乙女、異界に先導(1)

 家に帰り、部屋に入るや否や、わたしは制服のままベッドの上に倒れこんだ。

 疲れた。BLが楽しめないとかそういう話ではなく、もう本当に何もやる気が起きない。下手したら安藤くんと色々あった時よりしんどいかもしれない。あの時はどうなりたいとか、どうしたいとか、そういうものがあった。だけど今はない。ただひたすらに苦しいだけだ。

 ――もしかして同性愛のこと、気持ち悪いと思ってるんですか?

 そんなわけない――と思う。だけど、確証は持てない。だって莉緒ちゃんの言う通り、わたしはBLをあまり大っぴらに語るものではないと思っている。思っているからこそ、終業式の行動に繋がったのだ。心の底から隠すようなことじゃないと思っているなら最初から隠していなかった。それこそ、莉緒ちゃんのように。

「……はー」

 ブレザーのポケットからスマホを取り出す。いつの間にか、LINEに通話が飛んできていた。通話の送り主は――

『安藤純』

 あやうく、スマホを手から落としかけた。ベッドの縁に腰かけ、こっちから安藤くんに通話を飛ばす。無意味に髪を弄りながら待つことおよそ十秒、スピーカーを通して少し割れた安藤くんの声が、わたしの耳に届いた。

「もしもし」

「安藤くん? 電話くれたよね。なに?」

「いや、ケイトさんに話聞いてさ。大丈夫かなって」

「大丈夫って?」

「迷惑かけちゃったとか、そういうの、気にしてるんじゃないかってこと」

 ――気にしていた。黙るわたしに、安藤くんが優しく告げる。

「深く考えなくていいと思うよ。少なくともケイトさんは気にしてなかったし」

「……うん」

「元気ないね。やっぱ気になる?」

「いや、それもそうなんだけど、その後も色々あって……」

「色々?」

「ケイトさんのお店に連れてった子は放送部なんだけどさ、わたしに怒られてなんかムキになったみたいで、今日いきなり校内放送でBL談義始めちゃったんだよね……聞いてるこっちが恥ずかしくなる感じの」

「三浦さんが終業式でやったみたいな?」

 さらっと急所を突かれた。わたしはついムキになって声を荒げる。

「いや、そう言われるとそれはそうだけどさ、わたしは別にあそこでBL談義したかったわけじゃないから。たまたま自分にとって大事なものがBLだっただけで、ミニ四駆だったらミニ四駆のこと話してたから」

「……なんでミニ四駆?」

「話すこといっぱいありそうだなと思って」

「分かるような分からないような……まあ、それはいいや」

 軌道修正。そして、本題。

「で、三浦さんはそれでどうしたの?」

「怒った。でもガッツリ反論されちゃってさ。それが一理あるっていうか、上手く言い返せなくて、引き下がっちゃったんだよね……」

「例えば?」

「わたしがBLを隠したがるのは同性愛のことを気持ち悪いと思ってるからだ、とか」

「それはないでしょ」

 ばっさりと言い切られた。靄が少し払われ、わたしは言葉に喰いつく。

「どうしてそう思う?」

「どうしても何も、三浦さんは同性愛のこと気持ち悪いって思ってるの?」

「まさか」

「でしょ。じゃあ、そんなわけないよ」

 シンプルで力強い言葉が、わたしの胸に深く刺さった。

「好きなものを堂々と好きだと言うのは勇気がいるってだけの話だと思うよ。BLに限った話じゃない。好きな相手が出来てそれを隠したがる人は、その相手のことを気持ち悪いと思ってるの?」

「そっか……そういわれるとそうかも」

「まあ、モノによって言いにくさはあると思うけどさ。特にほら、BLって全体的にエッチでしょ。前に三浦さんから借りた本もだいたいエロ本だったし。でもそういうエッチなものを好きだって言いにくいのは男も一緒だから安心して。そりゃ亮平みたいにガンガン言うオープンスケベもいるけど、三浦さんみたいなムッツリスケベもたくさんいるし、それは何も悪いことじゃないと思うよ」

