戦国の時 旅立

0-1

一 《歩》

−1−


人という存在価値・・・

聡明な頭脳を持っている科学者。

独創的な作品を描き、世界からも評価の高いアーティスト。

契約金何十億、何百億を稼ぎだすトッププレーヤーの

スポーツ選手。


人の価値は自分自身が決められるものではない時がある。

周りの人間が評価し、価値を決める。

犬も猫も植物も人間も。

一体、自分にはどのくらいの価値があるのか・・・

その事だけが、彼の頭の中に未だにこびり付いて離れない。

彼の名は《三國 大和-みくに やまと-》

ふとまた、自分の心の中に耳を傾けていた。

大和は自分の存在に価値を見いだせないでいた一人だった。

14歳の時に両親と父親が運転する車で高速道路を走行中、

運送会社の大型トラックの横転事故に巻き込まれ、

両親を亡くした。

奇跡的に大和だけ命を取り留めた。

親戚との交流もなかったため、自ら志願し養護施設に入り

16歳まで施設で育った。

16歳からアルバイトであるが仕事を始め、

養護施設の人間が保証人となってくれたおかげで

何とか渋る不動産屋を説得でき、

賃貸の1ルームのアパートを借りられ一人暮らしを始めた。

命を取り留めたあの時から彼には、自分が生きる意味が

わからないでいた。

誰の為に生きて、何の為に生きているのか。

自分を心配してくれる人がいなかった訳じゃなかった。

色々なことを教えてくれる人も、少なからず友人もいた。

それでも彼は、自分の命の重さが感じられなく

なってしまった。

まるで風に舞い上がる空のビニール袋のような

感覚しかなかった。

あの時から、何もかも自分の中から

なくなってしまったようだった。

あの時から、空っぽの自分を知られたくなくて、

誰と接していても透明な壁を一枚へだてて

接するようになってしまった。

そんな大和にも唯一、自分の心を満たしてくれる

ものがあった。

小学校3年生のころに母親に勧められて始めた空手だった。

事故にあう14歳の時まで空手道場に通って習っていた。

事故後も自己流にアレンジし、空手を続けた。

技、力を強くすることで、自分の空っぽの心の中を

埋められる気がして、縋るように鍛錬をしていた。

当時大和と同じ空手道場に通っていた同い年の友人がいた。

彼の名が《武谷 悠士-たけや ゆうし-》という男だった。

悠士とは歳が同じということもあり一緒に練習をしたり、

組手をしたりしてよく連んでいた。

事故後も大和が唯一心を許せる友人の一人だった。

しかし、心が空っぽになってしまったまだ未熟な人間に

技、力という武器を与えていくことが

どういう影響を与えていくのかがその時は

わかるはずもなかった。

そこから先のことを大和は思い出すのをやめた。

心が乱される気がしたから。


一呼吸置き、大和は左右の指を絡めて手のひらを

天にかざすように高く上に上げた。

上げると同時に深く息を吸い込み、ゆっくりと上げた手を

下へ下ろして行く。

下ろすと同時に息をゆっくりと、けれど、

しっかりと吐いていく。

両手の掌が臍下丹田まで下りたとき、息を全て吐ききる。

と同時に自然に息が身体の中に注ぎ込まれていった。

大和は真っ直ぐに前を見ている。

厳密には目の前にいる一人の男から眼を離さないでいる。

大和と大和の目の前にいる男の周りを

多くの見物人が囲んでいる。


タイ〜バンコク〜。

今大和が立っている地。

大和の目の前の男は、身長の高い人物だ。

とは言っても180cm程であろうが、ただ腕が異常に長い。

筋肉は程よく付いていて、とても柔軟性がありそうなそれは

強力なバネを秘めているように見える。

“プラチナモンキー”という言葉が周りの見物人から

発せられている。

大和はタイの言葉はわからないが、英語で目の前の

人物のことを言っているのだということがわかる。

この場所ではおそらく有名な人物なのであろう、

大きな歓声があがっている。

手長の男はスッと素早い動きで大和との間を詰める、

大和の間合いより遠い位置から

その長い腕から発せられる拳を

大和の顔面辺りを目掛けて突き立ててきた。

2人が対立していた理由、それは闘いだった。



−2−


成田空港に大和はいた。

衣類等を入れた赤茶色の革のボストンバッグ一つと

16歳の頃から17歳までにアルバイトをして貯めた30万円。

必要最小限の生活雑貨と衣類をボストンバッグに詰め込み

大和は日本を出る決意をしていた。

行き先はどこでもよかった。

この地にいることが自分が犯してしまった罪を償う

最善の方法ではないと思ったから。

大和は17歳の頃に大きな罪を犯している。

人を殺した。

その殺した人物の名は“武谷悠士”。

唯一心を許す友人を大和は殺めてしまった。

実刑判決は、殺してしまった経緯が必ずしも

故意的にしたことではないことと

本人が著しく反省していることから3年の懲役となった。

判決では故意的に殺したのではないと下されたが、

当人の大和はそうは思っていなかった。

大和は悠士に自分を殺させようとしたのだった。

自分を殺させるため、悠士を殺そうとし、拳を振るった。

大和と悠士は拳を交え闘った。

大和は自分自身を葬ろうと。

悠士は大和を救おうと。

悠士には大和を殺す意思は毛頭なかった。

たとえ自分が殺されようとしていても、悠士は大和に対し

“お前を殺すことはしない”と言った。

大和も悠士を本気で殺すことなどできるはずはなかった。

しかし、本気で振るったその拳には

人を殺せるほどの力があり、

結果的に悠士は、その闘いの3日後に

脳挫傷の影響で命を落とした。

彼の死は自分に原因があると自ら出頭し、

大和は懲役3年の判決で刑務所に入った。


服役を終えた大和はすぐに悠士の両親の元を尋ねた。

悠士の両親は大和のことをよく知っていて

身寄りのない大和のことを気遣い

とても良くしてくれた。

その両親に顔向けできるはずがないのは

重々承知していたが、

ただ心の底から謝りたかった。

自分の命をその場で捧げてもいいとも思った。

しかし、悠士の両親は大和を責めることはしなかった。

悠士を死に追いやったことを何も思っていないわけはない。

本心は心の底から怒りを覚え、

悲しみに打ちひしがれている。

しかし、大和を責めることはしない。

当時の大和の精神状態がおかしかったことも知っていたし、

何より、悠士から死ぬ前日に大和のことを想う言葉を

聞いていたからだった。

その悠士の大和を想う気持ちを両親も受け継いだ。

だから悠士を心から愛していた彼の両親は大和を責めず、

大和のことを想ったのだ。

居間に通され、責めるどころか自分のことを

気遣ってさえくれる彼の両親に

深く心の底から頭を下げ、謝罪の言葉を伝えた。

涙は一切流さなかった。

“涙を流すくらいなら、もっと他にやることがあるはずだ”

彼はそう思っていたから。

必死に働いてお金を両親に毎月受け取ってもらおう。

自分のやれることをなんでもやろう。

その意思を両親に伝えた。

悠士には5つ下の弟と8つ下の妹がいた。

悠士の代わりにその二人にやれることは

なんでもやるとも伝えた。

しかし、悠士の両親から伝えられた言葉は、

“自分が幸せになれることだけを考えて生きなさい”

という言葉だった。

悠士が両親に伝えた大和に対する想いとは

“大和に幸せになってほしい”という言葉だったのだ。

両親から悠士の想いを伝えられた瞬間、

大和の目から涙だけが止めどなく溢れ出てきた。

“涙なんか流しては駄目だ”

