錆色の孝行

@buriburi09090909

第1話

 昨晩盛っておいた太郎のご飯は、朝になっても少しも減っていなかった。梅雨の湿気に色がすっかり悪くなっている。俺はため息をついて、ご飯をビニール袋の中に捨てた。

 なあ、太郎。一体全体、何が気にくわないんだ?

 新しい袋を開けて、太郎専用の皿に朝ごはんを盛り直す。カラカラという小気味いい音がする。ちょっと前までは、この音がするとすっ飛んできた太郎だったのに。

「太郎、飯だぞ」できるだけ美味しそうに聞こえるように、にこやかに声をかけた。

 当の太郎といえば、俺の呼びかけにも尻尾をパタンと振るばかりで、居間の隅から動く気はないようだ。

「ほら」

 皿を目の前に置きなおしても、ぷいと顔を背けられてしまった。

「馬鹿だなあ」

 俺は困った顔で笑う。太郎も心なしか、笑っているように見える。

 仕方ない。15分経っても食べなかったら、あれを出してやろう。

 飼い犬の太郎が一般のペットフードを食べなくなってから三ヶ月になる。季節の変わり目は食が細くなるから、と最初は悠長に構えていたのが、暖かくなってからも食欲が回復することはなく、一皿余裕で平らげていたのが半分になり、一週間後にはその半分になり……とうとう一口も食べなくなってしまった。雑種犬のわりには整っていた毛並みも艶をなくし、獣医に診せようと妻の恵子と相談していた矢先に、空腹からか噛り付いたローションティッシュを喉につまらせ、動物病院に救急搬送された。

「甘味料が入ってるからね。小さい子供や犬が喉に詰まらす事故は、よくあるんですよ」

 手際よく太郎の喉からティッシュを取り出した獣医の先生は、俺と妻にそう言って笑った。経緯を説明すると、獣医は「どうりで痩せてると思った」と頷いた後、まずはドッグフードを変えてみるのはどうか、とカタログを渡してくれた。

「病気やストレスの可能性もあるけど、ティッシュには噛り付いた。まずは食べるものを変えてみるといい。ダメならまた来なさい」

 こうして、カタログのペットフードをかたっぱしから試し––最後にたどり着いたのが、植物成分100%のいわゆる、ヴィーガン・フードだった。どんなご飯にも見向きもしなかった太郎は、「お前の大嫌いな野菜だ」と顔をしかめながら皿に盛り付けると恐る恐る近づいてきて、ゆっくりとそれを口にした。俺と恵子は、思わぬ結果に困惑した。これまで大好きだったドッグフードには目もくれず、過去に一口かじって吐き出したきりだったこれに食いつくとは、どういうことか。

 太郎の食欲が一応の形で戻り、体のラインも戻ったが、やはり動物性たんぱく質を摂らないというのは心配だった。獣医の先生は「犬の菜食主義の是非については、動物医学の世界でも結論がついていないんです」とした上で、「いつか、ひょっこり気が変わる日が来るかもしれない」と、一般フードも出し続けることを提案してくれた。

 今日まで、太郎はヴィーガン生活を続けている。検査もしたが、特に内臓などにも問題はないようだった。喉を撫でてやると、これまでと同じように身をよじらせて喜ぶ。食生活以外に、特に変わった点は見えないのだが。

 玄関のベルで散歩の合図をすると、喜んで愛用のカッパを咥えてきた。散歩と言っても梅雨の季節。太郎を自転車の前カゴに入れて近場を回るだけのサイクリングだが、部屋に閉じ込もっているよりは太郎も楽しいようで、今日もガレージに停めた前カゴに器用に飛び乗って、催促するように俺を振り返った。

「太郎、紫陽花が咲いてるな」

 話しかける度、分かっているのかいないのか、俺を振り返って笑っているような表情を見せる。ふと思いついて、小さな公園に寄ってみた。自転車を停めて一人と一匹、誰もいない園内を歩く。太郎はリードいらずの犬だ。お揃いの透明ガッパを小雨に濡らして、太郎の後ろをついていく。ブランコが風に揺れている。回転遊具は、いつのまに撤去されたのだろうか……そこまで考えて、俺は苦笑した。こんな近所の公園なのにも関わらず、最後に来たのはもう十年以上も前のことだった。

