第25話 レイ
空は曇り。
雨は降らない。
降りそうだが――降らない。
すべて、ばれているのだろう。
唐突に楽になりたくなる。
そうと決まれば口は油を差したように滑らかに動いた。
「……父さんは、病院にいる。肺炎で入院してるんだ。昔から気管が弱い人でさ。仕事が忙しいうえに、季節の変わり目だろ? そういうとき、いつも咳が止まらなくなるんだよ。で、今回は疲れもたたって、こんなことに」
真堂は黙って俺の言葉を聞いていた。
俺は絵本のページをもどかしくめくるように、口を開き続けた。
「母さんに言われたんだ。『舞のこと、よろしく』って。だから俺はムキになってたのかもしれない。舞に知らせたら不安になるだろうから、父さんの入院は黙ってたんだ。でも、限界だったんだな、たぶん。でも、それでも言えなかった。一人で持つ荷物だと思ってたから――悪いな……レイは口が軽そうだったから言わなかったってのもある」
精いっぱいの軽口。
真堂は笑わなかった。
代わりに水面に落ちた枯れ葉のようにそっと、つぶやいた。
「知ってる……知ってるわよ……全部、知ってしまったわ」
「偶然、だよな?」
「わたしは土曜日に貴方と別れて、日曜日に病院に入っていく貴方を見つけたの」
「そうだったのか」
「まったく笑えないわ、本当に」
「ごめん」
「つまらなすぎて涙が出そうよ」
無表情の真堂の頬に、ツーと涙の筋が出来上がる。
裏切られたとでも思われてしまったのだろう。
自業自得だ。
「俺が馬鹿だったんだ。レイには言えばよかったのに。協力してくれって、頼めばよかった」
「気にしないで。わたしの馬鹿さ加減に悲しくなったのよ」
「詳しい理由を聞かないのか?」
「聞いたってわたしには何もわからないんだわ。だったら見ているだけでいい。わたしはあなたがゴミを捨てて、机を拭いて、ベンチを直すところずっと見ていることにしたの――知らなかった?」
「ああ、知らなかった」
「じゃあ、あなたも、バカね」
真堂は涙を拭かなかった。
そのまま一歩を進み、また一歩を進んだ。ぶつかる寸前で停止する。
座る俺に、立つ真堂。
直立なら見下ろす立場の俺も、いまでは逆に見下ろされている。
「本当に、バカ」
ふわり、と。
制服に顔が埋もれるような距離で、真堂は――俺の頭を抱きしめた。
くるみ色の髪が俺を包み込む。
破裂しそうなほどの心臓の音は誰のものだろうか。
俺はどちらとも知れぬ鼓動に身を委ねた。
「……俺はレイが来てくれて助かったんだ。一人じゃなくて、安心できた。ありがとう」
「陣くん――」
諭すような真堂の声音。
「――そもそもあなたは一人じゃないのよ。舞ちゃんだって居るし、わたしも居るわ。お父さんだって居るし、きっとお母さんも空から見てる。だから勘違いしてはいけないのだわ。あなたは一人じゃないってことを」
「ああ、そうかもな……」
『舞を、よろしくね』――母親の願い。
なぜ、一人で行わなければならないと思ってしまったのだろうか。
手を取り合って進む未来だってあったはずなのに。
でも、それはまだ手遅れではない……だろう。
「なあ、レイ……、これからも、俺を助けてくれるか?」
不安とはこうも簡単に氷解してくものだということを今、知った。
悩みは誰かに話すと良いというのは本当だったようだ。
視界は暗闇。
柔らかな匂いに包まれる。
肩から力が抜けていく。
頭を巡っていた魔法が、ストンと下に落ちていく。
「当り前よ。わたし、しつこさには自信があるの」
「そうか……」
「ええ、そう。それにお腹も空いているんだから」
「じゃあ、俺がご飯をつくるよ」
「なら、わたしが、それを一人占めするわ」
「……よろしくな」
「こちらこそ」
人の気配がまったくしない隠れ場所に、湿った空気が流れた。
俺たちは接触していた。
し続けていた。
止まった時間の中で、レイの香りに包まれながら――しかし止まるわけはない時の流れを、俺は柔らかさの奥にある脈動に感じていた。
「レイ……」
だが、氷はいつか解ける。
心の奥の気持ちを吐露した俺は――いや、俺とレイは、ふっと我に返ったらしい。
