第7話 番外編

 ○ 青森から乗った上野までの夜行バス

 途中の弘前で乗ってきたのは、登山靴を履いた二人の弘前大学の女学生。

 近くの席の老人が「山登りしてきたの ?」と聞くと、「いいえ、これから登りに行くんです」。

 「へえ、どこの山 ?」とおじいさん。


 窓の外を見てぼんやりしていた私も、スマホをいじっている周りの乗客も、みな耳をダンボのようにして、彼らの会話を聞いている。

 退屈なバスの旅、少しくらい、こういう見知らぬ乗客同士の会話なんていうハプニングに心ときめかすのはみな同じなのでしょう。


 で、女の子が「ヒマラヤ」と答える。

 おじいさんは「へーぇ、ヒマラヤかー」なんて言っている。

 すると、もう一人の女の子が「おじさんも山登りするの ?」と無邪気に聞く。

 

 周りの人たちは「これから話が面白くなるかも」なんて期待して、私なんぞは更に身を乗り出して彼らの会話を聞こうとする。


 すると、おじいさんは一瞬間を置いてから、ボソッとこう答えたのです。

 「生活がキツキツなのに、山登りなんかやってられないよ。」と。

 二人の女の子はもちろん、周りで聞いていた私たちまでもが「シュン」となってしまいました。

 この話は、上野と高知の銭湯で番台に座っている方にはウケましたが、大学生の皆さんはどう感じるでしょうか。


 何年か目、東海大学日本拳法部のブログで、今日を最後に大学を退学して働くことになった部員のお別れ練習の様子がアップされ、ちょうどその時、別の大学が何かの大会で優勝したなんて話がブログに出ていて、微妙な気持ちになったことを思い出しました。

 

 家の事情・経済的な理由によって、せっかく入った大学を辞めなければならない人もいれば、明るく楽しく学生生活を楽しむ人もいる。

 私自身、親父との仲がよくなかったこともあり、半年間大学を休学して働いていた経験がありますが、根がお気楽ということもあり、悲しいとか惨めという気持ちはありませんでした。

 当時は、中卒でペンキ屋をやっても、きれいな奥さんを嫁にもらい、子供三人とのんびり楽しく生活できたという、今と違い税金もずっと安く、マスコミも警察の不正をバンバン叩き、駅の標識も日本語だけで済むような、よき時代だったんですね。今はアメリカとその子分である韓国の属国のような状態ですが。

 

 京都大学アメリカンフットボール部のHPに書かれた彼らの理念。

 http: / / gangsters-web.com/


 <引用始め>

 我々は存在目的を「社会に積極的に貢献するリーダーの輩出」

 と定義している。

 カレッジスポーツは人間性を鍛える場であるということは疑う余地がない。

 また、弊部の部員はほとんどが京都大学の学生であるが、国立大学の学生は国民から税金という形で多くの投資をしてもらっている。国立大学の学生一人に対する国庫負担金は平均で216 万円とされているが、とある試算によると京都大学の場合は学生一人当たり1,000万円以上であるとのこと。

 将来社会のために役立つことを期待して国民から投資をされている以上、それに応える義務があると考える。

 その中でもこれからの社会を引っ張るリーダーを育成することが最重要課題であると考える。

 この目的を達成するための手段が「日本一になる」という目標である。

 このチームは、日本一になるということを真剣に目指すプロセスを通じて部員たちが社会に積極的に貢献する人間に変わっていくという環境であり続けなければならないと考えている。

 だからとことん「勝つ」ということにはこだわる。

 しかし、ただただ勝っても部員たちの人間的な成長が伴わなければ意味がないということはしっかり認識しておかねばならない。

 <引用終わり>


 こちらは私大ですが、勝ち負けに心を砕き執心しても、原点を見失わず理念を忘れないのはさすがです。

「1年間、人間的に成長できる部活になるよう尽力します!」

 https: / / ameblo.jp/meiji-kempo/entry-12441103096.html


 はじめに戻りますが、山登りというのは個人的な満足感を達成するだけの(オナニー的)行為で、社会的貢献だの人間性の向上など期待できるのだろうか。

 「山を征服する」といい、金や権力にまつわる征服欲と同じレベルで、相撲甚句にあるような「土俵の砂つけて、男を磨く」なんていう、自己研鑽・内面への洞察を通じて自分を高めるということを意識することが、彼ら登山者にあるのだろうか。

 西洋人の山登りとは、貴族の娯楽くらいにしか思えないのですが。


 ○ 青森の女学生

 市内のバス停に行くと、若い女性が座っている。

 次のバスは何時か聞いてみると、30分後ということなので、時間つぶしに話をしてみました。

 この女性は青森県のある田舎町から青森市内の専門学校に通っているようなのですが、家から駅まで歩いて30分、電車で50分、青森駅からバスでこのバス停まで30分、更にここから学校まで歩いて30分かかるとのこと。

 また、学校が終わってからバスが来るまで約1時間待っていなければならないらしい。

 東京の人間だったら、そんな不便な生活には、とてもではないが我慢できないでしょう。

 しかし、ここではというよりも、この女性の場合、(心の中で)時間の流れがゆったりしているので、東京という、あの基地がいじみた環境にいるよりも、よほど幸せではないかと思いました。

 不便でも心がゆったりしている方がよほど幸せ、ということもあります。


 大学日本拳法人は、あえて痛い・苦しい・辛い選手の環境、そしてマネージャーとしては、選手の面倒を見て忙しい、選手の水を持って一緒に走るから苦しい、選手が練習の間ずっと立って時計を見て知らせるのが辛いと、いろいろあるでしょう。

 しかし、そういう忙しさや辛さを敢えて体験することで、少しの時間を逆にゆったりと過ごせる、些細な出来事(道ばたの花や夕焼け)に感動することができるということもある。

 学生時代、入試課のアルバイトで合気道部のキャプテンたちと、同期の小松を相手に「パンチドランカー」とか、「あーうーの小松っちゃん!」なんて言ってはバカ騒ぎしていました。無邪気な女子高生を評して「箸が転がっても笑いこける世代」なんて言われますが、キツい練習をやっていたからこそ、大学生になってからさえも、ちょっとした時間、何でもない出来事に心から笑って楽しむことができたのでしょう。

 茶道というのも同じだと思います。

 敢えて狭い場所で、小さくて壊れやすい道具を、しかも早く正確に操作することを通じて、自分の内にある感受性を豊かにし、時間感覚を鋭敏にする鍛錬、とも言えるでしょう。

 東京人はせめて、茶道や日本拳法(選手・マネージャー)をやることで、一瞬という時間の重みと、どんな些細なことにでも何かを感じることができる豊かな心を涵養することで、この狂った街で正気を維持していきたいものです。


 2019年6月23日

 平栗雅人



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