神に祈りたまえ
東方博
第1話 サムソンの最期
佐久間光がその現場を目撃したのは、神の思し召しだった。少なくとも光自身は神の導きだと信じて疑っていないようだった。
日曜の午後。礼拝もその後の祈祷会もつつがなく終えた光は、弟の栄一を引き連れて一般信徒の丹波家にお邪魔した。一週間ほど前からずっと部屋に閉じこもっているというご息女の様子を見るためだった。娘本人は信徒ではないとはいえ、教会員姉弟ーー準教会員のようなものだ。牧師である光が見舞いをするのはなんら不自然なことではない。
(何事もなければいいのですが)
二十八年間の経験上、当初から栄一は嫌な予感がしていた。体調を崩したわけでもないのに引きこもる高校二年生の娘。そこに突撃、もとい訪問する光。ただの見舞いと楽観視するには、姉の前科は多過ぎた。
弟の危惧なぞなんのその、光は丹波智美への挨拶もそこそこに案内された一人娘の部屋の前で仁王立ちした。
先月三十になったばかりの姉の光は、凛々しい顔立ちをしている。若干つり気味だが二重の黒目。通った鼻筋と薄い唇。腰まで真っ直ぐに伸びた黒髪。牧師としてはまだ若いがわかりやすい説教をするとのことで教会員にも好かれていた。
「具合が悪いとかではないんですね?」
「食事も取っていますし、トイレにも行っています。ノックすれば反応もします」
智美がため息混じりに答えた。
「たぶん、学校で何かあったのではないかと」
試しに扉をノックする。
応答はない。寝ているのかもしれない。栄一は肩をすくめた。
「では仕方ありませんね。姉さん、今日は失礼しましょう」
「そうですね」
と言うなり光は扉を開けて中へと入っていった。まるで自分の部屋であるかのようにあっさりと。
「ね、姉さん!?」
違う。失礼の意味が違う。栄一が慌てて止めに入ろうとした途端、室内に姉の声。
「あら、これは失礼しました」
姉はすぐさま出てきた。丁寧に扉を閉めてから栄一と智美に報告する。
「お取り込み中でした」
「それはそうでしょうね。姉さん、他人の部屋に入る時はちゃんと許可を取らないと……相手は年頃の女の子なんですから」
「配慮が足りませんでした。まさか首を括ろうとしているとは思わず」
「よりにもよってそんな時に」
タイミングが悪いにもほどがある。栄一は深々とため息をついた。智美と顔を見合わせて、肩を落と――してから、首をひねった。聞き捨てならない不穏な単語が出てきたような気がした。
「…………くび?」
「ええ。首を、タオルでこんな風に」
光は手で首を締めるそぶりをした。栄一は血の気が引いていくのを感じた。母親の智美に至っては蒼白になっている。
「なんでそこで出ていくんですか!?」
栄一は光を押しのけて入室した。智美はもちろん、光も「さっきと言っていることが違います」などと文句を言いつつ後に続いた。
「果穂!」
娘の名を呼ぶ智美の声は悲鳴に近かった。
天井に引っ掛けたタオルを結んで作られているのは、頭が通る程度の大きさの輪。高校指定と思しきジャージ姿の女の子――果穂は椅子の上に立ち、今まさに首を通そうとしているところだった。
要するに、光が言った通りの光景が広がっていたのだ。再び現れた闖入者にあ然としていた果穂だったが、我に帰るなり叫んだ。
「こ、来ないで!」
「やめて、そんな馬鹿なことっ」
駆け寄ろうとした智美を栄一は引き止めた。感情的になってしまっては、勢いで首吊りを敢行されてしまう恐れがある。
「はじめまして。丹波果穂さん」
光が前に進み出て軽く会釈した。この姉は反対に落ち着き過ぎている。同じ血をひく弟としては少しは動揺してほしかった。
「浦和仲町教会で牧師を務めております、佐久間光と申します。いつもお母様には大変お世話になっております」
場違いな挨拶をし、その上「お母様によく似ていらっしゃいますね」といらないコメントまで。
「シスターがウチに何の用なのよ」
「あいにくプロテスタントにシスターはいません。私は牧師です。カトリックでいう神父みたいなものと解釈ください」
いや全然違います、と指摘できる状況ではなかった。毛を逆立てた猫のようにこちらを威嚇する果穂には、落ち着いて話をする余裕など皆無だろう。
そんな中、光は慌てず騒がず部屋の窓側にある勉強机の方へ向かった。
「近寄らないで!」
「かしこまりました」
机を背にして、光は改めて果穂に向き直った。
「今日は突然お邪魔してしまい、大変失礼いたしました。お母様からあなたの様子が最近おかしいとのことでご相談を受けまして、詳しくお話を伺えないかと参った次第です」
果穂は責めるような目で智美を見た。言葉にこそならなかったが「余計なことをしやがって」と言わんばかりの苛立ちが入り混じった眼差しだった。