「ちなみに、いつまでこうしてるんだ……?」
なにかに気がついてしまった真堂の体が強ばるのを感じた。
『……ごくり』とレイの咽が大きく動く。
「さ、さあ……? 合図とか、あるならそれで……」
「いや、ないだろ……」
「そ、そうよね、じゃあ、いまよ。いま、離れるの……」
「お、おう」
水でふやけた切手とハガキみたいに、俺たちはじわじわと離れていった。
名残惜しいというよりも、少しずつ無かったことにするような感覚で、俺たちは距離を取る。
それからしばらく見つめあった末に、正直に言った。
「なんというか、恥ずかしい気もするよな」
「ちょっと! そういうことを言うのは禁止でしょう!?」
「なんで怒ってるんだよ……」
「じ、陣くんが、お父さんのこと、わたしに黙ってるからじゃないの!?」
「それは……ごめん。反省してるよ」
「ああ、もう! そこでなぜ暗い顔をするのよ! ずるい! わたしが悪いみたい!」
「……くっ」
ひとりでプリプリとしているレイは、実に可愛らしかった。
自然と笑いが出てしまう。
「……過去最高の悪意を感じるわ」
「だろうな」
「ひどいわ」
「許してくれ」
「いやよ。許さない」
レイは指先で俺の体を押し退けて、そっぽを向く。
でもきっとその顔は、どこか笑っているように見えるのだろう。
「……なによ、もう……、ほんとうに……心配してバカみたい……っ」
横顔をこちらに向けたレイは、まるであてにならない拒否を見せつけてきた。
「悪かった。許してくれよ」
俺の言葉と心は相反した。
レイへの気持ちが浮かんでは消えていく。
――レイありがとな。
――感謝しても、し足りないよ。
――これからはなんでも相談しようと思う。
――なんでも伝えようと思う。
――だから改めて。
――これからもよろしくな。
でもその決意は、もう少し後の話にしよう。
『心の中での呼び名が〈真堂〉から〈レイ〉に変わった』という事実を、今は伝えたくないと思うから。
「陣くんから、継続した悪意を感じるわ……っ」
「悪かったって」
「笑いながら言うセリフじゃないっ」
「レイは可愛いし、面白いな」
「バ、バカなの!? そ、そうよ、バカだったわね! でも悪い気はしないと、思わなくもないけど……!」
「今日の夕飯はなに食べたい?」
「……シチュー」
「よし、任せろ。とっておきの作ってやるぞ」
「そ、そう? なら許してあげるけど……」
「レイは単純で可愛いなあ」
「撤回よ!」
だって。
もしも、ページが許されるなら、あと少しだけ。
嬉しそうな表情を浮かべていることに気が付いていない彼女を――俺はもう少しだけ、からかっていたいのだ。
【あとがき】
というわけで、第一部完です。
いかがでしたでしょうか?
途中、スーパーポエムタイムが入りました。
私はテンポが好きなのですが、嫌いな方には苦行かと思います。
よって最後までは一気に投稿してみました。
あくまで、持論!
私だけの持論ですが、鈍感男子をおとすなら、これくらいは必要かなと考えて、シリアスではないにせよ、こんな形をイメージして、書き始めました。
思ったより読者のかたに評価していただけたので、『もっとライトに書くべきかなぁ』と悩んだのですが、そうすると主人公がただの鈍感男子(どうにしろただの鈍感男子ではありますが)になってしまうので、えいや、と書ききりました。
好きに書けるのも醍醐味ですから、お許しください。
二部以降は学校内に散らばる『おとぎ話系』のヒロイン?などと陣&レイが交流する話になります。
友達作りと称して、陣が結局誰かを助けるわけですが、それはずっと観察してきたレイでなくとも、お分かりになるでしょう。
とはいえこの作品の第一部評価を見ながら、継続云々のことを決めたいと思います。
他にも試したいこと、沢山あります。
ここまで、お読みくださり、本当にありがとうございました。
斎藤 ニコ
二部か、新作か……両方か?!とトイレにて悩みながら。
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