第28話 兄のために

「お兄ちゃんを助けてください!」



 彼、正人以外にももう一人この辺りで有名な人物がいる。


 合田良樹、親が空手道場の師範代でその素質を受け継いだ彼は昔から一度も喧嘩で負けたことがない。

 まともに練習に顔を出したことのない良樹だが、その強さは父を超えるほど。


 そんな男の妹が正人の職場へとやってきた。


「よくこの場所がわかったな」

「生徒会長から聞きました」

「…あの女」

 退学になった後の正人の居場所を知っている人物。

 冷血の猫と呼ばれている真夏よりも面倒見が良さそうな冬子を彼女は選んだ。



 丁度手が空いていた彼は黒くなっていた腕を雑巾で拭き取り、パイプ椅子を美穂のもとへと持っていく。

 彼の知る友人の妹はもっと明るくて元気のいい少女、一体何が彼女をここまで不安にさせているのか。


「残念だがアイツの顔はどうにもならないぞ」

「はい、それはもう諦めてます」

「諦めてるのか」

 正直それ以外のことで彼女を悩ませる理由が思い浮かばない。


「実は…」




 美穂は合田道場に起きている出来事を彼に話した。


 先日彼女がマネージャーとして試合会場に足を運んだ時のこと。

 有名人の合田良樹の妹である彼女は全国レベルの道場の門下生達に囲まれ、兄宛ての伝言を頼まれたそうだ。

 正人や良樹が勝負を挑まれることなど日常茶飯事だが、今回の相手は別の道場の門下生。

 合田道場の師範代の息子が乱闘騒ぎなど起こせばすぐに問題になり、看板を下ろさなくてはいけなくなるかもしれない。

 しかし、何もしなければ間違いなく向こうから道場破りにやってくるだろう。


 良樹なら確実に一人でも大丈夫だが決して手を出させてはいけない。


 先方が道場へやってきたとしたら太刀打ちできる人材は一人もいない。



「で、俺か」

「こんなこと頼めるのは先輩しかいないんです…」

 一体彼女は正人のことをどんな人間だと思っているのだろうか。

 彼は良樹のように特別な血を引いているわけではない、濃い親ではあるが。


「お願いします!何でもしますから!」

「ぶふぁっ!!」

 口に含んだお茶を思い切り吹き出してしまう。

 高校生の若い女子が絶対に口に出してはいけない言葉。

 それほどまでに彼女は追い詰められていた。


「わかった…わかったからそういう台詞はもう絶対に使うな」

「は…はいっありがとうございます!」


 そうして正人はバカな友人に代わって道場破りをすることになったのだった。





 休日の土曜日。

 電車に揺られ一時間、ちょっとした小旅行な気分だった。


「俺一人でよかったんだが…」

「大丈夫です先輩、お昼の用意はできてます!」

「そんな心配はしてねぇ…」

 美穂は嬉しそうに手に持つバスケットを彼に見せ付ける。

 ちゃんと食事の用意がされた殴り込みなんて聞いたことがない。


 改札を抜けると彼の目に映ったのは酔いそうなほどの人の嵐、今すぐ帰りたい気持ちでいっぱいだった。


「見ろ妹、人がゴミのようだ」

「でも先輩、お兄ちゃんほどのゴミはいませんよ」

「確かに」

 ひどい言われようの兄だった。



 食事をした後、スマホの地図アプリを頼りに彼らは進んでいく。


 考えてみればこんなところまで名が知れ渡っているのもすごいことである。

 しかし彼の顔までは知らないのか、若者達とすれ違っても全く気にする様子はない。



 駅を出て目的地の道場までは歩いてだいたい15分ほどだった。

 【大島道場】

 何度か合田家には足を運んで目にしたことはあったが、まさかこれほどまで敷地の大きさに差があるとは思っていなかった。

 ここのすごさを強調しているのか、そこら中に張り紙が貼ってある。


「…すげぇな」

「大きいですね…」

