乙女、対話に奔走(2)

 そのまま「間違えました」と言って出て行くこともなく、男の人は重たい足取りで店の中に入ってきた。

 奥に向かう男の人に、ケイトさんが「いつものでいい?」と声をかけた。男の人はケイトさんを見ることなく――たぶん、見たらわたしも視界に入ってしまうから――短く「ああ」と答える。そして店の隅っこ、トイレのすぐ傍にある席に、わたしたちに背を向ける形で座った。

 ケイトさんが「いつもの」を男の人に渡しに行き、わたしたちのところに戻って来た。ガンガンいく莉緒ちゃんをケイトさんがさらっと受け流す会話が耳に全然入ってこない。角の席で座っている男の人が気になり、カフェオレを飲みながらちらちらと視線を送ってしまう。

「紗枝ちゃん」

 突然、ケイトさんがわたしに声をかけてきた。わたしは授業中、ノートに絵を描いている時に指名されたみたいに、勢いよく「はい!」と返事をする。

「一つ、頼んでもいい?」

「なんですか?」

「あそこに座ってる男の人いるでしょ。あの人、純くんのお友達なの。純くんが今どうしてるか気になってるみたいだから、教えてあげてきてくれない?」

 カップを手放しそうになった。

 落ち着いてソーサーの上に置く。何かの合図みたいに、カタンと硬い音が響く。視線で「話したいんでしょう?」と語りかけてくるケイトさんに向かって、ほんの少しだけ首を傾けて小さく頷き、わたしは椅子から立ち上がった。

「分かりました。じゃあ、行ってきます」

 そそくさと男の人が座っているテーブルに向かう。男の人はホットコーヒーを机の上に置き、どこか退屈そうに煙草をふかしている。コーヒーの色は真っ黒で、銘柄は分からないけれど、砂糖やミルクは入れていないようだ。

「あの」

 呼びかけられた男の人が、弾かれたようにわたしの方を向いた。少し煙草焼けした、ハスキーな声が耳に届く。

「なんだい?」

「ケイトさんから、安藤くんのことを話してやって欲しいって頼まれて……」

「ケイトから?」

 男の人がケイトさんの方を見やった。そしてひらひらと手を振るケイトさんを見て、舌打ちが漏れる寸前といった感じで唇を歪める。悪友というやつだろうか。一人でお店に来るぐらいだから、仲は悪くないんだろうけど。

「ありがとう。じゃあ、そこに座って」

 促された通り向かいの席に座ると、男の人がほとんど短くなっていない煙草を手元の灰皿に押し付けた。別に吸っていてもよかったのに。いい人なのかな。そんなことを考えて、左の薬指に嵌ったシルバーリングに気づいて、わけがわからなくなって考えるのを止める。

「最初に確認したいんだけど」男の人が、肘をテーブルに乗せた。「君は僕のことを、どれぐらい知っているのかな」

 どれぐらい。莉緒ちゃんまで届かないよう、小さな声で答える。

「ゲイだってことと、ご家族がいらっしゃることと、安藤くんと付き合ってたことぐらいです。あとは、名前も知りません」

「そうか。こちらも似たようなものだ。君が純くんと付き合ってたことと、別れたことは知っているけれど、他はほとんど何も知らないし、純くんから名前を教えて貰ってもいない」

「あ、三浦紗枝です」

 反射的に答える。男の人がまずはきょとんと目を丸くし、それからおかしそうに唇を歪めた。変なことを言ってしまっただろうか。恐る恐る、尋ねる。

「あの……わたし、なにか面白いこと言いました?」

「いや、名前を尋ねたつもりはなかったから、素直でかわいいなと思って」

「素直でかわいい……」

「ああ。純くんが惹かれるのも分かるよ。僕たちの世界にはない感覚だ」

「そうなんですか?」

「年単位の付き合いがあるけれど、偽名しか知らない。そういう相手がゴロゴロいる。自分を晒すことには慎重な人間が多いな」

 男の人がふっと視線を横に流した。だけどすぐにわたしを見やり、鋭い声を放つ。

「佐々木誠だ」

 男の人――佐々木さんが微笑みを浮かべた。

「純くんのこと、教えてくれるかな。大阪でも元気でやってるのかい?」

「やってますよ。向こうではカミングアウトして生活しています」

「へえ……それはすごいな。大丈夫なのか?」

「はい。みんな安藤くんのこと、受け入れてくれているみたいです。この間なんか同級生の彼氏できてたし」

 言ってから、しまったと思った。

 なまじ自分が彼女だったせいで、佐々木さんが彼氏だったことをすっかり忘れていた。「あなたの元恋人は新天地で別の恋人とよろしくやっているみたいですよ」なんて、ものすごい嫌味だ。どうしよう。

「……すいません」

「え?」

「彼氏の話は佐々木さんに言う必要なかったなーと思って」

「どうして」

「ショックじゃないですか?」

「……ああ、そういうことか。構わないよ。僕は、君や純くんには謝り続けなくてはならない立場だ。自分勝手にショックを受ける権利はない」

 強く言い切り、佐々木さんがコーヒーに口をつけた。何の動揺もなさそうな平然とした態度。でもわたしは、それが逆に気になる。

 ショックを受ける権利はない。

 ショックではないとは――言っていない。

「あの」

 背筋と首を伸ばす。肺と気道を真っ直ぐに揃え、声帯に震えの準備をさせる。

 頭の上から、超音波のようなキンキン声が響いた。

「師匠ー! わたしも混ぜてくださーい!」

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