第21話 過去の話・後編(真堂礼視点)

 アラキジン――荒木陣。

 名前を知れば、生徒はすぐに見つかる。

 靴だけを頼りに見つけるよりも、よほど楽だ。


 彼は基本的に一人だった。

 たまに金色の髪をした男の子と話してはいるけれど、やっぱりどこか独りぼっちに見えた。


 いじめられているわけではない。

 学友がいないようにも見えない。

 だけど、彼の心は薄い膜に覆われて、教室の隅にぽつんと放られているような感じがした。


 わたしは話しかけられずに何か月も観察だけを続けた。


 彼は頼まれてもいないのに床のごみをごみ箱に捨てる。

 彼は言われてもいないのに他人が汚した机を拭く。

 彼は教師から指示された場所『以外』も修理して、慌てて走って帰宅していく。


 不思議な人だ。

 

 一度だけ正面から、文字通りぶつかってしまったことがある。

 彼は驚いて、わたしの安否を確認すると――大丈夫だと安心して、去っていった。


 何かが始まることを期待していたわたしとしては肩透かしをくらった気分だ。

 でもなんとなく理解できる。

 きっと彼には、『解決しなければいけない目の前のこと』しか見えていないのだ。

 だからわたしのことなんて、覚えてないのだ。

 

 だって、わたしの『おなか』はもう膨れているのだから。

 彼のお弁当はもうもらえないのだろう。

 王子さまは困ったお姫様のお相手で忙しいのだ。


   ◇


 彼を追いかけているうちに、なぜか周りに人が増えてきた。

 いままでは気持ち悪ささえ感じていた人間は分別の末に意に介さなくなり、いままでは意味もなく避けていた笑顔の素敵な人たちは、いつのまにか学友・友人になっていた。


 なにがわたしの中で変わった?

 わからない。

 けれど、春が香る暖かな風を髪で受け止めると、なんだか晴れやかな気持ちになるくらいには、わたしの中に何かが芽吹いていた。


 しばらくして、当たり前のようにわたし達は二年生にあがる。

 わたしはクラス分けの当日、クラスメイトとなる人間の名前を見ていた。


 ――荒木陣。


 アイバの次。

 上から二番目の名前。

 同じクラスに、特別な人。


 何かが始まるの?――そう思った。


 だが。

 世の中、そんなに甘くない。


 観察するだけだった日々は、観察対象が同じ空間に居る日々へ変わったぐらい。

 彼はいつまでも彼のまま。


 ごみをすてて、机を拭いて、頼まれたもの以外も直していく。


 ――ねえ、陣くん。わたしが心の中ではあなたを下の名で呼んでいること、知らないでしょう?

 ――ねえ、陣くん。わたしのお腹はぺこぺこなのよ。ぐう、と鳴らさないと助けてくれないのかしら?


 彼は笑っている。

 金髪の少年へ向けて。

 それはわたしではない。


   ◇


 梅雨の季節がやってきた。

 陣くんが休んで、数日が経つ。

 どうかしたのだろうか。


 担任の先生がHRの最中に言った。


「このプリント、至急回す必要があるんだが――だれか荒木の家、近いやついるか? 姫八駅の南側400メートル」


 珍しい。

 至急のプリント配布なんて、あまりないことだ。

 でも、これはチャンスかもしれない。


 クラスメイトは誰も手を上げない。

 家が遠いのか、面倒くさいだけなのか――どちらにせよ、先生は困ったように頭をかいた。


 鬼島さんと竹取さんの視線を感じる。

 きっとわたしの気持ちを知っている彼女たちが、必死に念を送っているのだろう。


 わたしは震える手を――冷たい右手を静かにあげた。


「わたし……、家、近いです」


 このまま観察していたってなにも変わらない。

 だったら――わたしは王子様の前に、わざとガラスの靴を脱ぎ捨てよう。

 それで王子様がわたしを見てくれるのならば、わたしは演技だってしてみせよう。


 そして――わたしは彼の家の玄関に、靴を脱ぎ捨てた。


   ◇


 それからのことは言うまでもなく、とても幸せな毎日だった。

 彼はわたしを見た。

 わたしは彼をずっと見ていた。


 舞ちゃんはかわいい。

 やっぱりお母さんは亡くなっていたみたい。

 彼はわたしを綺麗だという。

 母親のようだという――知っていたけどね。でも、うれしい。


 だからわたしは気が付くのが遅れたのだろう。

 言い訳ではないけれど……、どうにせよわたしは気が付けなかった。

 見るまでは、考えもしなかった。


 靴を脱ぎ捨てた数日後。

 約束のない日曜日。

 わたしが散歩をしていると、町の景色の中に偶然、彼の背中を見つけた。


 運命さえ感じた。

 約束をしていなくても、わたしはもう、彼に出会えるのだ。


 うれしい。

 うれしい。

 うれしい――その背中の行く先も考えずに、わたしは彼の背を追った。

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