舞台にいる男 2 ~挑戦篇~

林 のぶお

第1話 附け打ち、歌舞伎マラソンに参加

     ( 1 )


「位置について用意・・・」

 ここで、普通のマラソンなら、走る選手は、前方を見つめるだろうけれど、今回の歌舞伎マラソンに出る選手の目は、左前方の十五段ぐらいの跳び箱の高さにいる男の動作に注目していた。

 何故なら、その男の次の動作で全員走るからだ。

 男の名前は、尾崎徹夫。

 職業 附け打ち。

 歌舞伎公演の時に、舞台上手端(客席から見て、右端)に座って、役者の見得や動作に、つけ析を両手に持ち、つけ板に叩く裏方である。

 通常、裏方は本番中、決して舞台に出ないが、附け打ちだけが、舞台表に出る、稀有な存在である。

 その附け打ちが、今朝は、京都祇園、南座前の四条通りにいた。

 ここで、普通のマラソンなら、すぐに号砲が鳴り響き、競技がスタートするのだが、今回は「歌舞伎マラソン」である。

 だからここから違っていた。

 尾崎さんは、「用意」の言葉のあと、すぐに、つけ析で打ち上げの連打、打ち上げを始めた。

「パタパタ、パタパタ、パタパタ」

 南座前の四条通りは、歌舞伎マラソン開催のため、西の端の松尾大社まで、全て通行がストップ。いつもは、バス、車で行きかう光景も全てない。

 その代わり、両側の歩道は、観客で溢れ返っていた。

 四条通り全面通行止めは、京都三大祭り、祇園祭の山鉾巡行・前祭(七月十七日)、後祭(七月二四日)以来である。

 恐らく、公にこうして四条通りに附け打ちの音が響くのは、歌舞伎四百年の歴史上初の出来事に違いない。

 と僕は思った。

 空は青い。

 二月なので、寒いはずだが、これから始まる、初の歌舞伎マラソンに備えて僕のこころは、熱く燃えていた。

「パタパタ、パタパタ!」

 尾崎さんの右手で、最後のつけ析の音が叩き終わった。

 つけは、左手で始まり、右手で終わるのが鉄則である。

「チョン」

 その傍らにいた関西歌舞伎狂言方の堀内が、スタートの合図の止め析を打った。

 一斉に歌舞伎マラソンに参加している八百人の選手が走り出した。

 その八百人の中に僕はいた。

「皆さん、お早うございます」

 僕の名は、東山トビオ。新米附け打ちです。

 ここで、少し話を戻します。

 何故戻すかと云いますと、どうして京都で、この歌舞伎マラソン開催にいたったかについて少しお話させて下さい。

 昨年、八月、京都市は「京都活性化プロジェクト」を発足させた。

 と云うのも、京都市政、初代市長、内貴甚三郎が明治三十一年(1898年)に市政を行って、今年で丁度120年の記念の年を迎えた。

 その記念すべき年に、何か、他の都市ではやっていない、京都市独自のものを開催する運びとなった。

 ここで凡人なら、大体、記念コンサートや、記念の建物を作る箱つくりに走るが、京都市長の衣笠大作は違っていた。

「京都は、歌舞伎発祥の土地。歌舞伎にちなんだものをやろう」

 と会議の席上云い出した。

「じゃあ南座で歌舞伎ですか」

 幹部が聞き返した。

「それは、十二月の南座顔見世があるやないか。そうやないものを」

「何ですか」

「歌舞伎マラソンはどうかな」

「お言葉ですが、すでに(京都マラソン)があります。何でマラソンなんですか」

 幹部が恐る恐る聞き返した。

「あんた、三条大橋知ってるか」

「はあ、知ってますけど」

「その橋のたもとにある、記念碑見たことあるか」

「記念碑?すみません。見た事ないです」

「今度の休みの時、見ておいで」

 衣笠市長が云いたかったのが、これだ。

 三条大橋。云わずと知れた東海道五三次の始点。

 その三条大橋東詰・北側に一つの記念碑が設置されていた。


( 駅伝の歴史ここに始まる

 我が国、最初の駅伝は、奠都五十周年記念大博覧会

「東海道駅伝徒歩競走」が大正六年(1917年)四月二七日、二八日、二九日の三日間にわたり開催された。

 スタートは、ここ京都・三条大橋

 ゴールは、東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった )


