三. 過去①

ここが「ミレーの村」と呼ばれていたのはそう昔のことではない。

四方を緑豊かな森に囲まれた小さな山間の村がスラウの故郷であった。


威勢の良い声が飛び交う。

年に1度開かれるこの大市には、村の住民だけでなく、各地を巡る行商人たちも集まってテントを張り、手に入れた調度品の数々を売ることができた。

赤くて甘酸っぱい林檎や子どもの背丈ほどの肉の塊を売っている店もあれば、宝石のようなキラキラした石を使ったアクセサリーや、一見何に使うのか分からない鉄の製品が手に入る店もある。

普段は行きたくない村の中心部も、今日だけは楽しい場所だった。

スラウはふと手を引っ張られて我に返った。


「ねぇ、ターナ! 今日は何を買うの?」


ターナはスラウを育ててくれた男の一人娘だった。

年上で面倒見が良く、本当に姉のような存在だった。


「ミートパイの材料よ。スーも好きでしょ? 人もたくさん居るからここに居て。良い? 店の人に迷惑かけちゃダメだからね」


唇を尖らせるスラウの頭に手を乗せて微笑むと、ターナは雑踏の中に消えていった。


「つまんないの……」


傍の石を蹴ると、誰かの靴にぶつかった。


「あ! ごめんなさい……」


スラウが駆け寄ると頭上で聞き慣れた声がした。


「やぁ、スーちゃん。元気だったかい?」


「ハリーさん!」


顔を上げた途端、スラウは満面の笑みを浮かべた。

ハリーは行商団の長で、様々な地域を回っていたが、定期市が開かれるときにはいつもここを訪れていた。

彼は長い身体を折ると痩せた手を頭に乗せてきた。


「元気にしてたかい?」


「うん!」


スラウが力いっぱい頷くと、肩に乗っていたラナンも返事の代わりに長い尾をピンと立ててみせた。


「はははっ! そうか、そうか」


ハリーは楽しそうに笑うと続けた。


「そういえば、フィルも来ているぞ」


フィリップはハリーの1人息子だった。

彼と同じくせのある栗色の髪に母親譲りの明るい茶色の瞳の少年だった。

スラウと同じくらいの年で、村に来るといつも旅の話を聞かせてくれた。

村の子どもたちと馴染めないスラウにとって、唯一の友だちだった。


「本当?! どこにいるの?!」


「あいつのことだから村に着いた途端に飛び出してしまったよ。1番賑やかな中心部にいるはずだ」


ハリーが苦笑いを浮かべた。

息子の世話に相当手を焼いているらしい。

以前、フィリップがスラウやターナのような女の子だったら、もう少し違っただろうに、と言っているのを聞いたことがある。

スラウは笑顔で頷くとラナンと一緒に走り出した。


***


「見ろよ! きったねぇ雑巾!」


「やめろ!」


布切れを結び合わせた飾りを踏みつける少年たちにフィリップが叫んだ。


彼の部族は友情や愛情の証として、互いの衣服の端を切って交換し、結びつける。

今、泥塗れになっているそれは母が亡くなる前に自分の為に作ってくれたものだった。


「返せ……ったら!」


彼は飾りを持っている少年に突っ込んでいったが、逆に突き飛ばされてあえなくひっくり返ってしまった。


「ははははっ! バカな奴!」


「ビル、こいつどうするんだ?」


取り巻きの1人が尋ねた。

飾りを振り回した少年はユサユサと大きな身体を揺すった。


「そうだなぁ。村長の息子である俺様に刃向かった罰で吊し上げの刑だ!」


取り巻きの少年たちから笑いが起こった。

投げ捨てられた飾りを握りしめたフィリップはよろよろと立ち上がった。


「……父ちゃんが居なきゃ何にもできねぇくせに」


「あ?!」


「お前は、1人じゃ何も出来ない弱虫だっつってんだよ!」


「行商人のくせに偉そうなことを言うんじゃねぇ!」


ビルは唾をまき散らしながらフィリップを指差して喚いた。


「やっちまぇ!」


少年たちがフィリップに殴りかかった時だった。


「やめなさいよ!」


息を切らしてスラウが立っていた。


「なんだよ、チビ。俺様に命令する気か?」


「大人を呼ぶよ!」


「ふん、呼べるもんなら呼んでみろ! どうせ誰もお前の話なんて聞いてくれないぜ! だってお前、この村の人間じゃないもんな!」


「……っ!」


スラウは唇を噛んだ。

自分を育ててくれている人たちは良い人だし、本当の家族のように自分を受け入れてくれている。


しかし、黄金色の髪に緑色の瞳は彼らの容姿とはかけ離れていて、スラウが彼らの家族でないことは明白だった。

ビルは更に畳み掛けた。


「父様に聞いたぞ! お前、森に捨てられていたんだってな! どうせ、お前の親なんてろくな……っ!」


その先を言わせまいと、フィリップが飛びかかった。


「いい加減にしろ、てめぇ! 紛れもなく、スーはロナルドさんたちの家族だよ!」


「俺様に指図できると思うなよ! 家無しの分際で!」


「ちょっとあんたたち! 何やってんの?!」


騒ぎを聞きつけたターナが走ってきた。


「ちっ……! ずらかるぞ!」


ビルの言葉で少年たちは足早に去っていった。


「大丈夫?」


尋ねるターナに2人は頷いた。

彼女は大きく息を吐いて膝をつくと2人のおでこを軽く弾いた。


「あいつらが何を言おうと、いちいち構っていたらダメ。今回はたまたまあたしが通りかかって助けてあげられたけど。それに、スー! あそこの店に居なさいって言ったでしょう! 第一ね……」


