三. 過去③
次の日、スラウはラナンを連れて行商人のテントに向かった。
団員たちは忙しそうに出発の準備をしていた。
スラウはフィリップを見つけると駆け寄った。
「フィル。あの、昨日は……ごめん」
「別に良いって。俺も悪かったよ」
彼もぺこりと頭を下げると小声で尋ねた。
「荷造りは?」
「大丈夫。あまり多くは持っていけないから。そう思うと何だか寂しくなっちゃって……」
フィリップは突然スラウの腕をつかんで走り出した。
「じゃ、最後に村を見て回ろうぜ!」
楽しそうに笑いながら走る2人の後ろ姿をラナンが追いかけた。
2人は歩き疲れると村のはずれの酒場の前に積まれていた樽の上に腰をおろした。
酒場はしばらく前に使われなくなり、周りには誰もいなかった。
裏の森から吹く心地良い風が髪を揺らし、スラウはのどかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
今日ここを去らなくてはならない。
確かに良い思い出ばかりではなかったし、自分を待っている人たちにも興味はあったが、それでも名残惜しかった。
『逃げろ!』
突然、スラウの頭に聞き慣れない声が響いたかと思うとラナンの身体が吹っ飛んでいった。
「ラナン!?」
立ち上がって叫んだ時、後ろで鈍い音がして頭から血の気が引いた。
地面に倒れ込んだスラウは誰かに羽交い絞めにされて足と手を縛られてしまった。
どうにか身体を捻って振り返るとこん棒を持ったビルと取り巻きたちがにやついていた。
「この野郎っ!」
同じように縛り上げられていたフィリップが叫んだ。
「スーは関係ねぇだろ?!」
「黙れ! 昨日の仕返しだ!」
ビルはこん棒でフィリップを殴った。
「離してっ!」
「いってぇっ! 噛みやがったな! ビル、こいつも頼むぜ!」
ビルがスラウに向かってこん棒を振り下ろそうとした時、何かがビルの顔に飛んできた。
だが、彼は顔にへばりつくラナンを造作なく引き剥がすと放り投げた。
ラナンはぺしゃと地面に落ちて動かなくなった。
「このっ……!」
スラウは飛び上がると勢いよくビルの腹に頭突きした。
地面にひっくり返ったその情けない格好に取り巻きたちが思わず吹き出した。
「わ、笑うなっ! おい! 火を付けろ! こいつらを処刑してやる!」
そう喚くビルのやろうとしていることを察したフィリップとスラウは必死になってもがいたが、2人とも取り巻きたちに背中を踏みつけられて逃げられなかった。
スラウが振り返ると、取り巻きの1人が積み上げた木材に火を付けたところだった。
それを満足げに見上げたビルはポケットから黒い粉末の入った瓶を取り出した。
「父様の机の中にあったんだ。処刑する時に使うんだとさ」
「どうなるんだよ?」
取り巻きの1人が聞いた。
「知らねぇ。やってみれば分かんだろ」
そう返すとビルは瓶を開けた。
ゴォォッ――
轟音と共に黒い粉が焔の中で燃え上がった。
焔はあっという間に大きくなり、酒場を呑み込みそうな勢いで燃え上がり始めた。
スラウはその焔を見るや否や、もがくのも忘れて焔の中で躍る黒い粉に見入っていた。
ビルをはじめ、少年たちも黙ってそれを見ていた。
「うわぁぁぁっ!」
突然、1人が悲鳴を上げてへたり込んだ。
焔の中心で黒い粉が円を描いて集まっている。
それは徐々に形を変え、巨大な目玉となった。
「ママァァッ!」
悲鳴に反応し、目玉がギョロリと彼に向いた。
「あ……あっ……!」
焔が獲物を見つけた獣のように彼に向かっていった。
次の瞬間、恐怖の表情を浮かべている彼を焔が包み、悲鳴が耳を劈くように響いた。
「ひぃっ……!」
皆、じりじりと後退りし始めた。
「う、うわぁぁっ!」
1人が逃げ出したのを皮切りに、少年たちが走り出した。
だが、焔の目玉は彼らを見据え、地面を火の舌で嘗めながら次々と呑み込んでいった。
辺鄙な酒場は一瞬で悲鳴の絶えない地獄へと豹変していた。
ぷつんと途切れた悲鳴に目を開けると、もう残っているのはスラウとビルだけだった。
目玉がゆっくりとビルを見つめた。
「い、嫌だ……! た、たすっ……!」
がくがくと唇を震わせたビルはスラウを掴んで盾にしようとしたが、腰を抜かしてへなへなと膝をついた。
そして焔が2人に迫ってきた。
「……っ!」
辺りが熱風に包まれ、轟音のせいで何も聞こえなくなった。