「言い方!」

 スマホに向かって怒鳴る。安藤くんは笑いながら「ごめん」と答え、そしてぽつりと言葉を続けた。

「まあただ、これは三浦さんがあまりオープンにしたくない理由であって、その後輩の子にオープンにするなって話とは違うけど」

 ――その通りだ。そして一番の問題はそっちにある。わたしがオープンにしたくない理由なんて正直どうでもいい。そんなものは誰も傷つけないし、何の影響もない。

「そうなんだよね……どうすれば止められるかな」

「止めたいの?」

「それはそうでしょ。学校にはまだ明かしてないだけで安藤くんと『同じ』人がいっぱいいるんだよ。そういう人がBL語りまくる放送聞いたら冷や汗かかない?」

「それは確かに……僕も佐倉さんや近藤さんといる時はそこそこ困ったしね」

「困ってたの?」

「うん。特に近藤さんはナチュラルに『気持ち悪い』とか言うから」

「でもそれはBLが悪いんじゃなくて、近藤さんが悪いんでしょ?」

「そうだけど、ネタにしてることはしてるんだから、大本に全く問題がないとは言えないでしょ。近藤さんだってそういうネタっぽい空気に当てられたところはあると思うよ。僕がそうだって分かった後は謝ってくれたんだし」

 なるほど。「それは馬鹿にする方が悪いんです」への反論ゲット。後は――

「でもさ、ネタにしてるのは異性愛の漫画とかも同じだし、BLの話をするなって言うならそっちも止めないと筋が通らなくない?」 

「うーん……僕にはよく分からないんだけどさ、異性愛者の人って自分が異性愛者だってことにアイデンティティ持ってるの?」

 アイデンティティ。言葉の意図を読み取るより早く、安藤くんが続きを語る。

「話がBLからスタートしてるから異性愛とか同性愛とかになるけど、それってあまり関係ないと思うんだよね」

「どういうこと?」

「例えば古い漫画って『お金持ち』とか『高学歴』とか『教師』とか、偉い雰囲気の人が嫌味な悪役でよく登場するよね。ああいうの、それにアイデンティティ置いてる人からしたら、すごいイヤだったと思うんだ。教師の仕事に誇りを持って取り組んでる人が漫画を読んで、出てくる教師みんな悪役ばっかりだったら、げんなりするでしょ」

「それは、まあ、確かに」

「それと同じだよ。アイデンティティを置いているものを雑に扱われると人は怒る。だから多くの人がアイデンティティを置いているものの扱いには注意を払う必要がある。まあその中でも『高学歴は自分で選んだ道だけど同性愛は好きでなったわけじゃない』とかはあるし、どれぐらい注意すべきかはモノによって違うだろうけど、何にせよ異性愛とか同性愛とかの問題じゃないと思うよ。デリケートなものはデリケートに扱おうっていうシンプルな話でしょ」

「そっかー。なるほどねー」

 電話越しには伝わらないけれど、わたしは大きく首を縦に振った。そして意気揚々と安藤くんに告げる。

「ありがとう。安藤くんに相談した甲斐があった。これで莉緒ちゃんに勝てる」

「……いや、それはどうかと思うけど」

「どうして? まだ何か理論に穴がある?」

「そういうことじゃなくてさ、勝った負けたの話にしていいの?」

 反撃の糸口を見つけ、勢いづいていた気持ちが、ぴたりと止まった。

「裁判やってるんじゃないんだから、そんなの気にしても意味ないんじゃないかな。三浦さんだって口論でやり込めて自分が気持ち良くなれば満足ってわけじゃないでしょ」

「……うん」

「じゃあ必要なのは理屈じゃなくて言葉だよ。一番その子に伝わる言葉。それは僕じゃ絶対に分からない。三浦さんじゃないと」

 また難しいことを言う。だけど、その通りだ。わたしがやりたいのはディベートではない。だから論理が正しいとか、整合性が取れているとか、そういうのはどうでもいい。大事なのは心に届くか届かないか。そして、どうやって届かせるか。