必死に歯を食いしばながら我慢をしても、

その涙を止めることはできなかった。


悠士の想いを知っても、

大和は自分を許すことができないでいた。

自分の幸せが悠士の両親、兄妹の

罪滅ぼしだとすれば良いのか。

しかし、自分の存在が却って

苦しませてしまうのではないのか。そうも思った。

どうすればいいのか分からないままだが、

大和は日本から出ようと決断をした。

自分の存在が悠士の両親、兄妹のいるこの場所に

いてはいけないのではないかと思ったから。

服役前にアルバイトで貯めた30万円と

衣類等を詰めたボストンバッグだけを持って

国外に旅立つ決意をした。

パスポートを取得し、行き先はタイに決めた。



−3−


タイのスワンナプーム国際空港。

大和は飛行機から空港内に降り立つと、

両替所で3万円をタイのバーツというお金に換金し、

行き先を考えた。

タイのことは良く知らなかったが、

タイの首都がバンコクであることは知っていた。

とりあえず、泊まるホテルの確保もしなければ

ならなかったので、バンコクに向かうことにした。


スワンナプーム国際空港からタクシーに乗り、

30分ほど走るとバンコクの中心部が見えてきた。

バンコクは大和が想像していた以上に近代的で

魅力的な街だった。

乗車中、タクシーのドライバーと片言の英語で

少しやりとりをして得た情報によると

安い宿泊宿を探しているのなら

“カオサン・ロード”という場所が良いということなので、

行き先は“カオサン・ロード”にした。


カオサン・ロードに到着し、料金を支払う。

450バーツほどかかった。

カオサン・ロードに降り立つと、

バンコク中心部よりも少し庶民的な感じだった。

ヨーロッパや、アジア圏からとみられる

数多くの旅行者が行き来していた。

その大半はバックパッカーと呼ばれる

バックパックを背負った旅行者だった。

まず宿泊する場所を決めるため、

ホテルと思われる場所を探した。

所持金は全部で30万円しかないので、

なるべく安そうな宿泊宿を探す。

それらしい場所に行き、宿泊できることを確認できると

まず料金を聞き、また別の場所に行った。

色々まわり、料金が一番安かったホテルに泊まるため。

10件ほどまわった中で200バーツで泊まれる宿に決めた。

ゲストハウスと呼ばれる安宿で、空いている部屋の中で

一番安い部屋にしてもらった。

部屋に入ってみると窓がなく、壁の上方あたりに

扇風機が取り付けられていて

白いシーツでバネなども入っていないベッドと

その横の壁際に小物置きのような

小さな木の棚が置いてあった。

日本にいる時の刑務所とさほど変わらない雰囲気だと

大和は思った。

とりあえず荷物を棚に置き、ベッドに横たわる。

現金に関しては常に身につけていた。

日本と違い、ホテルだからといって

信用できるものではないという情報をどこかで

耳にしていたから。

天井を眺めながらこの旅の目的を考えていた。

命とは何か。

悠士が自分の命と引き換えに教えてくれたこと。

悠士の想い、悠士の両親が言ってくれた想い、

その想いをしっかりと受け入れられるようになった時、

その想いに答えられるようになった時、

初めて悠士の両親・兄妹のいる日本に帰ることができる。

そう思っていた。

その答えを見つける旅でもあった。

数分後、移動の疲れもあってか、

大和はそのまま眠りに入ってしまった。


3時間ほどの時間が経過した時、大和は目を覚ました。

ベッドから起き上がり、腰を落とした。

立ち上がって、日本円27万円の現金が入った封筒を

取り出し、あたりを見回した。

どこか隠す場所を探していた。

棚の中や金庫の中などに入れておいても

窃盗が入った時に真っ先に確認されてしまう。

そのためにもっと別の場所を探していた。

天井を見ると灯りは丸型の白いカバーの付いた

蛍光灯だった。

大和は木の小物入れの棚を灯りの下まで移動して

その上に乗り、

蛍光灯のカバーをまず外した。

カバーを外すと、蛍光灯が抜き出しの状態になった。

大和は一旦棚から下り、自分のボストンバッグの中から

ガムテープを取り出した。

何か必要になると思い、日本で購入していたもの。

そのテープを現金の入った封筒の上から貼り付け、

大和はまた棚の上に乗り

蛍光灯の横に貼り付けた。

そしてカバーを取り付けて見えなくした。

大和は外に出る用意をしていたのだった。

ホテルに現金を隠したのは、

外出した際に現金を全部持って行ってしまったら、

外でスリなどの被害にあった時、

全財産を失うことになるため、

日本円はホテルに残すことにした。

身寄りのない大和に今現金がなくなってしまっては誰も

頼れる人がいないからだ。

移動した棚を元の位置に戻し、

バーツの入った財布のみを持って、

大和はゲストハウスを出た。


外に出るとあたりはもう暗くなっていた。

昼間よりも人通りは少し落ち着いたように思える。

昼間は衣類や雑貨などのお店の方が

活気付いていたように思えたが、

今は飲食店が活気付いているようだ。

店内ももちろんだが、

飲食のお店の前に並ぶテーブルと椅子にも

様々な人種の人間が酒を酌み交わしていた。

とは言っても地元タイの人間の方が多いことは確かだが、

大和が思っていた以上に外国人とみられる人種の数が

多いことに驚いていた。

夜になっているにもかかわらず、まだ気温は少し高い。

屋台を見回し、大和も食事をとることにした。

あちこちに並ぶ出店でよく目にする、

日本でいう焼きそばのような食べ物を購入することにした。

“パッタイ”と呼ばれるタイ風焼きそばで、

このカオサン・ロードでは定番なのであろう、

数多くの店が存在する。

最初に麺の種類や具材を選び、自分なりにチョイスできる。

料金は25バーツだった。

その出店には横にテーブルと椅子が備え付けられていて、

そこで食べることができた。

大和は椅子に座り、そこで食べることにした。

夜のカオサン・ロードは昼間とは違い、

やはり少し危険な雰囲気を醸し出していた。

酔っ払った欧米人なども大声で騒いでいたり、

随分とガラの悪そうな地元民と思われる人間も

あちこちで見かけた。

大和はパッタイを食べ終えると

少しカオサン・ロードを歩いてみることにした。

様々な店のネオンと雑音が

大和の頭の中の雑念を打ち消し合ってくれる、

そんな気がした。

静かな場所では、自分の想いに

潰されてしまいそうになってしまうため、

昔からよく都会の雑踏の中を歩いたりしていた。


20分ほどぶらぶらと通りを歩いていると

突然一人の男が大和に声をかけてきた、

近づいてくるなり大和の体をジロジロと見回していく。

タイ語でぺちゃくちゃと大和に話しかけてくるが、

タイ語がわからない大和にはまったく通じていない。

男は言葉が通じないとわかると英語で

“Are you Chainese?”と言った。

大和は“Japanese”と答えるとその男は片言の日本語を

話し出した。

男は日本語でいい体をしているから格闘技の経験があるのかと聞いてきていた。

大和はTシャツの上にシャツを着ていたのだが、

歩いている際に暑くなったので

そのシャツを腰に巻いていた。

そのためTシャツの上から筋肉質の体がよく見えたらしい。

大和は男の問いに空手をやっていたと答えると、

男は腕試しをしないかと誘い始めた。

大和は即答で断った。

そんなことをするためにここに来たわけではないのだから。

大和はそのまま歩き出したが男はしつこく誘ってきた。

最終的には大和の腕を掴み、半ば強引に

路地裏の方へ連れて行ってしまった。


路地裏を進むと少し開けた場所に出た。

観光客などは殆ど来ないような奥の奥にある路地裏。

その場所に多数の地元民と思われる人間と

数名ではあるが欧米人やアジア人の姿もあった。

円状になって人々が並んでいる中に男が二人、

面と向かって立っていた。

誰が見てもわかるような闘いの光景であった。

両者構えを取り、攻撃を仕掛けるタイミングを

見計らっている。

一人はアジア系の人種でタイの人間ではないように思える。

歳は20代半ばくらいだろう。

一人は褐色の肌の色をした若い青年だった。

まだ10代のように見える。

アジア系の男は顔がすでに腫れ上がっていて、

左目は特に腫れがひどく

見えていないように思えた。

口からも出血している。

一方褐色の肌の青年は見る限り無傷のように見える。

髪が長く、天然パーマのような髪質の髪を

後ろで束ねていた。

ダボダボのTシャツにダボダボのパンツ、

サンダルを履いていた。

そしてその青年の一番の特徴は腕が異常に長いこと。

猫背のように前かがみになり、

その長い腕を前にダラリと垂らしているスタイル。

垂らした腕は自分の足の脛あたりまで達している。

軽く前かがみになっているだけなのに、

少し指を伸ばしてもう少し前かがみになったら

指先が足の甲に触れるのではないかと思うくらいだった。

アジア系の男はジーンズにTシャツ姿。

ボクシングスタイルのように両腕を顔の前に折り曲げ

構えている。

褐色の肌の青年の攻撃を警戒しながら、

ジリジリと間合いを詰めようとしている。

褐色の青年は動かず、相手の様子だけを伺っていた。

アジア人の男は褐色の青年の呼吸をみている。

大和にはわかった。

格闘技をやっている人間は

攻撃を仕掛けるやりとりをする時、相手の呼吸をみる。

息を吸っている時は咄嗟でも攻撃を打ち出しやすい。

逆に息を吐いている時は咄嗟の攻撃を打ち出しにくい。

そのタイミングを見ていた。

その駆け引きをしなければならないほど、

褐色の青年は手強いということになる。

褐色の青年が“フゥー”と軽く息を吐いた瞬間に

アジア人の男は攻撃を仕掛けた。

左の前蹴りを打ち出した。

足技の攻撃に慣れていないと見える、

少し不恰好な腰の入っていない蹴りだ。

おそらく拳の攻撃ではリーチの差が出てしまい、

相手に届かないのであろう。

リーチの差を埋められる蹴りで相手を少し怯ませて

隙をつくり、拳での攻撃に持っていく作戦のように見えた。

しかし、アジア人の男の蹴りは完成度が低く

鈍いものだったため、

