第14話 右肩脱臼事件―転んで怪我をしたら病院に連れて行ってくれた!

7月の下旬、ここのところ暑い日が連日続いている。部長に呼ばれた。何だろう?


「川田君、今日急だけど、私の代わりに講演会と懇親会に出くれないか?」


「いいですよ」


「場所は?」


「霞が関ビルだ。講演を聞いて、簡単な報告書を書いてほしい。メモ書き程度でいいから」


「了解です」


招待状を渡された。時々、部長の代理出席を頼まれる。広報部長はほかの会社との付き合いが多い。今日は暑いから部長は行きたくないみたいだ。僕はかまわない。外勤は気分転換になる。


午後会場へ向かう。会場の受付で招待状を示し、代理で着た旨を伝え、名札を受け取る。それに講演要旨をくれるからメモ作成は簡単だ。居眠りしないで聞いて、懇親会で適当に飲んで食べて帰るだけだ。


すぐに夕食はパスすることと、およその帰宅時間を久恵ちゃんにメールした。すぐに返信のメールが入る。[絶対に飲み過ぎないで!]こちらも[了解、ありがとう]と返信した。


前回の泥酔事件で懲りているから、懇親会でのお酒はほどほどで終了して、一足早く退席することにした。


帰り際に突然、強烈なゲリラ豪雨が降り出した。傘はいつも携帯しているが、全く役に立たない。走って地下鉄への階段の入口へ向かう。


階段を2、3段降りたところで、スリップした。しまった! 右肩を下に転倒した。


右肩に激痛が走る。小さい時から雪道で滑って転ぶのには慣れているので、とっさに避けて幸い頭は打たなかった。


右の手先の位置感覚がおかしい。自分の手じゃないみたいにずれている。激痛! 右肩が痛い! 


後から続く人が「大丈夫ですか」と声をかけてくれる。「大丈夫です」と答えるが、大丈夫じゃない。何とか起き上がった。


これは大変なことになったと思った。とにかく家へ帰ろう。でも地下鉄で帰る気力がない。


入り口に戻って、大通りでタクシーを拾おうとするが、この土砂降りの雨、空車なんか走っていない。


久恵ちゃんに電話を入れる。階段で転んだから、タクシーで帰るけど、すぐには車が拾えないので帰宅が遅れると伝える。


雨の中、道路を渡って反対側のビルの軒下で空車を待つ。運よく1台、空車が通りかかったので乗車できた。一路自宅へ向かうが、右肩に激痛が続いている。


マンション前の大通りで久恵ちゃんが傘を持って心配そうに待っていてくれた。


「パパ、大丈夫?」


「ありがとう、迎えに来てくれて、階段で転んで肩を打撲した、すごく痛い」


「カバンを持つわ」


「助かる」


傘をさしてくれる。助かった! ゆっくり歩いてようやくマンションにたどりついた。


部屋に布団が敷いてあり、すぐに休めるようになっていた。とりあえず部屋着に着替えて横になるが、右肩の激痛は続いている。


水を持ってきてくれた。


「痛みはどう?」


「すごく痛い。明日の朝、病院に行くから」


「顔色もよくないから、すぐに病院にいかなきゃだめ」


「もうこんな時間だから、病院は明日でいいから」


「だめ、病院に行かなきゃ。いやでも私が連れて行く」


久恵ちゃんは119番に電話している。救急車を呼ぶのかと思いきや、近くの病院を紹介してもらっていた。


「見てもらえる病院が見つかったからこれからすぐに病院へ行きましょう」と急き立てる。そこまでしてくれたらもう行くしかない。


また、大通りへ出る。もう雨は上がっていた。時計を見るとまだ8時だ。確かにこの時間ならまだ診てもらえる。


大通りは空車がよく通る。すぐにタクシーに乗って紹介された近くの病院へ向かう。


裏口にある守衛さんのいる受付を通って院内へ入り、案内された処置室へ向かう。整形外科医が待っていてくれた。それがうら若き美人の女医さんでラッキー! すぐにレントゲン撮影をしてくるように言われた。


診断は右肩脱臼で骨折はないとのことだった。脱臼だから元に戻すと言って女医さんが腕を引っ張る。だけどとっても痛い。痛タタタ・・・・・!


女医さんは力が弱いから大丈夫かなと思ったが、何度か試みるうちにポコンとはまったのが分かった。やっぱり脱臼だった。これで一安心した。


三角巾で腕を吊ってもらって、今日の処置はここまでで、明朝再度病院へ来るように言われた。


帰りのタクシーの中で「女医さん美人だったなあ」と言うと「こんな時に不謹慎」と久恵ちゃんにひどく叱られた。それから長々とお説教された。


「こんな時に不謹慎極まりない」


「心配させて、そんなに浮かれていていいの」


「あのままにして病院に行かなかったらどうなっていたか分からないのに、自覚が足りない」


「階段で転ぶって、浮かれて油断しているからよ」


まるで小学生が母親にしかられているようだった。しょんぼりして反省した。また、借りができた。


マンションに戻ってから改めて久恵ちゃんにお礼を言った。


「ありがとう、久恵ちゃん。一人で生活していたらすぐには病院へは行かなかった。今日行かなかったら、もっとひどいことになっていた。本当にありがとう、助かった」


「私ね、パパには長生きしてもらいたいの。崇夫パパのように早死にしてもらいたくないの。長生きして私を守ってもらいたいの。だって、ママもいないし、パパのほかはもう誰もいないのよ」


「僕は死ぬまで久恵ちゃんを守り抜く覚悟だよ。兄貴と約束したから」


「私もパパを守り抜くから、絶対に死なせない」


「ありがとう」


「ママは自分のためには生きられなくとも、娘のためなら生きられるものなのよ。自分のためよりも人のためなら生きられるものなのよといつも言っていたわ」


突然、後を向いて、久恵ちゃんが泣き出した。死んだ両親を思い出したみたい。


「私、とっても悪い子なの。両親が事故でなくなったのは私のせいなの。私ね、ママが死んだら、パパの世話をするから、安心してとママにいつも言っていたの。ママはお願いねといっていたけど。ママが死んだ時のことばかり考えていたこともあるの。それはね、私がいつからかパパのことを好きになったからなの。罰が当ったのね、二人とも死んでしまった」


久恵ちゃんは、泣きじゃくるばかりだった。思わず、後から片手で抱き寄せてしまった。突然のことで身体を固くしたのが分かった。泣き止んだ。


「そんなこと考えたらだめだ。久恵ちゃんのせいじゃない。兄貴を好きになってくれてありがとう。きっと喜んでいるよ」


「一度だけ、死んだパパも今のように後ろから抱きしめてくれたことがあるの、ママのいない時に、嬉しかった。パパ、私も好きよといったら、驚いて手を放したわ。後も先もそれ1回だけだったけど」


「きっと兄貴も久恵ちゃんのことをとっても好きだったと思うよ。事故は久恵ちゃんのせいなんかじゃない。それが運命だった」


「運命って?」


「定めと言っても良いかもしれない。そう思うと楽になれる」


以前から、久恵ちゃんが死んだ両親の話をするときに見せる陰に気が付いていたが、それが何か今、分かった気がした。癒してやらないといけない。

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