延々と続くターナの説教に2人は小さくなった。


ターナが母のロージーと合流して去り、後に残されたスラウはフィリップと近くのベンチに座った。

ラナンはスラウの膝の上で丸まると大きく欠伸をした。


「久しぶりだね。元気にしていた?」


「あぁ! 話してぇことがたくさんあるんだ!」


フィリップは笑顔で頷くと、村に来るまでの色々な話をしてくれた。

森で大きな鹿を見つけて追いかけたこと、別の町で出会った行商人に服をもらったこと、父の側近の人に悪戯して怒られたこと……

スラウはひとつひとつを頭に思い浮かべながら聞き入っていた。

ラナンは両目を閉じて時折長い尾をぱたぱたと揺らしていた。


空がオレンジ色に染まってきた。

フィリップがスラウを家まで送ると言うので、2人は村外れの道を歩き始めた。

ふと彼が呪い師の家に行ってみようと言い出した。


以前、彼と忍び込んだ時には薬草の入った瓶を幾つか落としてしまい、こっぴどく叱られた。

その弁償として、2人は3日間、その老婆の手伝いをさせられ、年老いた雄鶏の世話や乾草の片づけをさせられたのだ。


「そん時だよな、こいつに会ったの……」


フィリップがスラウに抱かれたラナンに手を伸ばした。

雄鶏に突かれていたのをスラウが見つけたのだ。


「でも間抜けだよな、あんなのに突かれるなんてよ」


彼の言葉が分かったのか、ラナンは不満そうに琥珀色の瞳を細めた。


「そうだ、裏口から入ろうぜ。あの婆さんも驚くって……」


彼はそう言うと裏口の扉をそっと押し開けた。

だが、部屋に忍び込んだ途端、どことなく違和感を感じた。

以前は鼻をつままなくてはならなかった甘いような臭いような香りが漂っていない。


「いないのかな……」


スラウが表に面した部屋を覗こうとした時、窓のすぐ外で馬の嘶きが聞こえた。


「……っ!」


フィリップは慌ててスラウの口を塞ぐと、近くの棚の陰に彼女を押し込んだ。

窓辺に誰かが立っている。


「どうした?」


男の声だ。

2人は唾を飲み込んだ。


「いや、何か物音が……」


「そりゃ、この鶏だろ。うるさくてしょうがねぇや」


窓の向こうの会話はくぐもって聞こえる。

バサバサと羽を動かす音が聞こえた後、ゴトという音がして鶏が大きな声を上げた。

フィリップは慌ててスラウを振り返ったが、彼女は耳を塞いで目を見開いていた。

雄鶏は最期に潰れたような声を上げると、それきり静かになった。

フィリップはひたすら目を凝らして窓の奥を見据えた。


「あーあ、ひでぇことする」


忍び笑いと共に人影が遠ざかっていった。


「良いんだよ、どうせ全部無くなるんだから……この村ごとな」


男の言葉はあまりに小さく、2人の耳には届かなかった。


しばらく暗闇の中でじっとしていたが、フィリップは静かにそこから這い出した。

窓枠に掴まって外を見ると首を斬られた鶏が転がっていた。

慌てて目を背けて戻り、表通りに面した部屋を覗いた。

扉は乱暴に外され、机の上にあった物は全て床に落ちていた。

スラウは散乱した紙束を拾い上げた。


「ひでぇな……」


フィリップは床に転がった薬草の瓶の破片を跨いで呟いた。


「大丈夫かな……」


尋ねるスラウにフィリップは生半可な返事をして扉の外を見た。

何かが引きずられた跡が続いている。

それは街道に交差したところで途切れていた。

馬車で連れ去られたか……


「思ったより早く手が回ってやがる」


「何の?」


「いや、なんでもねぇよ」


フィリップは頭を振った。


「俺、急用ができたわ。お前もすぐ帰れ」


「でも、片づけておかないと……」


「いや、良いって」


「でも、困るだろうし……」


「良いんだよ。放っておいて」


「何でそんな冷たいこと言うの?」


「いい加減にしろよ! 帰れっつってんだろ?! あの婆さんはもう帰って来ねぇんだからよ!」


すぐにフィリップは口を滑らせたことを後悔した。

スラウは今にも泣きそうな顔をしている。


「帰ってこないって……何言ってんの?」


「あ、いや、その……」


「酷いこと言わないで!」


スラウはそう叫ぶと通りに飛び出したが、彼が後を追ってくることはなかった。


――『この子、あたしが看病してやったのになかなかなつかなくてねぇ……困ったと思っていたけど、お前のことは気に入ったようだ。連れておかえり。仲良く暮らすんだよ』


そう笑って、ラナンを譲ってくれた呪い師の顔が浮かぶ。

スラウは熱くなった目頭をこすった。

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