褐色の青年は瞬時に反応し、軽く右腕を前に突き出した。

軽いジャブのようだが、そのしなやかさとスピードは

並の人間のジャブではなかった。

アジア人の男の蹴りが当たる前に褐色の青年のジャブが

アジア人の男の顔面を弾いた。

見事なまでにガードの間をすり抜けての攻撃だった。

攻撃の正確性、スピード、しなやかさともに

尋常ではなかった。

無駄な力が少しも入らず、当たる瞬間にだけ力を込める、

理想とも言える攻撃性だった。

腰の引き等の下半身の使い方も素晴らしかった。

パンチは腕で打つものだと格闘技をやったことのない人間は

思うのかもしれないが、実は違う。

パンチは下半身の使い方が重要なのだ。

足の踏み込み、腰の入れ方、腰の引きを使って放つ。

そしてすばやい判断力と瞬時の攻撃にも動じない

精神面の強さがあるようにみえた。

アジア人の男は褐色の青年の一撃で

地面に倒れこんでしまった。

そのままアジア人の男は起き上がるそぶりを見せず、

別の男が割って入り終了の合図を出した。

どっと歓声が上がり、何人かの地元民と見られる男たちが

金のやりとりをしていた。

どうやら賭けの対象として二人は闘っていたようだ。

大和がその光景を見ていると、

大和をこの場所に連れてきた男が日本語で話しかけてきた。

“腕に自信があるのなら今勝った男と対戦してみないか”と

言っていた。

大和は当然断った。

闘いをするために旅を始めた訳でもないし、

今はまだ金にも困ってはいない。

すると男は意外にあっさりと受け入れた。

それならばもう興味はないと言わんばかりに大和から離れて

先ほどの腕の長い褐色の青年の元に駆け寄っていった。

4・5人の男が褐色の青年とともに金を数えていた。

大和は周りを見回すと路地の端の至る所で

外国人と見られる男が顔から血を流して横たわっていた。

仲間とみられる人間がその手当をしているようだ。

今見た限りでも3箇所でその光景があった。

欧米人が2人、アジア系が1人。

今打ちのめされたアジア人の男を含めると最低でも

4人は倒していることになる。

褐色の青年が一人で倒したのかは定かではないが、

彼らがかなり強いことがわかる。

もしかしたら、地元ではかなり有名なのかもしれない。

地元では誰も手を出す人間がいないから、

何も知らない旅行客をターゲットにして

荒稼ぎしているのか。

今日の収益は十分に達したのか、金を数え終えると

褐色の青年達はさっさと撤収する用意をし始めた。

褐色の青年の仲間の一人が両手を大きく振って終了、

撤収の合図を出した。

観衆はバラバラと少しづつ散らばっていった。

褐色の青年達も撤収をしていく。

その際、大和の横を通り過ぎていく。

褐色の青年は身長176cmの大和より少し高い

180cmほどの背丈だった。

他の仲間たちは大和と同じくらいか、大和よりやや低い。

通り過ぎる際、褐色の青年と大和の視線が重なった。

褐色の青年の眼を見た時、

自信に満ち溢れていて、自分が一番偉く、

善悪の区別もつかない、

未熟で無邪気な子供のようだと大和は感じた。

昔の自分に重なるところを感じた。

褐色の青年達はワイワイと騒ぎながら立ち去っていった。



−4−


大和は宿泊しているゲストハウスで朝を迎えた。

窓がないので、外の状況はわからないが、

棚の上に置かれている小さな置時計を見ると

07:09となっていた。

大和は起き上がり共同のシャワーを浴びることにした。

タオルと下着と着替えをバッグから取り出し

シャワーに向かった。

まだ朝早いせいか、他の宿泊人は誰もいなかった。

大和は服を脱ぎシャワーを浴びる。

ここのゲストハウスのシャワーはちゃんと

お湯が出るようだ。

宿の雰囲気から水のシャワーかと思っていたが

そうではなかった。

それなりに良いゲストハウスを選んだのかもしれない。

シャワーを浴びながら

昨日の褐色の肌の腕の長い青年のことがふと頭によぎった。

彼の眼を思い出すと昔の自分のことを思い出してしまう。

本当は思い出したくはない過去なのだけれども、

それから目を背けるのは違うと思った。

罪の意識、感謝の想い、これからの歩み方、

それらを直に受け止めて生きていこうと思い、

頭からシャワーを浴びながら、

自分の意識を奮起させていた。


シャワーを出て着替えを済ませた大和は、

ゲストハウスを出た。

まだ7時半くらいだった。

外はもう十分に明るく、蒸し暑かった。

大和はとくかく歩くことにした。

歩いて世界を肌で感じてみることから始めることにした。

カオサン・ロードに沿って少し歩いて行くと、

通りの混雑した感じがなくなった。

カオサン・ロードはさほど長い通りではないらしい。

それでも慌ただしい都会の朝の雰囲気はあった。

その中をあてもなくただ歩いて行った。

どのくらい歩いただろうかわからないが、

おそらく2・3時間くらいは歩いただろう。

街の混雑した雰囲気が消えた場所に行き着いた。

地元の人たちが生活している住宅地のような場所。

立っている建物はどれも古く、

木造トタン屋根の1階建てのものがほとんど。

破損した部分をトタンで補強していたり、

そのままになっていたりしていた。

いたるところに生活雑貨などが転がっていて、

住宅と住宅の間に線路のようなものが通っている。

列車が現在でも通っているようには思えないが。

あまり裕福ではない人たちが暮しているような

場所のように見える。

近くに大きな川が流れていて、

その上を大きな道路が通っていた。

川はお世辞にも綺麗とは言えない。

大和はとりあえずこの場所を通り抜けようとして

住宅の間を進んだ。

そこに住んでいる人たちが異様な目で大和を見ていた。

俺たちをバカにしに来たのなら殺してやるとでも

言わんばかりの目をしていた。

バカになどするはずもない。

ここにいる人たちの方が自分よりも立派に生きている。

人生を踏み外したのかもしれないし、

元々やる気のない人間というのもいるだろうが、

それでもここの人たちは生きる気力に満ち溢れている。

自分の命をしっかり肌で感じられているのだ。

ここの人たちの方が自分よりよっぽど偉大だと

大和は思った。

鋭い視線を感じながらその間を通って行くと

目の前に見覚えのある人物がいることに気がついた。

昨日の夜に賭けの格闘場に誘い出した片言の日本語を喋る

あの男だった。

その男も大和の存在に気がつき目があった。

しかしその男は大和のことを覚えてはいないらしい。

ただ見ているだけだった。

大和は咄嗟に声をかけていた。

日本語で“昨日の晩、闘技場に誘ってきただろう”と話すと、

男は知らないという素振りで素っ気ない態度であしらった。

通りの住人たちが知り合いなのかと言うような感じで

大和を昨晩闘技場に誘ってきた男に皆が問いただしている。

なにやらタイの言葉で話出していると、

突然大和の腕をその男は掴み、

通りの奥へと連れ出した。

通りの奥へ入るとその男は片言の日本語で

“ここであの時の話はするな”と言った。

大和も知らなかったことではあるが

何か悪いことを言ってしまったように思えて誤った。

大和が謝ると少し打ち解けた感じになり、

少し話をしだした。

彼は明るくとてもお喋りで、

名前は“ブンミー”というらしい。

ブンミーの話では、

この場所は貧困の人たちが暮らす集落で、

あの時いた青年たちは皆ここの集落の仲間だという。

しかし、ここの集落には人に迷惑をかけてはならないというルールがあるらしい。

この集落の長とも言える人の教えだと言う。

ここに暮らす人間は貧しく惨めだが、

だからこそ最低限のマナーとプライドだけは

捨ててはならないとという教えらしい。

おおよその予想はついた。

おそらくこの若者たちは集落の皆に内緒で

ストリートファイトで金稼ぎをしているのだろう。

ましてやその相手は何も知らない観光客である。

彼らのやっていることはその教えに背いていることになり、

バレたらまずいのだろう。

だからストリートファイトの話はするなと言ったのだ。

大和はブンミーに問いかけた。

“ストリートファイトで稼いだ金で暮らしているのか”と。

そう問いかけるとブンミーは少し興奮して、

希望に満ち溢れた声で話出した。

ブンミーの言うところによると彼らは

ストリートファイトで金を貯め、

この集落の一画に格闘技のジムを建てるのだという。

そしてそのジムから格闘技のチャンピオンを育て上げて

この集落のイメージを変えて、

自分たちを見下していた者たちを見返すのだという。

とても若い無鉄砲な考え方だが、

大和はその向上心と目標を高く評価して、

自分のことのように喜んだ。

やってやれないことはないし、

何かの壁にぶち当たったとしても

打開しようという諦めない気持ちさえあればきっと

達成できると思うと語った。

大和は日本語で話していたので、

その言葉を完璧に理解できたかどうかは定かではないが、

ブンミーは大和の言った言葉をとても嬉しそうに

聞いていた。

なぜか2人は日本語が話せるという共通点からか

意気投合して屈託なく話を交わしていた。

ブンミーは大和をとても気に入ったらしく、

集落の皆に友達として紹介すると言って

大和を集落の中心に連れ出した。

何人かの集まっていた集落の人間にブンミーは

大和を昨日知り合った日本人の友達として紹介した。

しかし集落の人間は大和をあまり受け入れず、

冷めた眼差しで見ていた。

会話も交わすことなく集まっていた人たちは

各々の住まいに帰って行ってしまった。

ブンミーは申し訳なさそうに大和に照れ笑いをして

“皆照れ屋なんだ”と言った。

なんとなくブンミーの人懐っこさはこの集落では

特殊のようだ。

するとブンミーは埋め合わせをするかのように

大和を良い場所があるから紹介すると言って

その場所に案内するため、また大和を連れ出した。

集落から10分ほど歩いた場所に

ブンミーは大和を連れてきた。

少し開けた場所で建物は何もなく、

草が生い茂った空き地のようだった。

ブンミーが“ここにジムを建てるんだ”と

嬉しそうな表情で言った。

まだなにも決まっていないはずなのに、

“ここにリングを置いて”

“この場所にはトレーニング機器を配置して”