 つまり京都は、マラソン発祥の土地でもあるわけだ。

 京都の顔は、「古都」「寺社」「観光」だけでは決してない。

 衣笠京都市長の意向を受けて、幹部はすぐに動いた。

 歌舞伎役者の三河犬之助(屋号・裏鷲屋うらわしや)に声をかけた。

 数多くいる歌舞伎役者の中で、最初に何故、犬之助に声をかけたかと云うと、先代犬之助は、白川にある京都創造美術大学、「春夏座」の総合監督、監修を務めていた。

 その職務は、今の犬之助にも引き継がれたのである。

 こうして犬之助は、京都市からの要請を受けて会議に参加した。

 最初の会合から、創造力豊かな犬之助は、次々とアイデアを出した。

 1 歌舞伎役者だけが走るのではなくて、歌舞伎を裏で支える裏方も走る

 2 抽選で選ばれたファン八百人も一緒に走る。

 3 スタート、ゴール地点は歌舞伎の発祥の地、南座前とする。

 4 当日テレビ、ネット中継する。

 5 歌舞伎マラソン、単独開催とする。

 と云うものだった。

 大半は、京都市も要求を呑んだが、一つだけ難色を示したものがあった。

 それは、5のマラソン単独開催だった。

 京都市内でのマラソン開催となると、大規模な交通規制が行われ、市民の足となる市バスの運行も取りやめないといけない。

 京都市は、一月の「都道府県対抗女子駅伝マラソン」、二月の「京都マラソン」、五月の「葵祭」の巡行、七月の祇園祭・前祭巡行(十七日)、後祭巡行(二十四日)、八月の大文字の送り火(十六日)、十月の時代祭巡行(二二日)、十二月の全国高校駅伝マラソン大会と年に八回も、大規模な交通規制を行っている。

 年に八回も交通規制しているのは、日本の大都市では京都だけで、大阪や東京でも頻繁にやっていない。

 全面協力の京都府警も同じように難色を示した。

 折衷案として、二月の京都マラソンと同時開催が京都市から提案された。

 但し、京都マラソンのスタートは西京極競技場、ゴールは岡崎の平安神宮だった。

 犬之助は、南座のスタート、ゴール地点は譲れないとした。

「他の場所なら、歌舞伎マラソンの意義がない。それを変更するなら、この話はなかった事にする」

 とかなり強気に出た。

 そこで、スタートから、四条通り西の端の松尾大社までは歌舞伎マラソン独自のコースと、ゴール近くの平安神宮を変えて、南座発着に落ち着いた。

 先程の、附け打ちの連打でのスタートも犬之助のアイデアだった。

 当日犬之助の声かけで参加した歌舞伎役者は、裏鷲屋の三河犬之助、右近、有田屋一門の鯨蔵、蛸蔵、海豚(いるか)鮫蔵、竹嶋屋の片山走之助、村中屋の村中神童、村中富成、罧原屋(ふしはらや)の元川輝太朗・虹光親子の総勢十一名となった。