 俺と恵子の間には、子供がいない。望んだが恵まれなかった。だから無意識のうちに、子供のいる場所を避けるようになった。

 二人でいるのは寂しかったから、五年前に幼犬だった太郎を家族に迎えた。口には出さなかったけれど、明らかに俺たち二人の息子として、人間と変わらない愛情を注いだ。太郎は利口な犬だった。生まれて五年。人間の子供なら、一番手間のかかる時期だというのに、道端で走り出すこともなければ、夜中に吠え騒ぐこともない。

 少しくたびれて、ベンチに座って太郎が辺りを物色する様子をぼんやりと眺めた。ぐしょぐしょに濡れた砂場を掘ることの何が楽しいのか、いつもは綺麗好きな太郎がお尻をフリフリ上機嫌で、時たま確認するように俺の方をちらりと見ては、また鼻先を砂の中に突っ込む。激しくなってきた雨も相まって、家に帰るころには太郎は泥と雨でぐちゃぐちゃになっていた。恵子は帰ってきた俺たちを見て、「あら大変」となぜか嬉しそうに風呂のスイッチを入れた。

「今日はずいぶんはしゃいでたな。汚れるのなんか嫌いだったろうに」

 冗談交じりに叱りながら、温かいシャワーで泥を落としてやる。話しかけるといつも、太郎は俺に視線を合わす。

 褒めた時も叱った時も、開いた口から舌を出し、分かっているのか、いないのか。

 小さい子供は、叱れば大抵は泣き出すだろう。褒めれば大げさに喜ぶだろう。

 太郎がもし、俺たちの本当の子供だったなら……。

 いけない。俺は頭を振った。太郎の気分転換になればと思ったのだが、不用意に公園など行くべきではなかった。それだけは考えまいと、心に決めていたのに。不妊の原因は恵子にあった。それを責めたことはない。あるわけがない。だけれど三十代も後半に差し掛かって、同僚や昔の仲間が子供の話をすることも増えて、愛想笑いのたびにやり場のない気持ちは積もっていった。

 うなだれていると、太郎が膝に前足を乗せてきた。きっと慰めてくれているのだ。

 こいつは、利口な子だから。

 なのに太郎、どうして、ちゃんとご飯食べないんだよ……。

「綺麗にしてもらったの? いいわね」

 風呂から上がると太郎は恵子に飛びついて、ぶるっと体の水を切った。飛沫が顔にかかり、「こら」と叱る恵子の顔は特に怒っているようでもなく、「ほら、お昼食べようか」といつもの袋を棚から出した。

「なあ、恵子。もういいよ」

「何が?」

「太郎はこれまでずっと、お利口だったよ。いいよ、最初から食べたいものを食べさせてやろう。これは太郎の我儘なんだよ」

 俺はヴィーガン・フードを取り出して、太郎の皿に開けた。渋々盛りつけるいつもとは違って、笑顔で。

「さ、食べな」

 だが食わない。食いつかない。

 試しに一般のフードを皿に開けると、勢いよく食い出す。

 俺と恵子は、思わず顔を見合わせた。

「もしかしたら太郎くんは、あなた方を困らせたかったのかもしれませんね。飼い犬は飼い主の気を引こうとすることがあるんですよ」

 すぐさまかけた電話口で、獣医の先生はそういって笑った。

「わざと困らす……」

「人間の子供と同じですよ」

 何気ない言葉にハッとした。

 そうか、そうだったのだ。

 太郎は利口な子だから、俺の息子になろうとしてくれていたのではないか。俺が自分勝手に抱いていた、太郎への物足りなさに気がついて。

 食べて欲しくない気持ちを察したからこそ、大嫌いなヴィーガン・フードに食いついたのもそう。綺麗好きのはずなのに、泥だらけになって風呂に入らせたのもそう。

 そうして子育ての苦悩を『知れなかった』心の穴を、仮初めの我儘で埋めようとしてくれていたのではないか……。

「太郎」

 電話を切った後、俺は太郎の頭を撫でて言った。

「太郎、いいんだよ。そんなことしなくたって」

 いくら話しかけても、分かっているのか、いないのか。

 分かっていなかったのは、自分の方だ。

「ごめんな、太郎」

 俺の小さな息子は、いつもと同じ笑っているみたいな表情で、俺の顔を見上げていた。 

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