“ここは女性用のダイエット用に有酸素運動機器を

配置して”など

もうこの場所に来月にでもジムの建設が始まるかのような

口ぶりでブンミーが語っているのを見て、

大和もなんだか楽しくなった。

自分も手伝えることがあるのなら何かやってあげたいとも

思った。

ブンミーの夢の話は止まることがなく、

大和もその話に乗っかって色々と付け加えていくと、

ブンミーはその話に賛同し、また想像を膨らませていく。

気が付けば大和とブンミーは長い時間その場所で楽しそうに語り合っていた。



−5−


大和とブンミーがブンミーの夢の話で語り合っている時、

ブンミーの仲間達がどこからともなく現れてきた。

この前ストリートファイトをしている時に

一緒だった人物たちだ。

その中にあの強烈な印象の目をした

腕の長い褐色の青年もいた。

彼らは大和を疑わしいという目で見つめながら

ブンミーに話しかけてきた。

おそらくは“こいつは誰だ”ということを

ブンミーに聞いているのだろう。

ブンミーも彼らに大和のことを紹介するように

話をしている。

けれど、彼らの目はまだ大和を受け入れるような

感じではなかった。

何かうっとうしそうな目つきで大和を見つめている。

大和はブンミーに彼らが何を言っているのかを聞いた。

ブンミーは困ったような表情で

大和の問いに対しては何も答えず

“今日のところは帰ってくれ”と言った。

“次どこかで会ったらまた話をしよう”と言って

早々に大和をその場所から立ち去らせようとした。

大和もブンミーの表情を見てその場から立ち去ろうとした。

大和を帰ろうと彼らに背を向けて少し歩き出した時、

後方から何か棒状のもので空気を切り裂くような音を

感じた。

咄嗟に振り向くとブンミーの仲間の一人が

細い鉄パイプのようなもので大和に襲いかかってきた。

大和は避けきれず腕でそれをガードした。

“どん”と大和のガードした腕にその鉄パイプが

鈍い音をたててぶつかってきた。

大和は咄嗟に後方へ下がり、彼らとの間合いを十分に取る。

ガードした腕に鈍い痛みを強烈に感じる。

大和に対して鉄パイプを振るった男はタイ語で

何やら言っている。

何を言っているのかはわからないが、

このまま帰すつもりはないようだ。

おそらくは金品目的だろう。

ブンミーが必死になって鉄パイプを持った男を

止めに入った。

しかし鉄パイプを持った男はブンミーを払いのけて

大和にジリジリを詰め寄ってきた。

それでも止めに入ろうとするブンミーに対して大和は

“大丈夫だ”と声をかけた。

ブンミーはその言葉を聞いて一瞬止まりはしたが、

それでも止めに入ろうとする。

止めに入ろうとするブンミーに対し大和は

“いいから下がっていろ”と言う言葉を発した。

付け加えて“こんな状況は嫌いではない”と言って

止めに入ろうとするブンミーを下がらせた。

他の仲間たちも大和に少しづつ詰め寄って来ている。

相手はブンミーを抜いて4人。

鉄パイプを持った男意外は特に武器は持っていないようだ。

ナイフを隠し持っている可能性は十分にある。

鉄パイプを持っている男は右手で鉄パイプをダラリと下げて持っている。

他の3人が近くに来る前にこの鉄パイプを持っているやつを先に片付けておきたい。

大和はそう思い、鉄パイプの男に対し、

咄嗟に襲いかかるフェイントをした。

鉄パイプを持った男はその行動に対し、

反射的に鉄パイプを片手で振りかざして来た。

振り切る前に大和は左の横蹴りを鉄パイプめがけて放ち、

男もろとも吹っ飛ばす。

片手で重量のある鉄パイプを振り切ろうとしても

モーションは大きくなるし、振り切るスピードも

それほどではない。

そのことを感覚的につかみ、

大和は鉄パイプを持っている男をまず怯ませた。

鉄パイプを持った男は倒れはせず、

何とか踏ん張り体制を整えようとした。

そこに大和は畳み掛けるように指を突き立てて

腕のスナップを利かすように左の手で

相手の目元を叩いた。

その時相手の目の中に多少指が入り込んでいる。

男はたまらず、鉄パイプを離して目を覆いかくし

悲鳴をあげた。

数分はまともに前が見えないだろう。

今の状態では大和にとって人の形をした

サンドバックでしかない。

タイミングを見計らって男のこめかみを目掛けて

右の回し蹴りを放つ。

“ガコン”という骨と骨がぶつかる音をたてて

男の頭が弧を描き地面に吸い込まれるようにして倒れた。

他の3人はその状況を見てたまらず

襲いかかってくるかと思いきや

その場で立ち止まってしまった。

大和の攻撃に皆、唖然としている。

あの腕の長い褐色の青年以外は。

腕の長い褐色の青年はその状況を見て

一瞬は驚いた表情を見せたが、

徐々に不機嫌な表情に変わり、

今は完全に怒りをあらわにしている。

腕の長い褐色の青年がゆっくりと、

けれど内に殺気を感じさせながら前へ出てくる。

大和も体制を整えて向き合う。

大和は一筋縄ではいかない相手だということは

この前の闘いをみてわかっていた。

頭の中でありとあらゆる状況を想定しながら、

まわりに何があるかまで確認した。

闘いなんてものは行き着く先は殺し合いになる。

それをそれぞれがどこでストップをかけるか。

今の状況では相手がどこまでしてくるのかわからない。

そうなれば、こちらも最終点までの

覚悟はしておかなければならない。

大和の心の中にはその覚悟があった。

しかし大和にはそのことを思うと何かに

締め付けられるように心が苦しくなる。

今もそうである。

あちらこちらに飛んでしまいそうな意識を

必死にとどまらせ、

他のことは今は考えず、目の前の相手にだけ

集中するよう努めた。

そんな殺気立つ状況をブンミーは耐えきれず、

突然駆け出し、

驚く大和の手を掴みその場から連れ出して行ってしまった。

腕の長い褐色の青年たちはブンミーの後を追うことは

しなかった。

しかし腕の長い褐色の青年の目の怒りは

消えることはなかった。



−6−


集落から抜け出し、ブンミーは大和を連れて

集落から少し離れた川岸まで逃げてきた。

2人は息を切らしながらその場所で座り込んだ。

息が整うまで何も喋らず座り込んだまま時間を過ごした。

少し息が整うとブンミーは大和に話をしだした。

あの腕の長い褐色の青年の話であった。

ブンミーの話によると腕の長い褐色の青年の名は

“バンファム”というらしい。

バンファムの父親は

タイの国技“ムエタイ”の選手なのだという。

そこそこ名の知れた選手らしい。

だがそれが複雑らしく、バンファムは

その選手の息子としては認められてはいないのだという。

バンファムの父親のそのムエタイ選手は妻子がありながら、バンファムの母親と関係を持った。

それでできた子供がバンファムで、

妻子と別れるつもりがないそのムエタイ選手は

中絶するように説得をしたのだという。

しかしバンファムの母親はそのムエタイ選手に

中絶したと嘘をつきバンファムを出産した。

その後バンファムの母親とそのムエタイ選手との関係は

終わったそうだが、

バンファムの母親はバンファムが6歳の頃にそのことを

打ち明けたそうだ。

そのムエタイ選手のせいで、母親は不幸になったと

バンファムは思うようになり、

自分の父親に憎悪をいだくようになったのだという。

経済的にバンファムが何かを習うことはできず、

書物や見よう見まねでムエタイを独学で身につけていった。

その憎悪は父親を倒したいという気持ちに

変わったのかもしれない。

もしかしたら殺したいという気持ちなのかもしれないが。

そのころから父親より強くなろうと狂ったように鍛錬をし、毎日のように誰かれ構わず喧嘩を吹っかけていたようだ。

16歳くらいの時にはもう近くには誰も相手ができる人間が

いないほど、強くなっていたのだという。

以前ストリートファイトで現役のムエタイ選手と

闘ったこともあるらしい。

その時もバンファムが完勝したそうだが、

その時の彼は異常なまでの闘争心を表して

相手のムエタイ選手を殺す寸前まで追い込んだという。

おそらく父親とそのムエタイ選手を

重ね合わせたのであろう。

ブンミーが集落の一画にジムを建てるというのも

バンファムのことも少し関係しているらしく、

バンファムのその異常なまでの父親への憎しみがきっと、

父親を殺すまでにいたるのではないかと思ったブンミーは

何か違う目標があればなくなるのではないかと

思い立ったのだ。

格闘ジムをつくって純粋に格闘技を

楽しめるようにしたいというのも理由の一つだという。

大和はバンファムのあの目の違和感の意味が

ようやくわかった気がした。

誰かを殺してもいいという目だ。

しかしそれは自分の命にも興味がないということなのだ。

大和は環境や理由は違えど、バンファムとブンミーの関係が

自分と悠士の関係に少し重なるところを感じていた。

ブンミーは一通り話し終えると“ごろん”と

仰向けに横たわった。

そしてまた話しを続ける。

バンファムは自分が一番強い人間でなければならないと

いつも言うそうだ。

強いと思う人間を倒すことで自分の存在を実感している。

実際にバンファムは殆んど負けたことはないという。

負けたとしても後日にはきっちりその相手に

完勝をするそうだ。

自分が誰よりも強いということが

自分の存在価値だと思っている。

バンファムが大和に怒りを表わにしたこと、

それは大和に強さを感じたからだとブンミーは言った。

自分が一番強い存在でなければならないバンファムは強いと思った人間を気に入らない。

強いと思った人間は必要異常に叩きのめし倒すらしい。

自分の強さをアピールするために。

だからそれを恐れたブンミーは大和を連れて

逃げ出したのだ。

ブンミーは大和にもう二度とあの集落には現れない方がいいと言った。

バンコクからも離れた方がいいとも言った。

きっとバンファムの強さを誰よりも知っている彼だからこそ大和にそう言ってくれたのであろう。

大和を本当に友人だと思っているのだ。

ただ大和には一つ引っかかっていることがあった。

それはバンファムの母親のこと。

バンファムには母親がいる。

まだ健在のようだ。

その母親がいるということは彼は自分勝手に命を

蔑ろにしてはならないと思った。

自分の命は自分一人のものでは決してないのだ。

親、兄弟、友人、恋人、その人を想う全ての人たち。

それぞれがその人を必要としていて、

それぞれがその人の命の一部だ。

全てが合わさってその人なのだ。

悠士の命を奪った大和だからそれが痛いほどわかる。

自分は両親を亡くし、

自分の全てが無くなってしまった気がした。

生きる意味も、目標も、何もかも。

だから自分の命を蔑ろにしてしまった。

そのことが悠士を死に追いやってしまった。

バンファムにはそれをわかってほしいと思った。

わからなければならないと思った。

彼が一番に考えなければならないこと。

それは、父親よりも強くなることでも、

ジムを建てることでもない。

自分の命を大切にすることだ。

自分を想ってくれるブンミーや仲間、

そして何より一番愛してくれている

母親を大切にすることではないのか。

お前の母親はお前を愛しているからこそ、

中絶をしなかった。

大変な思いをすることはわかっていてお前を産んだんだ。

お前だって母親を愛しているから

父親を許せないというのはわかっている。

けれど今やっていることは違う気がすると大和は思った。

大和はその場から立ち上がった。

そしてブンミーに“バンファムの母親に会わせてくれ”と

頼んだ。



−7−


大和とブンミーはまた集落に戻ってきていた。

バンファムの母親に会うために。

ブンミーは大和がブンミーの母親に会うことを

やめた方がいいと言った。

きっとバンファムが怒り出すからと。

それでも大和はバンファムの母親に会って確かめたいことがあったのだ。

ついさっき会ったばかりの人間のことを

どうこうするつもりはなかったが、

なぜだかわからないが、衝動に駆られた。

そのあとどうするかなど何も考えてはいなかった。

渋々ブンミーは大和をバンファムの母親に会わすため

集落に連れてきたのだ。

ブンミーの推測によればバンファムたちは

いつもたむろしている仲間の家に行っているだろうという。

さっき大和が倒した仲間の手当をするためにも。

そこはバンファムの家からは離れているから

今なら母親のみと会えるだろうと。

集落の通りを少し歩き、横の路地を200mほど

歩いたところにバンファムの家はあった。

木造のとても綺麗とは言えない平屋の家だった。

ブンミーは先に母親と話しを通して来ると言って

家の中へ入って行った。

しばらくするとブンミーが家の中から出てきて、

大和を中へ呼び入れた。

とても丈夫とは思えない、木製のドアを開けて

大和はバンファムの家の中へ入った。

ドアを入ってすぐに部屋になっていて、

日本の住宅で言うところの4畳位の広さの部屋があった。

他にもう一つドアがあるのでもう一部屋ありそうだ。

その部屋に褐色の肌に黒く長い直毛の髪質の女性がいた。

細身でとても顔の整った綺麗な女性だった。

座っていたのでわからなかったが身長も高そうだ。

165cmはありそうだ。

この綺麗な女性がバンファムの母親のようだ。

年は30代後半か40代前半のように見える。

ブンミーの話しによると仕事で腰を痛めてしまい、

自宅療養中なのだという。

何の仕事をしているのかまではしていなかった。

バンファムの母親は大和に対して手を合わせお辞儀をして

挨拶をしてくれた。

大和もそれを見よう見まねで同じようにして挨拶をした。

ブンミーが聞きたいことを自分に言ってくれてば

通訳すると言ってくれた。

ある程度のいきさつはブンミーからさっき聞いたはずだ。

大和は少し考えて、

まずブンミーに

“あなたはバンファムの父親のことをどう思っていますか”

と言った。

ブンミーは少しためらった表情をしていたが、

タイ語で母親に大和の言ったことを伝えた。

バンファムの母親は真剣にブンミーの言葉を聞いて、

少し俯き、すぐに顔を上げ、

ブンミーに答えを話した。

ブンミーから通訳された母親の答えは、

“バンファムを授けてくれたことを感謝しています”