 裏方は、附け打ちは、僕(東山トビオ)、大道具は京都タツミ舞台棟梁沢田三治、照明は笠置明夫、岩倉椿、上桂寛子の三人。義太夫三味線の矢澤竹也だった。

 この中で一番力が入っていたのが、役者の有田鯨蔵だった。

 鯨蔵は、南座公演の時は、宿泊する蹴上のホテルから南座まで、鴨川べりを走って楽屋入りしていたし、時間がない時は、専用ロードバイクを使っていた。

 さらにホテルでは、専属トレーナーに、マラソン用のメニューを作って貰い、練習をやっていた。

 この二月は、歌舞伎公演は、東京歌舞伎座と博多座だった。

 奥役(歌舞伎プロデューサー)が、二月の博多座出演を打診したら、

「駄目。京都歌舞伎マラソンに出るから」

 と即答されたと云う。

 歌舞伎よりもマラソンを優先していた。

 さらに三人の弟子には、

「どんな事あっても完走しろ」

 と厳命していた。

 三人の弟子の中で、一番弱り切っていたのが、体重百キロの海豚(イルカ)だった。

「もう、目の前が真っ暗です」

 とぼやいていた。

 当日の歌舞伎マラソンは、地元の、みやこテレビが生中継の他、ネコネコ動画サイトが、ネットで全世界に発信。

 さらに、歌舞伎興行を一手に牛耳る竹松は、全国のシネコンで、生中継する力の入れようだった。

 生中継アナは、新舘あきらで、隣りで解説しているのが、附け打ち評論家の小林伸子だった。

 今のマラソンは、ハイテク化していた。

 ゼッケンには、内臓チップが予め仕込んであり、これで自分自身の走行距離、速度、トップまでの距離、自分の位置、残距離が測られる。

 それらのデータは、大会本部のパソコンに送られる。

 だからコースから少しでも外れるとすぐにわかるし、警告ブザーが 鳴る仕組みだ

 各自選手は、スイッチをオンで、自分の前方に立体空中映像が映し出されるのである。これは特殊効果映像で、自分以外の人には見えない仕組みだった。

 スイッチの入り切りは、まばたき、手首を叩く、声に出すの中から選ぶ事が出来た。

 今回の歌舞伎マラソンから、次世代型自走式ドローンカメラが採用された。

 今までのマラソンなら何台もの車、バイクで選手を追っていたがそのわずらわしさもなくなり、すっきりとした光景となった。

 先導バイクと新舘、伸子の乗る中継車、マスコミ車、後方バイクだけとなった。

 選手は、イヤホンでその中継のアナ、伸子のコメントもリアルタイムで聞けるようになった。もちろん、スイッチ入り切り自由である。

 僕は、伸子さんのコメントが聞きたくて、ずっとオンにしていた。

「さあ、始まりました第一回京都歌舞伎マラソンであります。私の横には、附け打ち評論家でお馴染みの小林伸子さんにおいで頂きました。小林さん、よろしくお願い致します」

「よろしくお願いいたします」

「歌舞伎マラソンらしく、附け打ちの連打でのスタートでした」

「これも、裏鷲屋の犬之助さんのアイデアとお聞きしてます。あと、ゴール地点、再び南座前ですが、ゴールのところも、歌舞伎マラソンらしい、素晴らしい演出が待っていると聞いています」

「ここで、もう喋ってしまうと、テレビをご覧の皆様に、申し訳がたたなくなります。どうかお楽しみと云う事で、あえて私の方からは申しません」

「はい、私も知っていますが、喋りません」

 伸子は笑いながら答えた。

「さて、先程のスタートの附け打ちは、ベテラン尾崎徹夫さんでした」

「尾崎さんは、附け打ちの会社PAG、パタパタ・アート・グループの社長さんで、第一人者でもあります。本当にこころの底から湧き上がる闘志を代弁するかのような、いい附け打ちでした」