次の瞬間、スラウの視界は真っ白な光に包まれた。
***
村にいた人々が遠くで燃え盛る焔に気づいた。
「おい! 見ろ! 火事だ!」
「水だ! 水を用意しろ!」
村人たちが慌ただしく走っていくのを横目に、ハリーは声を張った。
「2人はまだ見つからないのか?!」
「隈なく探したつもりではありますが……」
熊のようにうろうろと苛立たし気に歩く彼に団員が言いにくそうな表情を浮かべた。
「あ、あの……まだ1か所だけ探していません」
「どこだ、それは?!」
「……火事の起きた酒場です」
「くそっ!」
ハリーが毒づいた時、1頭の馬が走り込んできた。
「ハリー様! フィリップ様を見つけました!」
団員の腕に抱かれたフィリップの服や髪は焦げついていた。
細く目を開けた彼は父の袖を引っ張った。
「父さん……スー……が……」
今にも消え入りそうな声で囁いたフィリップは力なく目を閉じた。
ハリーは息子を近くにいた団員に預けると、馬に飛び乗った。
「どこに居た?!」
「酒屋の裏の茂みに。自力でお逃げになっていたようで……」
「そうか……先にここを出ろ。火傷の治療を頼んだぞ!」
叫んだハリーは馬に鞭を入れて見物人の集まる酒場へと急いだ。
街道は火事の様子を見に行き来する人でごった返していたので、道を外れて森の中へ入っていった。
森に入る時、王国軍を名乗っていた黒いマントの者たちとすれ違ったが、そのうちの1人は焦げついた大きな麻袋を抱えていた。
「あんな勢いじゃ、止められねぇ!」
「こっちに来ているぞ! 逃げろ!」
村の中心部は逃げ惑う人々でごった返していた。
我先にと互いを押しのけ合っている。
家中の棚をひっくり返して逃げる準備をしていた村長のところへ妻が駆け込んできた。
「あなた! ビルちゃんはどこ?! 探したのにいないのよ!」
「いつもの連中といるんじゃないのか? それより逃げるぞ!」
「私の可愛いビルちゃんを置いていけないわ!」
その時、女性が1人家に転がり込んできた。
「どうしましょう?! 子どもたちを見た人が……ああぁぁぁっ!」
そこまで言うと彼女は堰を切ったように泣き出した。
「まぁ! なんですの?!」
金切り声を上げる妻に村長は思わず顔をしかめた。
女性はしゃくり上げながら辛うじて言葉を繋いだ。
「火事の起きている酒場の方へ行くのを見たと……」
青ざめて家を飛び出そうとする妻を村長は慌てて押さえた。
「無理だ! ここにも火が来ているんだぞ?! もう助けられん!」
「でも! ビルちゃんが!」
叫ぶ妻を引きずるようにして、裏口に待たせてあった馬車に押し込んだ。
自分も乗り込もうとした時、ふと思い出して家に駆け戻り、応接間の机の引き出しを開けた。
昨晩、仮面の男から受け取った瓶が入っているはずだった。
彼はしばらく空っぽの引き出しを睨んでいたが、ふと窓を激しく叩く音に我に返った。
村の人たちが何かを叫んでいる。
迫る焔を見ると、彼らに目もくれずに慌てて家を飛び出した。
「何をしている?! さっさと馬車を出さんか!」
御者に怒鳴りながら太い身体を馬車に押し込んだ村長はそのまま凍りついた。
妻の胸にぎらりと光る短剣が突き刺さっていた。
臙脂色の椅子にどす黒い血が滲み、白い手がだらりと垂れ下がっている。
「自分だけ逃げるとは殊勝なことだな……クククッ……」
すぐ後ろで、くぐもった声がしたかと思うと太い首に鋭利な剣が突きつけられた。
「お、お前は昨日の……!」
仮面の男は村長を馬車に蹴り入れると、贅肉の垂れた顎に剣を押しつけてきた。
「スラウという名の子どもがいるな?」
「ち、違う! あんなガキ、うちの村の者じゃない……」
「いいから答えろ」
「ガハッ……!」
村長は腹を押さえた。
男に刺され、呼吸する度にシャツに血が滲んでいく。
「む、村はずれの緑色の屋根の家だ! ロナルドって物好きが育ててる! い、命だけは助けてくれ!」
仮面の男は捲し立てて命乞いをする村長を見下ろしていたが、ゆっくりと頷いた。
「……良かろう」
安堵の表情を浮かべる村長の胸に剣が突き刺さった。
血飛沫を上げて倒れ込む彼を踏みつけて剣を引き抜くと男は馬車に背を向けた。
「ククククッ……言っただろ? 人を簡単に信用するなと……」
部下から差し出された布を受け取った男は血に塗れた剣を拭うと馬に跨った。
「探せ。緑色の屋根の家だ」