という答えだった。

“わかりました”とだけ大和は答えた。

大和はその言葉だけで自分の引っかかっていたものが

パッとほどけた気がした。

バンファムの母親はバンファムの父親のことを

恨んでなんていない。

バンファムを授けてくれたことに感謝しているということはこの母親にとって

バンファムは自分の全てなのだ。

バンファムがいなくてはならないのだ。

もしバンファムの母親がバンファムの父親を恨んでいて、

殺してやりたいとも思っているのなら、

今バンファムがやろうとしていることは

仕様がないのかもしれない。

しかし、この母親はそれを望んでなんかいない。

だからバンファムはその歪んだ矛先を

納めなければならないのではないかと大和は思った。

大和はブンミーに“バンファムが今やろうとしていることを母親は知っているのか”と聞いた。

ブンミーは母親に問いかけはせず、

知らないはずだと言った。

ブンミーたちにも自分の母親には絶対言うなと

言っていると付け加えた。

大和とブンミーのやりとりを聞いていた

バンファムの母親は突然話し出した。

大和はバンファムの母親が話している内容がわからないままその話しを聞いていた。

しかしその表情から何かを頼むような感じだった。

ブンミーは母親の話しを少し驚いた様子で聞いていた。

母親が話し終えると、ブンミーは少し考えて

大和に通訳してくれた。

その内容はバンファムの母親はバンファムが

やろうとしていることに気がついていたようだ。

バンファムは父親に何かしようとしていて、そのことで

来ているのならどうかやめさせてくれという内容だった。

母親がバンファムに直接そのことを問いかけても

当のバンファムは全て否定をするのだという。

父親のことを何も思っていないし、

何かしようともしていないと。

完全に嘘をついている。

バンファム自身の問題になっているのだ。

負は負しか生まない。

正も負に変えてしまう。

バンファムが今やろうとしていることは負だ。

その負を達成してしまったら、

そのまま負の連鎖が続くだけなのだ。

バンファムにも後に負が襲いかかってくる。

周りからの負、自分自身からの負が襲いかかってくる。

そのことを大和は知っている。

幸せというのはこの逆なのかもしれない。

まったく自分には関係のない人間のために

そこまで首を突っ込むことは普通はしないだろう。

しかし、大和がここに来たのは自分の負を正に変えるため。

これに関わることは自分のためでもあると言い聞かせた。

大和はバンファムの母親に対し

“自分が話しをしてみる”と言った。



−8−


ブンミーとまた会う約束をし、

大和は一旦宿泊しているゲストハウスに戻ってきた。

バンファムを父親の呪縛から解き放つためには

どうしたらいいのかを考えた。

何の関係もない自分がバンファムに話しをしたところで

きっと彼は聞く耳は持たないであろう。

ブンミーたちの言うことも聞かないはずだ。

父親への復習がバンファムの生きる意味に

なってしまっている。

強くなる原動力になるのならば

それはそれでいいのかもしれない。

しかしあの目のままでは駄目だ。

あの目のままでは最悪の結末を迎えかねない。

それを防ぐためにはどうすればいいのか。

何も考えつかない。

やはり直接話しをしてバンファムの母親が言っていたことをわからせるしかないのか。

事細かなことを言ってもきっとブンミーの通訳では

うまく伝えることは難しいであろう。

母親の気持ちを直に伝えるしかないと思った。

今日の夜にまたストリートファイトを行うという。

ブンミーにはその時にまた会う約束をしていた。

場所も昨日と同じ場所だという。

大和はその夜を待つことにした。



−9−


夜のカオサン・ロードを大和は歩み進めていた。

昨日バンファムたちがストリートファイトをしていた場所に向かって。

カオサン・ロードを進んで行き、細い路地を入る。

しばらく歩くと開けた場所に場違いとも思えるほど

人が集まっていた。

昨日よりの多いのではないだろうか。

アジア人・欧米人が程よく混ざっている。

人混みをかき分けて大和はブンミーを探した。

しばらく探していると背中を“とんとん”と叩かれた。

大和は振り返ってみると、そこにはブンミーが立っていた。

ブンミーも大和を探していたようだ。

ブンミーはその近くの路地裏に大和を呼び込んだ。

今の状況を説明するようだ。

今日もまたいつものように

ストリートファイトを行うのだが、

今日は以前に来たことのある観光客の口コミもあって

人が多いのだという。

ここではバンファムは無敗なのだという。

バンファムの強さが口コミなどで伝わって

挑戦しようとする人間が

今では来るようになったという。

基本的にはその場で闘いたい人間を募集し、

名乗りを上げた者同士で対戦する相手が決定する。

その中で強いと思った人間には

バンファムが名乗りをあげるそうだ。

基本的にはバンファムは強いと思った人間としか

やらないのだという。

バンファムに挑戦したいと申し出るものもいるが、

基本的には強そうな人間としか受けないそうだ。

賭けは一律で1000バーツ、観衆から集める。

勝った方が総取りをする。

だから基本的には仲間うちで来て代表者が

挑戦するといった形なのだそうだ。

大和はそんな話しはどうでもいいと思った。

完全にバンファムと面と向かって

話しができる状況ではない。

しかたがないので大和はストリートファイトが終わるのを

待ってバンファムと話をすることにした。

そのことをブンミーに伝える。

話す内容のことも伝えた。

基本的にはバンファムの母親の気持ちを伝えるということ。

ブンミーは大和の話しを理解して了解した。

ブンミーはとりあえずバンファムの元に戻ると言って

その場を後にした。

大和もとりあえずその場所に紛れこむことにした。

ほとんどが酒を飲んでいるようだ。

ハイテンションで盛り上がっている。

今バンファムの仲間たちが仲介に入り、

試合を持ちかけている。

その場の乗りで何人かの人間が名乗りを上げている。

すぐに対戦は決定した。

掛け金をバンファムの仲間たちが回収して、

その場からすぐにハケる。

観衆たちが覆う円の中心に二人の人間が立つ。

1戦目は白人の欧米人と地元のタイ人と見られるものの

対決だ。

試合開始の合図などもなく、

雑にその場の雰囲気で両者の殴り合いが始まった。

タイ人が大振りなパンチを繰り出し、

欧米人がそれを避け仕掛けるタイミングを図っている。

両者ぐるぐるとらせん状に回りながらお互いの攻撃を伺い、ジャブや軽い前蹴りなどで

牽制する。

と、突然タイ人が何の計画性もないように

飛び出し大振りでパンチを当てにいった。

しかしそれはかすかに避けられ、と同時に

欧米人がタイ人の頭を左腕で上から羽交締めにして

首を絞めた。

たまらずタイ人は何度も欧米人の脇腹に

腕だけの力しか入っていないパンチを打つ。

欧米人が首を絞めたまま後方へ投げとばし、

タイ人を地面に倒れ込ませた。

咄嗟に立ち上がろうとするタイ人の上にすぐに

欧米人が腹の上に馬乗りになり、

両手を高々とあげ見物人にアピールをした。

見物人からどっと歓声が上がる。

体を左右にひねったり、

膝で相手の背中に攻撃しようとするが全く効かない。

タイ人はすぐに頭を隠すように両腕でガードした。

タイ人の体重の倍はあるとみられる欧米人を

そうそうどかすことはできなそうだ。

しっかりとタイ人の腹の乗っかってしまっている。

舌をペロッと口の端に出しタイ人の方に

向き直った欧米人はゆっくりと右の腕を振り上げ

一発目のパンチをタイ人の顔面目掛けて打っていった。

タイ人の顔が振動でぶれる。

ガードしていた腕の隙間をくぐって

頬骨あたりをえぐられた。

その後の何発ものパンチをガードの上からでも構わず

振りまわし、バンファムの仲間が

仲介に入り、対戦は終わった。

欧米人は立ち上がると、派手に見物人に勝利を

アピールしていた。

その様子をバンファムは腕組みしながら見ていた。

すると見物人の間から、というより

地元のタイ人達の間から“プラチナモンキー”という言葉が

連呼され始めた。

この言葉は次第次第に大きくなっていった。

欧米人もまた舌をペロッと口の端に出し笑みを浮かべた。

この欧米人もプラチナモンキーという言葉の意味を

知っているようだった。

するとバンファムが組んでいた両腕をほどき、

両手を高々と上に掲げた。

プラチナモンキーというのはバンファムのことを

言っていたのだ。

その様子からバンファムと今さっき対戦を終えたばかりの

白人の欧米人との対戦が決定したようだ。

おそらく、地元のタイの人間が欧米人に

あっけなく負けたことで

タイ人の見物人がバンファムとの対戦を

希望したのであろう。

タイ人の名誉にかけて。

その要望にバンファムも乗ったのだ。

それか、この欧米人を強いと認めたのか。

正直大和には今の対戦ではこの欧米人がどの程度の

技術があるかわからなかった。

バンファムは少し顎を引きながら上目遣いで

欧米人を睨みつける。

しかしその口元には笑みが浮かんでいた。

ゆっくりと自分のペースで歩みを進めていく。

欧米人は対戦スペースの中心から動かず、

指を鳴らしながらバンファムがこちらに来るのを

待っていた。

両者が対戦スペースの中心に集まった。

お互い相手を威圧するかのように睨みつけ合う。

身長は欧米人の方が大きい。

バンファムより3・4センチは大きいだろう。

体重差も欧米人の方が重いはずだ。

20キロ近くの差はあるように見える。

筋肉量が違う。

バンファムも良い筋肉を全身にまとっているが、

細身の程よい筋肉だ。

一方欧米人の方は太く分厚い防具のような筋肉を

身にまとっている。

技術の差は別として、

体格差では欧米人が有利と思わざるを得ない。

ほどなくして突然対戦は何の前触れもなく始まった。

いや、二人の中では睨み合った時点で、

繊細すぎるほどの駆け引きが

すでに始まっていたのかもしれない。

欧米人はトントンと後方へバックステップをして

バンファムとの間合いを大きく取り、

すぐさま両の腕を胸の前に折り曲げて構えをとった。

バンファムも後方へ少し下がり、

トットっとステップを踏み始めた。

両腕は前に軽くぶらりと垂れ下げ、

前がかみで相手を凝視している。

欧米人も軽く膝を浮き沈みさせ、

自分のペースを図っている。

バンファムは腕をダラリと垂らしたまま

その場から動かない。

探り合いの状態で1分程が過ぎた時、

痺れを切らしたかのように欧米人が

牽制気味に前蹴りをバンファムに放ってきた。

素早い動きでその前蹴りをかわすとバンファムは

右の拳を突き立てた。

恐ろしく速く、しなやかなその拳は

蹴りが当たるか当たらないかという

距離を保っていた欧米人の距離に届いて来た。

“シュッ”と欧米人の鼻先をバンファムの拳が軽く弾いた。

しかし咄嗟に欧米人は反応してかろうじて

それが深く入り込むのを防ぎ、かわした。

慌てて後方にさがり、バンファムとの距離を大きく取った。

バンファムも深入りはしなかった。

欧米人はある程度の距離を保ちながら

軽いローキックを2発3発と打ってきたが

バンファムが軽く避けるだけですぐにかわされてしまう。

バンファムのリーチの長さを気にして

なかなか攻めきれない。

バンファムは真剣な表情で相手を睨みつけているが

どこか余裕を感じる闘い方をしている。

欧米人はまた軽いローキックで牽制した。

バンファムは少し後方に下がってそれを避ける。

その時何か吹っ切れたかのように欧米人が体制を低くし