「そして、いよいよ、始まりましたね」

「歌舞伎役者と一緒に走れるなんて、歌舞伎ファンからしたら本当に待ちに待った大会です」

 画面には出場する歌舞伎役者、スタッフの名前が出た。

 さらに「データ放送」を受信すれば、歌舞伎役者なら、屋号、代表する芝居、略歴が表示される。裏方なら、職種とその仕事の簡単な説明がつく。

「先頭は、四条大橋を走り抜け、河原町交差点をまっすぐに西へ向かっています」

「京都は、東京と違ってアップダウンの少ない街ですので、ランナーにとっては走りやすいですね」

 カメラは、先頭集団の歌舞伎役者たちから後方のファンの群れに移した。

 ファンの中には、隈取姿の人が一番多かった。あと、勧進帳の弁慶、忠臣蔵の恰好など、ややもすると仮装行列かと思ってしまう。

 今回の歌舞伎マラソンは、あくまで、歌舞伎を楽しく見よう、触れ合おうと云う趣旨で始まっていた。

 ただ単にタイムを競うものではなかった。

 その証拠に、参加者は、決して歌舞伎役者よりも前に出なかった。

 自分のご贔屓の役者のそばに集まる、そんな感じだった。

 犬之助も、わざとゆっくりと走って、写真を撮りやすくしたりした。

 まさにマラソンに名前を借りたお祭りとも云えた。

 冬場の二月は、どうしても観光客が減少する京都。

 京都市は、この歌舞伎マラソンを冬場の観光の目玉として、これからも末永く続けたい考えであった。

「この河原町四条通りは、今でこそ京都随一の繁華街になってますが、江戸時代は、円山応挙、与謝蕪村など、文人、画家などが住まいを構えた土地でもあるんです」

「はあ、そうなんですか。今日は、東京生まれ東京育ちには、分からない私のために、強力な、京都通、歌舞伎通の助っ人、小林伸子さんの解説でこの歌舞伎マラソン解説しております」

 歌舞伎役者の快調な走りと共に、小林伸子さんの的確な解説も、快調な滑り出しをきった。


     ( 2 )


 僕は、走りながら、もう一つの光景を思い出していた。

 それは、出走する前に、皆で南座の屋上のお社へ出向いての儀式だった。

 南座は、毎月八日が月次祭で、八坂神社から宮司が来て、興行の大入りと安全を祈願している。その関係で、今回も八坂神社から宮司が来て、歌舞伎マラソンの成功と、事故のないように拝んだ。

 屋上から、四条通りに向けてカメラがすでに設置されていた。

 今回のマラソンでは、固定カメラ八百二十六台、ドローンカメラ五百台が投入された。

 特に注目を浴びたのが、次世代型自走式ドローンカメラである。

 今までのドローンは、人間が操縦していたが、次世代型は、飛行ルートをプログラミングすると、自分の判断で、電線や、樹木、人などの障害物を判断してよけて飛行するのである。

