アダム・レヴィーン前編

 5月の朝とても早い時刻、これまで気にも留めなかったなにげない風景が、アダム・レヴィーンを憂鬱にさせた。何しろ、道に咲く朝顔や近くの小学校で鳴る鐘にまでイライラするのだ。しかし、世間から見れば彼は幸せそのものだった。オックスフォードを出てMBAを取得し、世界的に名の知れたITの会社に入った。朝は5時に起きてランニングをする。定期的にジムに通い、汗を流す。出社前に5ドルの朝食を地元のコーヒーショップでとる。実家住まいなことも手伝い、資産はべらぼうにあったが、情報科学の修士号をとるために働きながら大学院に通った。二年後に無事二つ目の修士号を取得し、給料はさらに上がった。オンラインでの副業を始め、それも徐々に軌道に乗った。彼はハタから見れば紛れもなく成功者だった。しかし彼には大きな悩みがあった。早い話、彼は一度も女性と深い付き合いをしたことがなかった。


 たまたま見合いをしたのがきっかけだったが、就職でも研究室でもお世話になった大学の教授から、ある女性を紹介された。彼は何度か彼女と話し、惹かれていった。見合いを始める前は断るつもりだった。教授の紹介もあり、顔を出すだけの算段だったが、彼女の器の大きさに会うたびに驚かされていた。初めて会った時、彼女は彼の修士論文の内容をじっと聞いていた。経済の話などすればむこうも諦めてくれると思ったのだが、何と彼女は静かに、それでいて真摯に受け止めてくれた。彼は会うたびに、心が彼女に侵されていくことに気付いた。

 彼はとうとう、彼女に結婚を申し込んだ。彼女は驚いた。彼女自身も見合いには乗り気ではなかったものの、彼の博識ぶりに惹かれていたとのことだった。彼らはお互い、すべての人類の中で自分が最も幸せだと信じて疑わなかった。結婚式を迎えるまでは。

 結婚式を迎えるにあたり、彼は自身の人生について、とりわけ恋愛観について考えることとなった。と言うのも、彼は華々しい経歴を持ちながら、実のところ女性とつきあったことがなかった。それどころか、まともに手を握ったことさえも母親との記憶しかないくらいだった。好きな人ができなかったわけじゃない。ただなんとなく、目の前の仕事に忙殺され、いやそれは彼自身楽しんでいたことなのだが、恋愛については「見て見ぬふり」をすることが多かっただけの話なのだ。

午前7時、いきつけのベックスコーヒーショップに入る。彼はすでに朝、2キロ走っている。

「サラダセットを一つ」彼はいつもサラダセットとヨーグルトのセットを一日おきに頼んでいる。朝は彼にとって神聖な時間だった。この時にぼうっとしたり、本や新聞を読んだりして気持ちを落ち着かせるのだが、何となくその日は周りの人がうるさく、かつ出されたアイスティーの味も薄い気がした。隣にいる、小説をパソコンで書いている女子大生が叩くコーボードの音にさえイライラする。なんだってそんな、朝の七時から小説を書くんだ?

 負の連鎖は続くものだ。誤って肘がグラスに当たり、アイスティーをこぼした。更に運の悪いことに、それは隣の女子大生にもかかった。

「あ」と彼女は言った。黒淵眼鏡の奥にある大きな黒目が動く。アイスティーは彼女の富士通のパソコンにも被害が及んでいた。

「申し訳ございません」と彼は咄嗟に謝ったが、内実混乱していた。

「パソコンが……」彼女はマウスを一身に動かした。どうやらフリーズしてしまったみたいだ。やばいぞ、物理的破損だ。

「申し訳ございません、弁償しますから」と言いかけた時に、後ろから声がした。

「パソコンのことでお困りですか?」見ると、眼鏡をかけた、青いシャツの30くらいの朴訥とした男が立っていた。

「ええ、フリーズしてしまったのです」と、女子大生は彼に言った。私もすかさず、

「私がアイスティーをこぼしてしまって」と言った。

「ちょっと見てもいいですか?」と男は言った。

「ええ」女子大生はパソコンを差し出した。

「ちょっといじりますね」彼は画面上で何やら青い画面を出した。

「確かに物理的損傷みたいですので、ちょっと失礼しますよ」と彼はパソコンを裏返した。

「ロールさん、ドライバー盛っています?」青いシャツの男は仲間に話しかけた。

「ありますよ」ロールと呼ばれた男は鞄からドライバーを取り出した。

「部品を交換していいですか?」と青いシャツの彼は聞いた。

「お願いします」彼女が言った。

「私が払います」とアダムは言った。青いシャツの彼は頷き、そのまま作業を続けた。

「これでどうでしょうか」と彼はパソコンを再起動させた。画面は治った。

「たった今部品を交換したので、被害は少なく済みました」

「ありがとうございます」と彼女は言った。

「いくら払えばいいでしょう?」アダムが聞いた。

「200ドルです」淡々と彼は告げた。

「300ドル出しますよ、ところであなたの名前は?」

「レッドです」青いシャツを着ているのにレッド。なんとも覚えやすい名前だ。

「覚えておきます。今度あなたのお店をひいきにします。これでもITの会社に勤めているんです」

「貴方のお名前は?」とレッドが聞いた。

「アダムレヴィーンです」

「わかりました、レヴィーンさん。しかし私は普段、ITの会社に勤めているわけではないのです。最近はどちらが副業かわからないものです。今はそうですね、人々の悩みを解決するような職業、特に家庭問題についてのコンサルタントみたいなことをやっているんですよ。まあ、何か家庭のことでお困りがありましたら、声をかけてほしいですね」

「実は」とアダムは切り出した。

「私は女を知らないのです」


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