一気に駆け出した。

タックルを仕掛けてきた。

バンファムは顔色一つ変えずその状況を冷静に判断し、

少し腰を落とした。

すぐさま右の拳が腰の辺りにまで移動している。

その拳はそこから大気をらせん状に巻き込むように

上方向に向かって突き立てられていった。

“ガコン”という音と共に

その拳は欧米人のアゴにめり込んでいた。

鳥肌が立つほどの攻撃の正確性と

状況を的確に判断できる精神力の強さがあった。

バンファムがめり込んだ拳を引き抜くと

欧米人は顔から地面に土埃を上げて倒れこんでしまった。

一瞬静寂に包まれた中、歓喜の息が少しづつ見物人の中から漏れ始め、その息はやがて大歓声に変わっていった。

その見事な勝利に尊敬と敬意の声が上がる中

バンファムはその勝利の余韻を楽しむかのように

倒れこんでいる欧米人を上から見下ろしていた。

バンファムの仲間達もバンファムの勝利で

掛け金を受け取ろうとしていた。

誰もがバンファムに注目している中突然、彼の周りに

土埃が舞い上がり彼を飲み込んでしまった。

見物人は“何が起こったのか”とその場の状況が

把握しきれないでいた。

土埃が地面に吸い込まれていく中で

次第にその状況が現れてきた。

その中で誰もがすぐに気がついたこと。

それは先ほどまでうつ伏せに倒れていた白人の欧米人が

仰向けになっていること。

そしてその意識がはっきりとしていることだった。

バンファムの打ち上げアッパーを受けてこの男は

意識を無くしてはいなかったのだ。

もしかしたら、これが狙いだったのかもしれない。

土埃の中から姿を現したバンファムは両目を押さえていた。

目に土埃をまともに受けてしまったようだ。

バンファムは喉が張りさけるような叫び声を上げた。

完全に怒りを含んだ叫び声だ。

欧米人はゆっくりと立ち上がり余裕の表情で

全身に着いた土埃を手で払った。

完全に形勢が逆転している。

目を突かれた訳ではないにしても視力を完全に回復するまで数分間は必要になるだろう。

それまで待ってくれるわけはない。

視力が回復する前に決着をつけるのが目的なのだから。

白人の欧米人は両の指を鳴らしながら舌舐めずりをして

歩み寄る。

バンファムはまだ目を押さえたままだ。

何もする様子もない。

恐怖に怯える様子も、逃げる様子もない。

ただうずくまりながら両目を押さえて

怒りからか歯を食いしばっている。

欧米人が笑みを浮かべながらその太い腕の先端にある拳を

バンファムの腹に潜り込ませていった。

その拳は見事にバンファムの腹にめり込んだ。

うめき声を上げてバンファムの体が

くの字に折れ曲がっていく。

腹を押さえたためガラ空きになったバンファムの首に

欧米人の太い腕が絡まっていった。

チョークスリーパー。

バンファムは咄嗟にアゴを引き

相手の腕と自分の首の間に挟み、

完全にチョークスリーパーが入らないようにした。

両手で欧米人のチョークの腕を押さえつけ

引き剥がそうとする。

しかし、力で勝っている欧米人の腕は

そう簡単には引き剥がせない。

欧米人は一瞬“ギュッ”と腕に力を込めると

チョークスリーパーの状態のまま腰を落とし回転し始めた。

足を踏ん張り、抵抗するバンファムを力任せで

振り回し始め、

次第に勢いが増していく。

1回転、2回転ほどでバンファムの足が宙に浮き始め、

3回転目で完全にバンファムは

遠心力の力で宙浮いている状態になった。

その力は一点にバンファムの首に集中し、

首が締まるというより

首がもげそうな状態になっていた。

見物人からは何も声がでない。

こんな彼の光景を見るのが初めてかのように、

信じられないという表情を殆どの人間がしている。

大歓声を上げているのは欧米人の仲間たちだけだ。

4回転、5回転と振り回し、5回転目で

ピタッとその勢いは落ち回転は止まった。

バンファムの足が地に着く。

欧米人の方が目を回したようだ。

それでもチョークの腕はほどかない。

ギッチリとバンファムの首に絡みついている。

バンファムもあの回転の中で顎を固定したまま耐えた。

そのためまだ完全にチョークスリーパーは入っていない。

欧米人も目が回っているせいで

スリーパーホールドの力が少し緩んだように見える。

その隙をつき、バンファムは体を反転させ

欧米人の腕から頭を引っこ抜いた。

バックステップで後方へ下り、間合いを開ける。

と同時に後方へ一飛びする瞬間に右のストレートを

欧米人の顔面へ向け放った。

鋭いスピードで放たれたその拳は

欧米人の左の頬あたりをとらえた。

多少目は見えるようになったようだ。

欧米人はその勢いで膝から崩れ落ちてしまった。

しかしバンファムは崩れ落ちた欧米人の腹部に

左の前蹴りを打ち込んでいった。

バンファムの左のつま先が欧米人の腹部にめり込んだ。

すぐさま左足を引き抜くと間髪入れず、

右のミドルキックを欧米人の頭の側面を目掛け放った。

しかし、欧米人は咄嗟に腕で頭を覆い、

そのミドルキックをガードした。

ガードした瞬間バンファムの右足を掴みにかかる。

左脇にバンファムの右足を抱え込み、

たぐり寄せて地面に倒れ込まそうとする。

だが、バンファムは左足1本でバランスを取り、

なかなか倒れない。

欧米人はバンファムの右足を抱え込みながら立ち上がった。

バンファムは左足で“トントン”とバランスを取り、

バランスを整え右拳を突き立てる。

普通だったら届くはずもない拳だが、

バンファムのそれは届く。

欧米人の鼻先を削ぐが、顔を後ろに引きかろうじて交わす。

バンファムはバランスを整える度、右、左の拳を打ち込む。

欧米人もさすがに交わし切れず、頬、鼻先を何度も

削がれていく。

たまらず、バンファムの足を離した。

離した瞬間、欧米人は攻撃を受ける覚悟で

突っ込んで行き

間合いを詰め右、左と拳を打ち込んでいった。

しかし、それは見事にバンファムに交わされ、

代わりに下から強烈に這い上がってくる拳を

顎にまともにくらった。

バンファムの右のアッパーカットをくらったのだった。

欧米人は一瞬仰け反り、その場に崩れ落ちた。

崩れ落ちながら、まだ倒れまいとバンファムの服を掴み

なんとか立ち上がろうとする。

見物人から爆発音とも言えるような歓声が

湧き上がってきた。

欧米人を上から見下ろしながら少し這い上がってきた彼に

両腕で欧米人の首を絡めるように掴み

右の膝を腹に打ち込んむ。

欧米人のみぞおちにまともその膝がめり込んでいく。

右の次は左、また右と次々膝を腹にめり込ませていく。

たまらずうずくまろうとする欧米人を、

そうはさせまいと彼の首を抱え込み

しゃがみ込むのを防ぎ、

次々と強烈なひざ蹴りを打ち込んでいった。

欧米人は口からは唾液を吐き出しながら悶え苦しんでいる。

腹に10発は打ち込んだであろう。

バンファムは不意に首を離した。

欧米人は悶え苦しみながらその場でしゃがみ込む。

バンファムは彼を見下ろしたままだ。

その場を下がろうとしない。

一瞬間を開けうずくまる欧米人の顔面あたりを目掛けて

前蹴りを打ち込んだ。

欧米人は後方に吹き飛んでいき背中から仰向けに

倒れこんだ。

腹に強烈な衝撃が蓄積しているためか、

くの字の状態で倒れている。

バンファムはその倒れた欧米人の腹に

上から打ちおろすように踵を打ち込んでいった。

何度も何度も。

最初は湧き上がっていた見物人たちもその様子に

少し困惑し、沈黙していまっていた。

数回腹に踵を打ち込んだ後、

バンファムは少し立ち位置を変えた。

すると今度は痛みに悶え苦しむ欧米人の顔に

その踵を打ち込んでいった。

鈍い音とともに欧米人の頭が地面に叩きつけられている。

これも一発では終わらなかった。

2発3発と踵で顔面を叩きつけていく。

欧米人の後頭部から血が滲んでいき、

次第に流れる量が増えていく。

異変に気付いたブンミーとその仲間が

バンファムを慌てて止めに入る。

後方からしがみついたり

欧米人とバンファムの間に入ったりして

なんとかバンファムを落ち着かせようとした。

欧米人も仲間たちも慌てて止めに入る。

だがバンファムの興奮は収まらなかった。

後方にしがみついた仲間を振りはらい、

また欧米人に攻撃をしようとする。

ブンミーが欧米人とバンファムの間に入り、止めに入る。

そのブンミーをバンファムは前蹴りで蹴り飛ばした。

前蹴り一発でブンミーは吹き飛んでしまった。

バンファムは、今度は欧米人の上に馬乗りになり掌底で

顔面を殴り込んでいった。

欧米人もすでに危険な状態のようだった。

また一発、また一発と掌底を打ち込み

欧米人の頭を地面に叩きつけていく。

吹き飛ばされた仲間たちが焦った表情で

バンファムを止めに入ろうとする。

バンファムはまた打ち込もうとする。

しかしその手が急に動かなくなった。

誰かが自分の手首を掴んで止めたのだ。

バンファムは振り返って誰かを確認した。

その手首を掴んでいたのは大和だった。

大和がバンファムの手首を掴み攻撃を止めたのだ。

バンファムは大和の顔をすぐに思い出した。

バンファムの表情の変化からそれがすぐにわかる。

次第にその怒りの矛先が大和に向いたからだ。

ついさっき自分の仲間を叩きのめして逃げていった男が

そこに立っていたのだ。

ついさっきのことだ、そんなすぐに忘れるわけがない。

大和にもそれはわかっていた。

こんな状況で冷静に話しもできるわけもないだろうし、

矛先が自分に向くこともわかっていた。

それがわかっていて止めた。

あえて自分に矛先を向けるために。

でもなければ、バンファムは本当にこの欧米人を

殺しかねないと思ったから。

バンファムは欧米人の上からムクッと立ち上がった。

大和もバンファムの手首を掴んだ手を離した。

大和とバンファムが向かい合う。

バンファムは少し笑みを浮かべている。

だがその内側に悪意を感じる笑みだった。

吹き飛ばされていたブンミーが慌てて起き上がり

二人に駆け寄っていった。

ブンミーがバンファムになにやら話しをしているようだ。

大和は何を話しているのかわからなかった。

しかし大和のことを話しているように見える。

バンファムの表情が一瞬固まった。

もしやバンファムの母親に会って話しをしたことを

言っているのか。

今そんなことを言ったら逆上するのではないか。

大和はそんなことを思っていた。

だがバンファムの表情は怒りに震えるような

様子ではなかった。

少し冷静さを取り戻したような様子だった。

バンファムはくるりと大和に背を向けて少し歩いて行った。

そしてすぐに向きなおると何かを大和に話し出した。

するとブンミーが大和に駆け寄ってきて

日本語で通訳をしてくれた。

ブンミーの話しによると自分に説教がしたいのなら

自分をねじ伏せて聞かせればいいと言っているようだ。

バンファムは自分に勝つことができたのなら

話しを聞いてやると言っている。

つまり俺と闘えと言っているのだ。

ブンミーは大和がここに来たいきさつを全て

バンファムに話したようだ。

ずいぶんと横暴なことを言っていると大和は思った。

正直言えば闘うことは嫌いではないかもしれない。

自分の強さにも自信はある。

自分が生きていることを実感することもできる。

しかし闘って何かを得るということはないと思っている。

今まで闘うことで得たものより

失ったものの方が多いからだ。

闘うことは全てにおいて悪なのかもしれないとまで

思ったこともあった。

闘いたいという気持ちと闘っても仕様がないという気持ちが入り混じっている。

数秒考えた。

バンファムの目を見て数秒考えた。

“わかった”