 この次世代型ドローンカメラを採用した事からも、京都市、マスコミの力の入れ具合がわかる。

 またマラソンコースでは電柱地中化工事が急ピッチで行われていた。

 世界配信のため、京都の景観を損ねる電柱、電線を排除する必要があった。

「いよいよ始まるな」

 僕の背後から、例のドスの効いた声がささった。

 鯨蔵だった。

「はい、始まりますね」

 鴨川べりと四条大橋、さらに四条通りがここから見渡せた。

「さあ一丁やりますか」

 両手で大きく伸びをしながら、犬之助が吠えた。

 皆、これから舞台の本番を迎えるかのような、これから起きる初めての経験を迎える高揚と興奮と期待の入り混じった複雑な心持ちだった。

 スタート地点を南座にしてよかったのは、参加者の待機場所、着替え場所、トイレが一挙に解決出来る。

 南座の舞台と上手袖には、女性専用の着替え室のブースが五十作られていた。

 製作は、京都タツミ舞台である。

 その陣頭指揮を執ったのが、沢田三治。通称「若頭」である。今回の歌舞伎マラソンにも大道具代表で出場していた。

 このあだ名をつけたのが、上方喜劇女優の藤川直美である。

 スタートとゴールが同じ場所なので、自分の荷物を南座の客席に置いたまま、移動をしなくて済むのであった。

 恐らくそこまで犬之助は、考えての南座発着にこだわったのだろう。

 賢人は、重箱の隅にまで目を凝らすのだ。

 四条大宮、西院を通り過ぎた。

 沿道にある、京都外国語大学応援部とチアガールが応援を繰り広げていた。

(さすがは、京都、学生の街!)と思った。

 葛野大路通りまで来た。ここから先は、京都マラソンと同じコースなので、そちらのランナーと合流する。

 混乱を防ぐために、歌舞伎マラソンのスタート時間は、一時間遅らせていた。

 さらに歌舞伎マラソン参加者のゼッケンは、すぐにわかるように、派手な隈取デザインで統一していた。

 松尾橋の向こうに、赤い鳥居、松尾大社が見えた。

 松尾橋手前で右折。ここからしばらくは、桂川べりの罧原(ふしはら)堤の道路を嵐山目指して北上をする。

 先頭は、鯨蔵、蛸蔵、犬之助、右近だった。十三メートル遅れて僕、走之助、村中富弥の三人。さらに先頭から百十三メートル離れて、鮫蔵、村中神童、元川輝太朗、虹光だった。そこからさらに五十メートル離れて、海豚が苦悶の顔で走っていた。

 それぞれの集団には、ドローンカメラがぴったりついていて、リアル映像を届けていた。

 今までは、テレビなり、ネットなり、マラソンに参加してない、傍観者しかその映像は見られなかった。

 今大会から、参加者は、目の前の空中に立体映像を映し出される。

 ハイテク技術は、マラソンの概念まで変えようとしていた。

 マラソン中継と云うと、映像がどうしても単調になっていた。

 しかし、このドローンカメラの登場で、今まで映し出され切れなかった映像が見れるようになった。

 例えば、走るランナーのシューズ、選手の首筋の汗、息遣いまで鮮明に映し出される。

 まるで、自分もマラソンに参加してるかのような、錯覚と臨場感を誕生させていた。

 竹松直営の全国のシネコンでも、映像が流れて、客席で、応援していた。

 時折、カメラが、そのシネコンの様子も映し出していた。

「ああ、海豚(イルカ)が!急速に衰えた!」

 新舘アナが絶叫した。

「どうしたんだ海豚!」

「最早、陸に干し上がった状態ですね」

 すかさず、伸子は冷静にコメントした。

「やはり体重百キロが、大きな荷物なのか」

「有田屋一門の目標は、全員完走と聞いています。頑張って欲しいですねえでも体重百キロは、成人女性二人分ですよ。一人分を差し引いても、女性一人抱えての走りですからねえ。相当きついと思います。新舘さんは、私を背負ってフルマラソン完走出来ますか」

 分かりやすい、伸子さんの例え話だった。

 走りながら聞いていると、しんどさが和らぐ。

「いえ、私にはとても出来ません」

「でしょう!」

「海豚が、ここで走るのを放棄した!行け!走るのだ海豚!」

 思わず、僕は口元に笑いが芽生えた。

 後でわかった事だが、この時、鯨蔵も少し笑ったようだ。

「先頭の有田屋、鯨蔵が口元に笑みを浮かべました。おそらく私達の実況を立体映像で見ている事でしょう」

 風が出て来た。

 川面から、冷気が全身を取り巻く。

 街の中で受ける風とは違って、冷たさが、全身の肌を突き刺す。

 冷たいと云うよりも、少し痛い感じだ。

 走る左手は桂川である。

 今までは、両側は、ビル、家だったので、急に風が出た感じだ。

 走っているので、寒くは感じない。

 川べりなので、応援する人の数は、減った。

 嵐山の手前で、走る右手に応援する人の塊を見つけた。

(何故、あそこだけ人がいるんだ。それも若い女性ばかり)