「牧師センセーに話すことなんてない。あたしクリスチャンでもないし、あんたには関係ないでしょう」
「ええ、おっしゃる通りです。ですから理由は訊きません。そんなお若い内に世を儚むとは、よほどのことがあったのだとお察しします」
「ちょ、ちょっと姉さん」
「しかしひとつだけ大きな問題があります」
光は左手の人差し指を立てた。
「キリスト教では命を奪う行為をすべからく禁じています。自殺も例外ではありません。神から与えられた命を身勝手に奪うことは許されていないのです」
「だから自殺はやめろって? 冗談じゃない!」
「でしょうね。あなたからすれば、信じてもいない神様の掟に反するからやめろというのは相当に無理があると、私も思います」
光はうつむいた。若干伏せた目は憂いの色を見せる。が、すぐさま顔を上げてはっきりと告げた。
「ですが、私は牧師です。神の救いの御手を拒もうとする人を見捨てるわけにはまいりません」
凛として語るその姿は、礼拝で説教をしている時のようだった。だからだろう。智美も、栄一も止めるタイミングを逃してしまった。
「ところで首を吊った場合、気道閉塞による死亡となりますが、そのためには最低でも四分は必要だということをご存知でしょうか? 仮に成し遂げたとしても十分以内に然るべき応急処置を施せば蘇生する可能性もあります」
椅子に立った状態で果穂は眉をひそめた。
「あんた、何が言いたいの?」
「人が死ぬことについて、真面目に考えましょう。その様子ですと、衝動的に自殺を思い立ち、ほとんど準備もしていらっしゃらないようですので」
よどみなく光は続ける。
「首吊りに比べて確実性が増すのがリストカットです。人間は身体の約半分の血液を失うと急逝します。一般的に失血死と言われているものです。この場合、輸血も間に合いません。人間の体重一キログラムあたり約八十ミリリットルの血液と言われているので」
光はポケットからスマホを取り出した。電卓機能で素早く計算する。
「仮に五十キロの人だと血液は約四リットル。その半分、二リットルの血を流したらお亡くなりになるというわけです。首の頸動脈を切り裂いた場合、二分ともたずに神の御元に召されます」
信仰の話をしていたはずが生物の講釈になっている。苛立ちに任せて果穂が怒鳴った。
「だから、結論は何なのよ! リストカットした方が楽ってこと!?」
「あなたは何を言っているのです?」
光は得体の知れないものを見るかのように眉を寄せた。
「一体どこの世界にリストカットを推奨する牧師がいますか。挙句、楽だのと……一体自殺を何だと心得ていらっしゃるのでしょう。そもそも首吊りだろうと焼身だろうと自殺は自殺です。牧師として断固阻止せねばなりません」
おもむろに果穂の机のペン立てを漁る。当人が文句を言うよりも先に目的の物を見つけ出した光は、刃をスライドさせて構えた。
「理屈は今、説明した通りです。あなたの血中酸素がなくなるよりも先に、私があなたの頸動脈を切り裂いて失血死させることは十分に可能なのです」
右手に持っているのは工作用のカッター。ほとんど使っていないようでまだ刃も新しい。事を成すに不足はない。
いまいち状況が理解できていない果穂は目を瞬いた。
「え、どういうこと?」
刃を剥き出しにしたカッターを手に光は宣言した。
「つまり、あなたは絶対に自殺できないということです」
栄一はここでようやく光の意図を理解した。
「ね、姉さん……それはまさか、果穂ちゃんが自殺するより先に刺し殺すということでは」
「さようです」
「「はあっ!?」」
丹波親子の声がハモる。二人して口をあんぐりと開ける様は大変よく似ていた。
「あんた正気!? あ……あたしは死ぬつもりなのよ!」
「では迅速かつ確実に仕留めなければなりませんね。残念ながら牧師として、あなたの望みである自殺を成就させるわけにはまいりません」
「牧師が人殺していいの!?」
「無論、到底赦されることではありません。しかし他に方法が思い浮かびません。私があなたを殺せば、あなたは罪を犯さずに済むのです。あなたを救うためならば、私は生涯を掛けてその罪を背負い、地獄に落ちる所存です」
笑い飛ばすには光の目は真剣過ぎた。確固たる意志を貫こうとする姿はさながら殉教する敬虔な信徒のよう――実際は信徒の娘を殺そうとしているのだが。
「ね……姉さん、あなたという人は…………っ!」
栄一は呆れてものが言えなかった。
「私の覚悟はできております。果穂さん、あなたはいかがでしょう? 私に殺される覚悟はできていますか」
凶器片手に最終通告。完全に気圧された果穂の足が震えはじめる。そもそも、衝動的な自殺に覚悟も何もあるはずがなかった。
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