第11話 英才教育の中村勝弘
東京6大学早稲田のキャプテンを勤めたエリート、主にセカンドで活躍。通算11年率.250。驚いたのは75年にホームラン16本打っていることだ。
1983年から1987年まで阪神二軍監督を務め、1986年にはウエスタン・リーグ優勝している。1988年は一軍作戦守備・走塁コーチ(途中からヘッド格)に就任するも、村山実監督と衝突して1年で辞任。よく監督とコーチが衝突するチームだ。村山が辞任して、コーチだった一枝が断ってお鉢が回ってきたラッキーボーイだ。
1990年、91年のチーム成績は最下位、同一監督指揮下での2年連続の最下位は球団史上初だった。普通なら首だった。でもあの戦力ではどうしょうもなかった。90年は八木がホームラン28本、投手では野田浩二が二桁と若い芽が出て来た。91年はオマリーが3割20本と新戦力、投手でも湯舟、猪俣、葛西と成績は未だであったが若い予感を感じさせた。
そして、忘れもしない92年がやってくる。
太洋から3割バッターだったパチョレックを取り、オマ・パチョコンビが出来上がった。
そこに亀山、新庄の亀新コンビのブーム。彼らは中村が2軍時代に育てた選手だ。ショートには新人ながら守備の名手久慈、投手では仲田幸司、湯舟が二桁、中込、野田も近い勝ち星。リリーフに変則投法の田村と投手陣は防御率12球団1位の2・90を残したのだ。先発メンバー全員の給料合わせても落合を越せないと揶揄されたが、確実の育ってきた戦力で野村ヤクルトと最後まで優勝を争ったのだ。結果は2ゲーム差の2位。
解説の江川は阪神はこのまま行くと投手王国が出来ますねと言った。私も若い子らが育つのを楽しみにした。それなのに、中村君は剛球投手の野田を出して、オリックスの松永三塁手を取ったのだ。阪急に移った野田は17勝、12勝。一方松永は故障でわずか80試合の出場にとどまる。その上翌年出来たFA制度を使ってダイエーにさっさと移って行かれた。
その上「甲子園は幼稚園の砂場」と暴言をはき、後足で砂をかけられたのだ。
このトレードがケチをつけたのか、4位、翌年も4位そして最後はお決まりの6位。折角低迷から脱すると思ったのに、また元に帰ったのである。
私は今でも恨んでいる。なんで出来上がりつつあるものを壊すのだと。野球の7割は投手力で決まるというのに、チーム作りのしっかりした方針を持っていない監督がなんで、今阪神のGMをしているのか、世界不思議大発見である。
中村監督には以上の感想しか持っていない。
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