 空中立体映像に、

「嵯峨女子美術大学」の文字が浮かぶ。

 有名な社寺、建物が見えると自動的に文字が出て来る。

 僕は必死で走ったが、先頭との距離は縮まる事が出来ない。

 ファン参加者も次第に少なくなって来た。

「あっと、先頭集団から犬之助が脱落した!そして、それに反比例するかのように、附け打ちの東山トビオが、猛烈チャージして追い上げる」

「東山さんは、附け打ちの若手の有望株です。彼のつけ音は、まだ成熟の域には立ってませんが、まだ伸びしろのある、広がりのあるつけ音なんですよ」

「さすがは、附け打ち評論家、小林伸子さん。的確なコメント有難うございます。走りの方も伸びしろであって欲しいものです」

 では、裏方連中はどうかと云うと、一番先頭が意外にも、義太夫三味線弾きの矢澤竹也だった。

 今年六四歳の高齢者である。

 竹也は、背中に特注のミニ義太夫三味線を背負い走りながら、義太夫三味線のデモンストレーションを弾いていた。

 三味線は、棹と胴が別れる。

 中には、棹を九つに分解出来て、胴に収納出来るものがあったそうだ。

 では、どうやって胴の中に収めたか。

 胴の表面の皮がスライドしたそうだ。

 昔の職人の技は想像を絶する、凄わざでもある。

 ちなみに三味線の皮は、犬、猫で出来ている。

 カメラが、ミニ三味線を背中に背負って走る、矢澤竹也を捉えた。

「三味線は、普通は犬、猫の皮で出来てますが、今背負っている三味線は、違うんですよ」

 すかさず、伸子が説明を開始した。

「違う?じゃあ何の皮で出来ているんですか」

 新舘アナがすぐに聞き返した。

「カンガルーです」

「ほおお、カンガルーの皮の三味線とは、私も初耳です」

「最近、出て来たそうです。今回の歌舞伎マラソン用のための特注のミニ三味線だそうです」

「しかし、何で、カンガルー三味線なんですか」

「カンガルーのピョンピョン、はねるように、このマラソンもはねたい願望からです」

「なるほど、六十四歳、大会最高齢の義太夫三味線弾きの矢澤竹也、記録もピョンピョン跳ねるように、塗り替えて欲しいものです」

 当意即妙、軽妙洒脱な新舘あきらの実況中継コメントは、おおむね視聴者には好評だった。

 竹也は、歩く海豚に向かって、

「お先に行きまーす」

 足取り軽く追い抜いた。

 ぐだぐだだったのが、大道具の沢田、照明の笠置の二人の走りバトルだった。

「かっさん!(笠置)俺の前走るな!」

「何でですか」

「目障り!うっとおしい。下がれ!ぎゃはは」

「じゃあ、私達も駄目ですか」

 照明調光の岩倉椿とセンタースポット係の上桂寛子が走りながら声かけて来た。

「椿ちゃんも上桂さんも、いいよ」

「何でですか」

「照明女子は、許す」

 と云って沢田は、また大笑いした。

 先頭集団は、嵐電嵐山駅周辺にたどり着いた。

 昨年まで、車の走る高架道を走っていたが、コースが変更されて、より観光客にも声援が出来るようになった。

 右手に、建設中のビルが見えた。

 空中立体映像に、

「嵐山座・八月開場予定」と出た。

(へーえー、こんな所に、劇場が出来るのか)と思った。

 嵐山周辺は、冬場でも、ここは外国人観光客が群がっていた。

 日本では、盛んにおこなわれるフルマラソン。