 でも――どうすればいいのだろう。

「三浦さん?」

 考えこむわたしの耳に、安藤くんからの呼びかけが届いた。わたしは慌てて「なに?」と尋ね返す。

「いや、黙っちゃったからどうしたのかなと思って」

「ごめん。考え事してた」

「そっか。まあ、それは後でゆっくり考えてよ。それより、ちょっとぜんぜん関係ない話していい?」

「なに?」

「ケイトさんのお店で、僕の前彼に会ったんだってね」

 佐々木さん。まるで想像していなかったところに話が飛び、わたしは思わず息を呑む。

「そのパターン、全く想像してなくてさ。考えが浅かった。ごめん」

「別にいいよ。いい人だったし」

「……まあ、確かに外面はいい人かな」

 辛辣だ。とはいえ、わたしも紳士的な態度と結婚指輪を同時に見て考えるのを止めたクチだし、気持ちは分からなくもない。わたしが思うよりずっと複雑な人だし、安藤くんのあの人に対する想いも、相当に複雑なものがあるのだろう。

「あの人、僕について何か言ってた?」

「うーん、そう言われてもほとんど話さなかったから。大阪ではカミングアウトしてるんですよーって教えたら感心してたぐらい」

「そっか」

 嘘をつく。本当はもう一つ、彼氏が出来たことを教えた。そして――

 ――自分勝手にショックを受ける権利はない。

「ねえ」少し踏み込む。「今の彼氏とは仲良くやってるの?」

 返答が、露骨に止まった。自分のことを聞かれると口が重くなる。これはカミングアウトしても変わらない性分のようだ。

「……まあ、ぼちぼち」

「なにぼちぼちって」

「仲悪くはないよ」

「怪しいなあ。安藤くん、釣った魚に餌やらないタイプだから、わたしの時みたいにもうちょっと恋人らしくしろとか文句言われてるんじゃない?」

 安藤くんが黙った。――図星か。思った通りだけど、おかしい。

「別に何だっていいでしょ。なんでそんなこと知りたがるの」

「元彼が次の恋人と上手くやってるかどうか気になるの、そんなにおかしい?」

「あー、はいはい。上手くやってる。だから安心して」

「ふーん。昔のことはすっぱり忘れられるタイプなんだ」

 こっちは忘れられなくて困ってるのに、そっちは忘れちゃったのね。そんな風に嫌味っぽく言葉を放つ。「過去には縛られないタイプなんだ」みたいな、軽口が返って来ることを想像しながら。

 そして予想と全く違う返答に、心を揺さぶられる。

「そんなことないよ」

 芯の通った声が、わたしの鼓膜をとんと揺らした。

「忘れない。ちゃんと覚えてる。三浦さんのことも、前の彼のことも。でも覚えてるからこそ、前に進まなきゃならないって思う。そういうものじゃないかな」

 激励だ、とわたしは思った。

 安藤くんはきっと、わたしが安藤くんを忘れていないことを理解している。理解して、こういう台詞を吐いている。忘れなくていい。覚えていていい。それでも、前に進んで欲しい。そういう願いの込められた言葉。

 ――ズルいなあ。

 ズルい。本当に自分勝手だ。こんなことならこっちからフラないで、ちゃんと向こうに別れの言葉を言わせれば良かった。それが無いからわたしはずっと、消化不良で悩んでいるというのに。

 わたしはそうは思わない。忘れる必要があるし、忘れさせて欲しい。そんな台詞を思い浮かべながらわたしは口を開き、そして、全く違う言葉を短く言い切った。

「そうだね」

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