大和の出した答えは闘うことを選んだ。

母親の話しを聞いた後のバンファムの目が

少し今までとは違う気がしたから。

もしかしたら何かを得ることができるのかもしれないと

思った。

大和はブンミーにそのことをバンファムに伝えるように

頼んだ。

少し心配そうな表情でブンミーは

バンファムの方へ近寄っていき

闘うことを了承したことを伝える。

するとバンファムは自分の仲間の一人を呼び寄せた。

その仲間が来るとバンファムはそこから背を向け

歩いて行ってしまった。

ブンミーが歩いて大和の方へ困惑した表情で近づいてきた。

ブンミーの口から先に仲間の一人と対戦するように

告げられた。

たしかにバンファムも今対戦したばかりだ。

当然といえば当然だろう。

大和は“わかった”とブンミーに告げる。

バンファムに倒された欧米人はその仲間に担がれて

輪の外に運ばれて行った。

その仲間皆困惑した表情だ。

その中には女性も数人いて

女性の中には泣き出しているものもいた。

すぐに病院に連れて行かなければならないだろう。

ブンミー達もその場所から離れた。

見物人の輪の中にはバンファムの仲間一人と

大和のみとなった。

見物人の誰もがまだ困惑した表情で沈黙のまま

大和とバンファムの仲間のその状況を眺めていた。

開始の合図も何もなかったが、

人々の輪の中に残された2人には

闘いの緊張感が肌を伝って感じられていた。

すでに始まっていることを。

バンファムの仲間の身長は大和と同じくらい。

バンファムよりも太い、筋肉質の体格だった。

五分刈りほどの坊主頭に鋭い目をしている。

構えたポーズはキックボクシングのような構えのように

見える。

ムエタイとは少し違う感じであった。

バンファムの仲間と大和の距離はまだは少し空いている。

大和は肩を回したり、指を鳴らしたりして

体の状態をほぐして

少しずつ歩いて距離を詰めていく。

その間、相手から決して目は離さない。

徐々に意識も集中していき雑念がどこかに飛んでいく。

相手を倒すことのみが頭の中に残っていく。

大和の目が横に広がるように座っていき、別の顔が現れた。

大和は相手との間合いがある程度詰まるとそこで止まった。

そしてゆっくりと構えを取る。

半身になり腰を落とし、左足を前に、

クロスするように右足が後方に、

右手は顎のすぐ下に位置させ、

その右手を覆うように左腕を配置させた。

両者の準備は整った。

大和はまるで無空間の中にいるようかのような感覚に

陥っている。

極限付近までに集中力を高めていた。

集中力が高まると、

目の前のものしか見えなくなるのではなく、

回り全体、360度全部が見えるような感覚になる。

真後ろで鳴った、枝を踏みつけた小さな音すら

鮮明に聞き取れるようになる。

大和は本気の体制に入った。

バンファムの仲間は瞬時に間合いを詰め、

大和の前に出している左足に

右のローキックを放ってきた。

大和の左足にローキックが当たるが、

ローキックの流れる方向に合わせて左足を浮かせ

それをかわす。

と同時に浮かせた左足をそのままの勢いでさらに上げ、

足刀蹴りを相手の胸元あたりに打ち込んだ。

バンファムの仲間はかろうじて腕でガードして防いだ。

が、ガードをしてもその勢いは抑えきれず、

後方にのせ反ってしまった。

バンファムの仲間は負けじと右のハイキックを打ち返す。

それを左腕を前に出し、

右腕を十字をきるように添えてガードをつくり防いだ。

そのガードに重いハイキックがぶち当たる。

防いだと同時に大和は前に出る。

腰を落とし、踏み込んで右の拳を相手の胸元に打ち込んだ。

強烈な一撃が相手の胸にめり込む。

バンファムの仲間は一瞬息ができなくなり、

慌てて大和との距離を取る。

両腕で構えを取り、息が整うのを待った。

しかし、大和は畳み掛けるように相手の距離を詰め、

踏み込んだ。

大和は右の前蹴りを打ち込む。

相手はそれを腕をクロスし、払い退ける。

大和は続けざまに左のストレート、

右のフックを打ち込んできた。

相手は左ストレートを交わし、

右のフックを腕でガードして防いだ。

大和の右のフックが戻ると同時に

右の上段回し蹴りが相手に向かってしなりをあげて

向かってきた。

相手はそれも腕でガードして防いだ。

そのガードに大和の回し蹴りがめり込み、腕がしなる。

大和は一旦バックステップで後方に下がり、間合いを取る。

回りの見物人から歓声は上がっていない。

呆気にとられているようだった。

通常ストリートファイトは素手で行うため、

対戦者はよっぽどのことがなければ

相手の攻撃を注意して積極的には動かない。

基本的には顔面を狙いに来るし、

一発もらったら致命傷になるからだ。

様子を見て、様子を見て、

ここぞという時に攻撃を仕掛ける。

それが定説となっている。

しかし大和はそれを度外視するかのような

思いっきりの良い闘いをしていた。

それだけ自分の力に自信があるのか、

ただのバカなのかという目で

見物人は見ていたのだ。

しかし、今の状況は完全に大和が優勢であるのは

間違いない。

大和は構えながら右の方向へ動き出した。

それに合わせるかのように相手は左方向へ動き出し、

二人は円を描くように回り出し、お互いの隙を伺っていた。

徐々にバンファムの仲間の息が元に戻ってきている。

少しづつ冷静さも取り戻してきているようだ。

バンファムの仲間は牽制のミドルキックを放つ。

大和はそれをバックステップで避けた。

距離が空いた分大和は徐々に間合いを詰めていく。

大和が間合いを詰めてくる分相手は

それを嫌がるように後方に下がる。

バンファムの仲間は近づくなと言わんばかりに

左のミドルの前蹴りを放ってきた。

大和はそれを腕で払い退けると、また踏み込んだ。

一気に間合いを詰め、

左膝を上げ膝から相手にぶつかって行った。

バンファムの仲間はぶつかってきたことで少し怯むが、

腰を落としてそれを耐えた。

近距離での打ち合いが始まった。

大和は右のフックを相手の顔面に打ち込む。

相手は咄嗟に腕でガードし防ぐ。

大和はそのフックを打ち込んだ拳を返す刀で方向を変え

相手の脇腹に減り込ませた。

相手の体が少しくの字に折れ曲がる。

相手も負けじと右の肘を大和の顔面目掛けて

打ち込んできた。

大和はそれを左のガードで防ぐ。

防いだ左肘をそのまま相手に打ち込む。

その左肘は相手のほほ骨を深くえぐり取った。

たまらず、バンファムの仲間は大和を抱きつく。

抱きつくと同時に首相撲に持ち込もうとしていた。

首を押さえる腕が完全に入る前に

大和は左腕で相手の首に腕を回し、抱え込んだ。

バンファムの仲間はその体制でひざ蹴りを打ち込んでくる。

しかし大和の体制が半身の状態のため、

うまくひざ蹴りが入らない。

大和は相手の首を抱え込んだまま、

右の拳を相手のみぞおち目掛けて

打ち込んでいった。

立て続けに。

1発2発3発4発5発6発7発8発。

容赦なく打ち込む。

相手は血と唾液が入り混じったものを吐き出し

腹をかかえ、地面にしゃがみ込んでいく。

大和は振り返りブンミーに“終わりだ”と告げる。

ブンミーがバンファムの方を見ると

彼は転がっていた木の箱の上に腰を下ろし、

腕を組みながら冷静な表情でその場面を見ていた。

不意にバンファムは立ち上がる。

立ち上がって、大和方へ歩みを進めて行った。

見物人の輪の中に入ると仲間たちに

手を何かを払うように広げ、

この場から今しがた大和に敗れた仲間を

立ち退けるように合図した。

バンファムの仲間たちは心配した表情で

大和に敗れた仲間を介抱し連れ出した。

バンファムは輪の中心で立ち止まり大和を凝視している。

大和もバンファムから目を離さないでいた。

大和は覚悟を決めようと思った。

おそらくバンファムが相手となれば

一筋縄で勝てるような奴ではない。

しかし、絶対に勝つためには腕の一本や二本、

目の一つでもなくしてもいいという

覚悟をしなければならないと思った。

ふとまた過去のことを思い出してしまう。

これが本当に正しい選択なのか。

ありとあらゆることがまた大和の中に降り注いできた。

しかしもう後戻りはできない。

やってみるしかない。

大和は考えるのをやめた。

というより無理やり押しつぶした。

一呼吸置き、大和は左右の指を絡めて

手のひらを天にかざすように高く上に上げた。

上げると同時に深く息を吸い込み、

ゆっくりと上げた手を下へ下ろして行く。

下ろすと同時に息をゆっくりと、

けれど、しっかりと吐いていく。

両手の掌が臍下丹田まで下りたとき、息を全て吐ききる。

と同時に自然に息が身体の中に注ぎ込まれていった。

見物人から徐々に歓声が上りだした。

二人の闘いに見物人たちが徐々に胸を躍らせ始めている。

“プラチナモンキー”という言葉が

見物人の中から発せられる。

バンファムのことだ。

きっとここを訪れた外国人の間で

そういう呼び名で通っているのであろう。


突然闘いは始まった。

バンファムはスッと素早い動きで大和との間を詰める、

大和の間合いより遠い位置からその長い腕から発せられる

拳を大和の顔面辺りを目掛けて突き立ててきた。

大和はバックステップでそれをかわそうとする。

しかし想像以上にその拳は伸び上がってくる。

かわしきれなかった。

大和は左の頬あたりを弾かれた。

後方に下がりながらだったため、

完全には当たってはいなかった。

しかし、微妙に脳を揺さぶられた。

咄嗟に大和はバックステップで後方に下がり、

バンファムとの間を広げた。

思った以上にバンファムのリーチは長く、鋭く、重い。

力の込め方が絶妙だった。

鞭のようにしなりをあげるかのようにやわらかく、

しかし鋭く迫ってきた拳は当たる寸前に力を込められ、

目の前で硬い石のように変化してぶつかってきた。

大和は顎のすぐ下に置いていた右拳を覆うように

配置していた左腕の構えを前に少し突き出した。

防御の構えを少し変え、遠距離での対戦に備えた。

その左腕で距離を図る。

やられっぱなしは性に合わない。

大和は軽くリズムを刻み、攻撃するタイミングを図る。

そのリズムは不規則。

相手にタイミングを図られないために。

自分だけのタイミングのリズムである。

大和はバンファムの呼吸に意識を集中する。

大和は右方向に移動する。

バンファムもそれに合わせるかのように右に移動し、

二人は螺旋を描くかのように一定の距離を保ちながら動き、

攻撃の機会を図っていた。

“!”