黒い覆面の集団は森の中へと姿を消した。
後に残された馬車には火が燃え移り、大きく火の粉を舞わせた。
***
焔は既に村の半分を焼き尽くしていたが、森の中までは届いていなかった。
「スーちゃん!」
声を張り上げてハリーは周りを見渡した。
森の奥の方が突然白く輝いて再び暗くなった。
そこを目指して馬を急がせると、次第に焦げ臭い匂いがきつくなってきた。
開けた場所に飛び出した彼は慌てて馬を止めた。
焦げた草の中にスラウが横たわっていた。
「スーちゃん!」
彼は馬から飛び降りるとスラウを揺すった。
「ハリーさん……私……」
「もう大丈夫だよ」
彼は小刻みに震えるスラウを優しく抱きしめた。
「フィルは? ラナンは?」
背中をさすっていたハリーは安心させるように囁いた。
「フィルも無事だ。ラナンはそこにいるよ」
スラウは震える手でラナンに手を伸ばして腕に抱いた。
「スーちゃん立てるかい? ロナルドとの約束の時間を過ぎてしまった。急ごう」
「うん……」
ハリーはスラウを抱えて馬に乗せると家へ急いだ。
家に戻ったスラウはラナンを肩に乗せて裏口からそっと入った。
ターナたちは村に買い物に出たきり、まだ戻っていないようだ。
家は静まり返っていた。
スラウは自分の部屋に行き、用意していた鞄を掴むと小声でロナルドを呼んだ。
「おじさん?」
返事はなかった。
鼻を上に向けていたラナンはふとスラウの肩から飛び降りると玄関口に走っていった。
「ラナン? どうしたの?」
後についていったスラウは思わず息を呑んだ。
玄関の扉は大きく開け放たれ、ロナルドが胸から血を流して倒れていた。
「おじさん! ロナルドおじさん! しっかりして!」
ロナルドは小さく呻くと虚ろな目をスラウに向けた。
「スー……お前は……無事……だったのか……」
「待ってて! 今、ハリーさんを呼ぶから!」
行こうとするスラウの腕をロナルドは力強く掴んだ。
「良い……私に構うな……」
ロナルドは血に塗れたペンダントをスラウの手にねじり込んだ。
「これはお前が持って行け……ゴホッ……お前の……ものだ……」
「いやだよ! 1人で行けって言うの?!」
「ゲホゴホッ……ごめんな……一緒に……行けなくて……」
咳き込む度にシャツに滲む赤い沁みが大きくなる。
「良いか……」
ロナルドが苦しそうに息を吸うとペンダントを握るスラウの手の上に自分の手を添えた。
「奴らが……戻ってくる前に……行くん……だ」
「おじさん!」
ロナルドは励ますように微笑むと目を閉じた。
「約束したじゃん……」
大きな雫がロナルドの頬に落ちた。
「私のこと迎えに来てくれるって! また一緒に暮らそうって!」
ボロボロと零れた涙が血の気の失せたロナルドの顔に落ちていった。
「嘘つかないでよぉぉっ!」
しゃくりあげるスラウの声に応えるものはいなかった。
「ひっく……っく……」
スラウは震える手で温もりの失せたロナルドの顔の輪郭をそっとなぞった。
「パパ……?」
顔を上げると、いつのまにか戻っていたターナが戸口に立っていた。
「パパ! しっかりして! パパ!」
ロナルドにしがみつくターナの後ろからロージーが紙袋を抱えて現れた。
「あなた?!」
駆け寄ったロージーがロナルドの脈を測ったが、首を振った。
「もう……手遅れだわ……」
「あぁぁぁぁぁっ!」
ターナがロナルドに覆い被さるようにして泣き叫んだ。
その背中に手を伸ばしかけたロージーは玄関のマットに無数についている足跡に息を呑み、そして目を擦っているスラウに叫んだ。
「あなたは何をやっているの?! 今すぐこの家から、いいえ! この村から出て行きなさい!」
「やだ! 行きたくない!」
「行くのよ! 早く!」
「やだ! やだよぉっ!」
「スー! あの人は最期、あなたに何て言ったの?!」
――『奴らが……戻ってくる前に……行くん……だ』
スラウはもう何も言えなかった。
鞄を掴んで弾丸のように飛び出した彼女にロージーは叫んだ。
「振り返るな! 行きなさい!」
「うわぁぁぁぁぁぁっ……!」
――『行け、前へ!』
ロナルドに、ロージーに、背中を押されるようにスラウは走った。
「……元気でね」
その背中に呟くロージーの頬を涙が伝っていた。
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