帰りたい」
そういうので、折りたたみ傘を取り出して、土砂降りの中を相合傘で歩き出す。久恵ちゃんは黙々と歩いている。いつもよりずいぶん早歩きだ。顔が少し引き攣っているように見える。
ひょっとして、我慢している? きっとおしっこを我慢している! 汗をかいたとはいえ500mlのボトルを1本半飲んでいた。それに雨に濡れて身体が冷えてきた。
それを確信したので歩調を合わせて帰り道をいそいだ。裏道の方が短いはずだが、こんな時に限って随分遠い感じがする。久恵ちゃんもきっとそう思っているはずだ。
マンションの裏口が見える。もう一息だ。エレベーターに乗って3階へ。ドアを急いで開けようとするが鍵を持つ手が震える。ドアを開けて久恵ちゃんを先に入れてやる。
久恵ちゃんは濡れた足で滑らないようにゆっくり歩いてトイレの中に消えた。廊下に水滴が垂れている。ひょっとしてと思ったが、浴衣の裾が雨でびっしょりだったので、それが垂れたのだろう。そういうことにしておこう。
水を流す音がして、久恵ちゃんが出てきた。すぐに床の水滴に気が付いて、トイレットペーパーを持ってきて、拭き始めた。すぐに手伝おうと雑巾を取りに行こうとした。
「大丈夫です。浴衣の雨水ですから、私が拭いておきます」
「分かった。まかせる。僕はお風呂の準備をしてあげよう」
そう言ってその場を離れた。すぐにお風呂の準備ができた。久恵ちゃんはまだ丁寧に床を拭いていた。疲れが見えた。
身体が冷えているからと言って、久恵ちゃんを先に入れた。いつもなら遠慮するところだが、今日はそれではお先にと言って着替えを抱えてそのまま浴室へ入って行った。
ずいぶんの長湯だった。途中で何度も「大丈夫?」と声をかけたくらいだった。ほどなく元気を取り戻して上がってきた。そして、ボトルのジュースを飲みながら言った。
「今度から花火はテレビで観ることにしましょう」
だから、そういったじゃないか! いろんなことがあったけど、僕にとってはとても楽しい花火見物だった。
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