 先進国で一番マラソン大会が多い国である。

 沿道の中国人、韓国人、タイ人らが声援を送っていた。

 清凉寺手前で右折。

 今度は、東に向いて駈け上がる。

 やがて、きぬかけの道に入った。

「さあ、先頭集団は、きぬかけの道に入りました。このきぬかけの道の由来は、宇多天皇が、初夏に雪景色が見たいと、衣笠山に衣をかけたと云う伝承があります。

 平成三年(1991年)公募で、この名前がつきました。

 ここは仁和寺、龍安寺、金閣寺と世界文化遺産がずらっと軒を並べる、云わば、世界遺産陳列オンパレードの道すがらでもあります」

 「京都市内には十四の文化遺産、宇治市に二つ、平等院と宇治上神社、大津の延暦寺と十七の世界文化遺産が登録されました」

 伸子は、補足説明した。

 日本には多くの市民マラソン大会があるが、京都マラソンほど、走りながら世界遺産を見れる、そのそばを走るのは他にない。

 さっきの嵐電嵐山駅では、世界遺産天龍寺が目の前にあった。

 今、僕は仁和寺の前を走る。

 修行僧の人達だろうか。十数人一列に並んで横断幕を持って応援していた。

 横断幕には、

「祝!第一回歌舞伎マラソン!皆、かぶいて走ろう!」

 と書かれてあった。

(かぶいて走る?)

 僕は、一瞬、頭の中が軽い錯乱状態になった。

 でもこの際、気にしないで走ろうと心掛けた。

 走ると云う行為は、人間のこころをおおらかにするのかもしれない。

 一瞬、一年前、附け打ちで失敗して嵐山の双龍寺で、修行僧に交じって自分を見つめていた時期の日々が脳裏をよぎった。

「修行僧の修行は、大変厳しいものがあります。マラソンもまた厳しいものであります。その厳しさを共通出来るランナーに声援を送るのでありましょうか」

 僕は、ようやく、先頭集団を捉えた。

 犬之助が僕の隣りにいた。

「東山くん、マラソンっていいね」

「何がいいんですか」

「これ、使えるよ。芝居に使える」

 走りながらでも、人はこんなにも自信に満ち溢れた声が出るんだと僕は、改めて思った。

 また犬之助の頭の中に、新しいアイデアが湧いたのだろう。でも僕は、返事するのが精一杯で、それ以上考える思考回路は働かなかった。


      ( 3 )


 一般のマラソンと同じく、給水ポイントが何か所かあった。

 地下鉄北山駅、植物園付近で、僕は初めてペットボトルの水を飲んだ。

 空中を俯瞰していたドローンカメラが、急に僕のそばまで接近した。

 南座楽屋に設置された、テレビ中継所から指令を飛ばして、自由自在にドローンカメラを操る事が出来た。

 もうカメラマンも要らない時代が来るかもしれない。

 でも歌舞伎の附け打ちは、どんな時代が来ようとも人がやる。

 そう信じたかった。

「美味しそうに飲んでいます。今、東山君、京都一二〇〇年の深い歴史に刻まれ込んだ、水でもあります」

「京都は、水脈が豊富ですからね」

「はい、今大会のために特別に用意された歌舞伎水であります」

 新舘アナの説明を聞きながら、

(何が特別なんだ)と思った。

 ペットボトルには、二人のイラストが描かれていた。

 一人は、南座のマスコットゆるキャラの「ミナミちゃん」で、もう一人は、勧進帳の弁慶が五条橋(現在・松原橋)で水を飲んでいるものだった。

(先頭集団まで九メートル)