 さすがは全国レベルの空手道場。

 そもそもこんな大きな道場の門下生が何故良樹を敵視しているのだろうか。


「もっと目指すことあんだろ…」

「ここの人たち、問題を起こす人が多いそうです」

「なるほど」

 武道家としても、不良としても上に立ちたいのだろう。

 空手道場の師範代の息子で、喧嘩も強い良樹の存在が邪魔なのだ。



 外からでもわかるほど中から気合いを入れているような叫び声が聞こえてくる。


「…先輩」

「なんだ」

「先輩の得意な技って何ですか?」

「チャリンコの修理だ」

「…」

 武道経験など皆無だ。


「どうしよう…やっぱり帰った方がいいのかな」

 美穂の手が震えていた。

 柏木正人なら何とかしてくれると思い込んでいた彼女は軽率な行動を取ってしまっていたことに今やっと気がついた。


「んじゃ帰るか」

「…え?」

「今、諦めたんだろ?」

「そ…それは」

 決して彼は甘い言葉をかけない。


「先輩…私、諦めたくないです」

「ああ」

「お願い…します」

「ああ」

 俯く美穂の頭に手を置いて正人は迷いなく足を動かした。








 今、彼は自販機の前で何を飲もうか悩んでいた。


 美穂は驚く光景を目にした、間違いなく一生忘れることはないだろう。

 相手は格闘技をやっている、鍛えている、そんなもの柏木正人には関係なかったのだ。

 束になったところで彼には敵わない、圧倒的な差。


 好きなやり方でいい、武器を使ってくれても構わない、最初に正人が口にした言葉。

 それを言った理由はちゃんとあった。

 武道家として恥をかかすこと。

 ハンデだらけの勝負で負けたとなれば世間に言いふらすのは恥をかく行為でしかない。


 一人の素人の不良に道場破りされた、なんて知られでもしたらあの道場は終わりだ。



 美穂はあの光景を見て兄のすごさも知った。

 唯一正人とは勝敗が決まらなかったと言っていたからだ。

 彼と同じくらい良樹も強いということ。



「ほらよ」

「あ…、ありがとうございます」

 彼は冷えた飲み物を美穂に渡す。

 受け取った彼女はペットボトルのフタを開けずにボーっとしているとカバンの中でスマホが鳴っているのに気がついた。


「いいですか?」

「ああ」

 一応了解を得てから彼女は電話に出る。


「もしもし、お兄ちゃん?」

 休みの日にまで電話をかける兄、どれだけ妹のことが好きなんだ。



「あ、うん、そうそう、え…い今っ?せ…せせ先輩と旅行に来てる」

「ぶふぁっ!」

 何度この小娘は彼に飲み物を吐かせるのか。


「あ…わかった、待ってね…」

「…あ?」

 美穂はスマホを彼の方に差し出した。


「…俺だ」

『正人…お前…』

 何で妹と旅行に行っているのか、文句を言われるのは当然だろう。


『ちゃんと電気は消せよ…』

「あ?」

『最近美穂、太ったって気にしてたからよっ』

「…」

 兄公認だった。


「わかった、今日の夜お前んちのブレーカーを落としに行く」

『え、ちょ…なんで俺ん…』

 正人は耳からスマホを外して通話を切る。


「なんかごめんなさい…」

「気にするな、アイツはバカだ」

 スマホを返すと彼女は深々と頭を下げた。


「そうなんですよ、本当にバカな兄なんですよ~!」


 なるほど―――。

 最初からわかっていたことだ。


「さて、帰るか」

「え、どこかに泊まっていかないんですか?」

「ダメ、絶対!」

 美穂の頭に軽くチョップする正人。


「あと」

「え?」

「太ってるようには見えないから気にするな」

「え…?あ…、おお…おおお兄ちゃん!!!」


 美穂もまた、ブラコンなのだ。

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