大和が一気に間を詰める。

自分の呼吸と相手の呼吸が相対した。

つまり大和の攻撃に適した呼吸のタイミングと

バンファムの攻撃に適さない呼吸のタイミングが重なった。

バンファムの懐に入り込み顔面へ左フックを打ち込む。

バンファムは顔を仰け反らせ、それをかわした。

続けざまに右フックを打ち込む。

それも顔を仰け反らせ避ける。

バンファムはバックステップで少し大和との間を空け、

若干上体を反らせ左ストレートを打ち込んできた。

その瞬間大和の目の前にはバンファムの拳があった。

咄嗟に左手でガードするも

ガードもろとも右のこめかみあたりを弾かれた。

パンチのスピードが恐ろしく速い。

打ち込んできたと思った瞬間にはもう目の前に

硬い石のような拳が存在する。

しかも動体視力も良い。

完全に大和の拳を目で追って避けている。

大和は一旦後方へ下がり、バンファムとの距離を取った。

少し右目あたりに違和感を感じた。

先ほど弾かれた右のこめかみあたりからだ。

おそらくもう少しすると

右目あたりが腫れ上がってくるであろう。

そうなると腫れ上がったせいで、右目の視力が低下する。

あの速い拳を相手に目をやられたのはかなり痛い。

バンファムは手応えを感じたのか、間合いを詰め、

仕掛けてきた。

左のハイキックを打ち込んできた。

さきほどダメージを受けた右のこめかみを狙ってきた。

大和はそれを十字クロスのガードで受け止める。

防いですぐにバンファムの腹に

右前蹴りを打ち込んでいった。

それは腹にめり込み、バンファムを弾き飛ばす。

その一撃でバンファムはバランスを崩し

地面に転がってしまった。

しかしすぐに起き上がり体制を整える。

大和も深追いはしなかった。

一旦両者距離を取り、様子を見る。

徐々に大和の右目の上あたりが青く膨れ上がってきた。

しかしまださほど視力に影響はない。

バンファムは体を前のめりにし、大和との距離を

ジリジリと詰めていく。

大和は下がらず、迎い入れるつもりだ。

大和の間合いより遠い位置から

バンファムの左拳が飛んできた、

大和はそれを左腕で弾き防ぐ。

1発2発、連続でバンファの拳が飛んでくる。

大和は少しずつ前に出ながらその拳を腕で弾いて防いだ。

またバンファムの左の拳がまっすぐに飛んできた。

防ぐ。

しかしそのすぐ次の左拳は軌道を変え

大和の脇腹に向かっていった。

大和は右腕を折り曲げ下へ下ろし、右脇腹をガードした。

ガードの上からバンファムの左拳がめり込む。

と同時に大和が前に踏む込む。

一気に間合いを詰める。

バンファムも少し前に出て、

右肘打ちを大和のこめかみ目掛けて打ち込んできた。

大和は腕を折り曲げてこめかみを覆いガードし、

それを防いだ。

防いですぐ大和の右拳が下から上へ向かって走っていく。

ターゲットはバンファムの顎。

バンファムにアッパーカットを打ち込んだ。

バンファムはかろうじてそれを避ける。

が、少し反り返りバランスが崩れた。

すかさず、大和は一歩踏み込み

左肩からバンファムの胸あたりめがけて

体当たりをしてさらにバランスを崩させた。

バンファムは後方に大きく吹き飛ぶ。

大和は踏み込み、間合いを詰め、

左拳をバンファムの胸に打ち込み、めり込ませた。

続けて右拳を顎に目掛けて打ち込んでいった。

しかしバンファムは腕で顎をガードしそれを防ぐ。

立て続けに上段右回し蹴りを

バンファムの頭に打ち込んでいった。

バンファムはこれも腕でガードして防いだ。

が、そのガードした腕がしなりをあげている。

さらにもう一発右上段回し蹴りを放つ。

ガードしていてもおかまいなしに打ち込んでいった。

そのガードに上段回し蹴りがめり込む。

バンファムのガードした腕に鈍いしびれが走る。

大和はガードした腕を狙って打ち込んでいた。

ガードした腕にダメージをあたえて

うまく動かなくするため。

バンファムは後方に下がり、大和との距離を取った。

大和も追わず距離を少し取った。

バンファムのダメージの蓄積が少しあった。

大和も息が上がっている。

右目もまた少し膨れ上がってきたようだ。

両者状態を整えようとしていた。

息を整える。

1・2・3・4・5・6・7・8・9・10

今度は両者が同時に動く。

大和が大きく踏み込んで行った。

バンファムは一歩前へ。

大和の攻撃に合わせカウンターを狙っている。

大和は左中段回し蹴りを打ち込んでいった。

それに合わせ絶妙のタイミングで

バンファムは左の拳を大和の顔にカウンター気味に放ち、

中段蹴りを右腕でガードする。

しかし、大和もそれが来るのを狙っていた。

左足が戻ると同時に、というより戻る前に右の拳を

逆カウンターで打ち込んでいった。

大和はバンファムのパンチを

右のパンチを沿わせながらかわし、

右の拳を顔面に打ち込んだ。

バンファムの顔が歪む。

しかし、左足が若干宙に浮いた状態で

放ったパンチであったため十分な力はでていないが、

グローブなしの素手での拳の打撃を

まともに喰らってしまった。

だが、実際顔面への打撲のダメージは大きいものの

脳を大きく揺さぶられるのは

グローブでのパンチの方が大きい。

なのでバンファムの意識が吹っ飛ばされてしまうことは

なかった。

数秒感覚の傾きはあったがそれを耐える。

すかさず大和はバンファムの首を両手で抱え込む。

そしてバンファムの頭を

自分の胸の方へ引き寄せるようにし、

膝を腹に打ち込んでいった。

バンファムは両腕で腹をガードしそれを防ごうとする。

そのガードをすり抜け、あるいはガードを吹き飛ばし

腹に何発も、膝が打ち込まれてくる。

しかし、ガードを間に挟んでいるせいで

致命的ダメージにはいたらない。

数発膝を打ち込んだあと、

大和はスッと絡めていた手をほどいた。

バンファムの顔がすぐに浮かび上がってくる。

それを狙うように大和の右拳が下から上へ

バンファムの顎先目掛け跳ね上がってくる。

だが、バンファムはそれを素早い動作で当たる寸前で

避ける。

膝を打ち込まれている間に意識を復活させていたようだ。

今度はバンファムの右拳が下から上に鋭く

跳ね上がってきた。

大和もそれを素早い反応で避ける。

バンファムはすぐさま後方へバックステップで下がり、

左ジャブを顔面に打ち込んできた。

大和はそれを左に顔を振り、かわす。

大和が後方に下がるという選択肢はない。

まず多少バックステップした位では

バンファムの腕は届いてくる。

後方に下がるなら大きく下がるしかない。

しかしそれはバンファムに優位な状況になるだけだ。

大和はとにかく前に出て、

自分の攻撃が当たる間合いに入り込んで

攻めるしかないのだ。

バンファムのパンチの間合いは

大和の蹴りの間合いとほぼ同じ。

蹴り対拳とのやりとりとなると放った時の隙の大きさ、

スピード、打ち出すまでの時間、

どれも拳の打ち出しの方が優れている。

勝るものはパワーだけ。

しかしそれは圧倒的。

だが、バンファムを倒すには至近距離での打ち合いだと

大和は考えた。

今までのやりとりでわかったこと。

若干バンファムは近距離での打ち合いが苦手のようだった。

返って腕の長さが災いして、

至近距離では腕をうまく扱えないように思えた。

しかしそれは本当に若干のことであった。

だが、そこに勝機の鍵があると大和は思った。

戦いなんてものに絶対なんてない。

よっぽどの実力の差がなければ。

あったとしてもどんでん返しなんてものはざらにある。

勝つということはほぼほどが運である。

その時の運に恵まれたものが勝利を得られる。

だが、今大和は勝たなければならない。

それが前提にある以上、

ありとあらゆる可能性を駆使しなければ。

卑怯な手を使わず、バンファムが自ら負けを認めるほどに

ねじ伏せなければ。

おそらく、そこまではできないだろう。

でも完全な勝利を得なければ。

バンファムは両手をダラリと前に垂らした状態で、

軽快なステップを踏み始める。

また鋭いジャブを大和に打ち出してきた。

大和はそれをかわし前に出る。

バンファムは大和が前に出てきた分後ろに下がる。

そしてまたジャブを打ち込んでくる。

大和はかわしきれず、腕でガードして防ぐ。

バンファムは大和を寄せ付けず、

自分の間合いで闘う作戦のようだ。

バンファムのジャブがまた一発放たれる。

大和は横に避け前に出る。

しかしすぐにもう一発が飛んできた。

それも避けた。

さらに前に出る。

今度は右のストレートが飛んできた。

それを左腕でガードし弾く。

弾くと同時に右上段回し蹴りを大和は放った。

それをバンファムは鼻先でかろうじてかわす。

かわしてすぐバンファムは一歩前に出た。

左足を踏み込み右ハイキックを放つ。

咄嗟に大和は十字クロスガードで頭をガードした。

しかしバンファムのハイキックは

途中で膝から先の起動が変わり、

頭ではなく、大和の左脇腹に滑り込んできた。

大和の左脇腹にバンファムの右足が深くめり込んだ。

大和の呼吸が一瞬止まる。

慌てて息を吸い込んだ。

“アバラがいったか?”

大和は自分の体に問いかける。

バンファムと距離を取った。

足を踏み込んで自分の体を確認する。

“いや、まだいってない”

バンファムの鋭い蹴りがまともにめり込んだが、

途中で起動を変えた変則的なキックだったことで

威力が半減したのか、

アバラの方はまだ折れてはいないようだ。

しかし脇腹に重い痛みが蓄積していた。

チャンスとばかりにバンファムは畳み掛けるように

攻撃を仕掛ける。

左ジャブ、左ジャブ、右ストレート、左フック、右アッパーと連続で打ち込んできた。

大和は腕でガードするのが精一杯だった。

迂闊にもそのせいで先ほど蹴りを喰らった左脇腹が

空いてしまった。

案の定そこにバンファムの右ミドルキックが飛んできた。

大和の左脇腹にバンファムの右ミドルキックが

めり込んでしまった。

しかし大和は咄嗟にくの字に体を折り曲げ

衝撃を多少半減させた。

だが、脇腹には強烈なダメージが蓄積された。

かまうことなく大和は足を踏み切り右正拳突きを

バンファムの胸に打ち込む。

バンファムは胸に拳を打ち込まれ一瞬息ができなくなり

胸を押さえ

後方に後ずさりする。

大和は畳み掛ける。

左、右の拳を打ち込み、右の上段回し蹴り。

バンファムはそれをガードでなんとか防いだが、

ガードした腕にダメージが蓄積していっている。

若干腕がうまく動かなくなってきている。

バンファムは必死に息を整えようとした。

尚も大和は攻撃の手を休めなかった。

拳をバンファムの体のあらゆるところを狙って

打ち込んでくる。

バンファムはガードが追いつかず、

腹、胸、脇腹に何発か攻撃が打ち込まれていく。

ダメージが蓄積した腕がうまく動かない。

顔と顎だけを徹底してガードすることにした。

それでバンファムは大和の体力が尽きるのを待った。

もうそろそろ体力が尽きると思っていた。

しかし大和の攻撃は尚も続いた。

アバラ、みぞおちに拳を打ち込む。

大和はバンファムが頭へのガードに徹しているのを察し、

腹に集中して攻撃を打ち込んでいった。

バンファムは耐えきれず大和にしがみついた。

しがみつくと同時に

大和の腫れた右目を狙って頭突きをした。

咄嗟のことで大和は避けきれず、

まともに打ち込まれてしまう。

完全に右目が塞がれた。

大和はすぐにバンファムを引っぺがす。

その頭突きで大和の攻撃は止まった。

バンファムもその隙に距離を取る。

大和の右目の上の皮膚が見る見るうちに腫れ上がり、

右の目を覆い隠す。

大和は逆に右目を自ら瞑った。

下手に見えるよりも、

左目だけで見ようとした方が視界がはっきりする。

流れを崩したくない大和は右目を負傷した状態でも

前に出た。

右上段回し蹴りからの左上段後ろ回し蹴りの

コンビネーション。

バンファムはそれをスウェーでなんとか避ける。

その次は右のローキックでバンファムの右足を狙って

打ち込む。

バンファムは大和のローキックを足を浮かせ

衝撃を半減させ、受け流す。

ローキックを受け流したと同時に

大和へ左のストレートを打ち込んできた。

腕にダメージが蓄積しているためか、

少しスピードは鈍い感じはする。

それでも常人のスピードではないそのパンチを

右目の見えない大和には避けることができず、

まともに顎先にそれをもらってしまう。

大和の意識が一瞬遠のく。

“勝負を焦りすぎたか”

どうしても勝たなければという気持ちが

冷静さをかけさせていた。

大和は冷静さを取り戻す。

しかしその時にはすでにバンファムの次の攻撃がきていた。

空がどこにあって、

地面がどこにあるのかわからない状態の中で

ドン!と大和の顔にものすごい勢いの何かが当たってきた。

バンファムの飛び膝蹴りが

大和の顔面にめり込んでいたのだ。

大和は足の力が一瞬で無くなり、膝から崩れ落ちる。

大和はこの場所ではない

どこかの場所にいるような意識の中で

今の状況を考えていた。

“負けたのか”

“しかし勝たなければならない”

“じゃあどうする”

“立ち上がる”

“まだ間に合うか”

“でもやらなければ”

“恐怖を取り払え”

“痛いという恐怖”

“苦しいという恐怖”

“体が壊れるという恐怖”

“死ぬという恐怖”

“この命をくれてやろう”

・・・・・・

大和の意識が元にもどる。

まだ崩れ落ちていない。

崩れ落ちる寸前のことだった。

足の力が無くなってすぐだ。

先ほどの大和の感覚はほんの数秒、

0コンマ何秒の世界だったのだろう。

大和はすぐに足の力を取り戻し、腰に力を入れた。

しかし大和の意識は今までとは少し違う。

トランス状態という言葉が

当てはまるかどうかはわからないが、

余計なことが一切無くなっている状態。

痛い、辛い、苦しいなどの感覚が取り除かれていた。

大和は右足を折り曲げ高く振り上げた。

膝が上りきると同時に今度は膝から先が勢いを増して

空気を切り裂くように振り上げられていく。

そのつま先がバンファムの顎先を抉り取っていった。

バンファムは顎を弾かれえび反り状態で弾き飛ばされる。

大和のつま先が上に高く上りきると、

そのつま先はまだ勢いが残ったまま弧を描いていく。

その足は大和の胸に当たりしなりを上げる。

その足を両手を使って弾くと、

力の方向が変わり来た方向に戻っていく。

変形のかかと落とし。

1段目のつま先がバンファムの顎を下から弾き、

2段目のかかと落としがバンファムの頭上に

降りかかってきていた。

そのかかとはバンファムの頭に打ち込まれていった。

バンファムが地面に崩れ落ちていく。

勝敗が決まった。



ー10ー


見物人たちは誰もいなくなり、

バンファムとバンファムの仲間3人とブンミー、

大和だけがその場に残った。

生暖かい夜風が大和たちの頬を撫で、

不思議とその場にいる男たちの心を穏やかにさせていた。

バンファムの感情も落ち着いているように思えた。

バンファムの母親に話をして、話を聞いたことに対して

大和とブンミーはバンファムの感情を

逆撫でするのではないか、そう思っていた。

そこをなんとか説得するつもりだった。

しかし、バンファムはブンミーが母親に

バンファムが今やっていることを話したことに対して

そこまでの嫌悪感を抱きはしなかった。

むしろ、なにかホッとしたような、

肩の荷が下りたかのようなそんな表情をしたように

大和は思えた。

今もバンファムの表情は今までとは違う風に思える。

闘いに負けたというのに落ち着いている。

ブンミーから聞いた話では、

負けるということを決して認めない、

そのことに怒りを顕にする男だと聞いていた。

何が彼の中で起っているのか。

ブンミーはバンファムに話をし始めた。

おそらくバンファムの母親から聞いた話を、

母親の想いをもっと詳しく話しているのだろう。

バンファムは穏やかな表情でブンミーの話に

耳を傾けていた。

ブンミーが一通り話し終えると少しの間沈黙が続いた。

最初に言葉を発したのはバンファムだった。

バンファムは穏やかな口調で大和や仲間達に話をしていた。

大和はバンファムが何を語っているのかはわからなかったが

何か今までつっかえていたトゲがやっと取れたかのような

表情を見て安心できた。

人は表情に全てが現れるように思う。

本当に楽しいときには回りまで楽しくなってしまうような

表情が。

本当に悲しいときには回りまで悲しくなってしまうような

表情が。

言葉では表すことのできないものが表情には出ると思う。

バンファムはもしかしたら

誰かに助けを求めていたのかもしれない。

あれは怒りの表情ではなかったのかもしれない。

バンファムが話終えると大和は立ち上がった。

ブンミーにバンファムが今語った内容を

聞くことはしなかった。

あとは彼らが問題を解決していくだろう。

ただのお節介が少しでも役に立てただけでいい。

大和は何も言わずにその場をあとにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る