 僕の目の前の空中に立体映像データが浮かぶ。

 少しは縮める事は出来た。

「ここから、一気に賀茂川べりを南下しております。京都は不思議な町です。高野川との合流地点から、漢字も変わる賀茂川から、カモの川、鴨川となるわけです」

「そうです。あの嵐山の渡月橋を流れる保津川も、渡月橋のそばは大堰川、渡月橋から南側は、桂川と云いますからね」

 すぐに伸子は補足説明した。

 賀茂川の沿道には、歌舞伎狂言(演目)で有名な「白浪五人男」の扮装で応援する人たちがいた。

 新舘もそれに気づいたようだ。

「あっ白浪五人男!」

 思わず新舘が叫んだ。

「本来なら、稲瀬川勢ぞろいの場ですが、賀茂川勢ぞろいの場に置き換えてますね。歌舞伎では原作を、時代と共に、よく書き換え、場所の置き換えもある作品が多いんです」

 すかさず、さり気なく的確に伸子は、歌舞伎の解説を挿入していた。

「つまり、賀茂川版もありって事ですね」

「はい。充分ありです」

 アドリブ多い、新舘だが、それに当意即妙に切り返す伸子の解説は、聞いていて心地よい。と僕は思った。

 附け打ちで云うところの、生き殺しをつける。

 つまりメリハリをつけた附け打ちのような解説と云えた。

「あああっと、ここで先頭集団から三河右近が脱落しました!」

「ちょっと右近さん、疲れて来ましたね。三河右近さんは、歌舞伎役者、長唄三味線、東三河流の清元家元の三つのジャンルの頂点を目指しています」

「まさに、歌舞伎界の大谷翔平であります」

「さらに、彼は今四つ目の芸事を習っています」

「四つ目?何ですかそれは」

「義太夫三味線です。それも東京で習うのではなくて、京都、矢澤竹也師匠に習っています」

「あのカンガルー三味線師匠!矢澤竹也!義太夫三味線、語りの風雲児!あえて、東京ではなくて、京都で密かに習う。東京だと、色々あるんですね」

 新舘アナは、頬の筋肉を若干緩めながら聞いた。

「ええそうです。大人の事情です」

「事情×事情。なるほど、計算ややこしいですね」

「いつしか、二人のコラボを見てみたいですね」

 伸子は、上手く言葉をまとめた。

「さて、歌舞伎マラソンに戻りましょう。第二グループですが、附け打ち東山、裏鷲屋の犬之助、あっと竹嶋屋の走之助、村中富弥がそこから脱落しました」

 先頭集団の鯨蔵と蛸蔵の二人の背中を見ている僕。

 その背中がどんどん大きくなる。

 それと反比例するかのように、空中に立体映像の差を現わすメートルが小さくなった。

 (あと五メートル)

 の表示で、一旦僕はスイッチを切り、実況中継イヤホンだけにした。

 京都マラソンの一般参加者のゴールは、平安神宮なので、東大路通りの途中で平安神宮に入る。

 出町柳から東の今出川通りでは、京都大学応援部、チアガールの声援を受けた。

 僕ら歌舞伎マラソンのゴールは、南座なので、そのまま南下。八坂神社西楼門で、右折して四条通りに入る。

 ここまで来ると、沿道の観客も一気に増える。

 ここからは、歌舞伎マラソン独自のルートなので、歌舞伎ファンで埋まる。

「今、データが出ました、一般参加者の内、完走できそうな人数は四二三人です」

「半分以上の人が完走ですね」

「今回の歌舞伎マラソンの募集要項の一つに、今までフルマラソンに一度も出た事がない人でした」

「約八百人中で四百二十三人。立派ですね。昔東京国立劇場で、忠臣蔵全段通し、上演時間約十三時間で、居眠りしてた人は、半分以上いましたからね。それを思えば立派な数字。四百二十三人に拍手です」

 伸子は手をパチパチした。

「一方本日同時開催の京都マラソンは、約九割の人が完走しております」

「まあこちらは、走る、完走するのを目的に日頃練習して来た市民ランナーですから、当然ですね」

 思わず僕は、にやけた。

(忠臣蔵の通し観劇とマラソンを比較するなんて、伸子さんにしか出来ない)

「おっと、第三グループに一人の女性が入り込んで来ました!」

「照明の上桂寛子さんですね」

「南座照明は笠置明夫が20キロ付近で脱落。岩倉椿は、まだ走っていますが先頭から一キロ遅れてます。一人気をはく、上桂寛子であります」

「彼女は、今四十歳。小学校から大学までバレイやってました。走り方も何となく、バレイですねえ」

 伸子の頭の中には、今回出場する裏方の全ての細かいデータが頭の中にインプットされていた。

 伸子の解説に合わせて、ドローンカメラが接近してその走法を逐次映し出していた。

 最高齢の六十四歳の義太夫三味線弾きの矢澤竹也は、背中に特製ミニ三味線を背負ったまま棄権せずに走り続けていた。

 そして沿道の人達に、自宅の「町家義太夫三味線ライブ」のビラを配っていたのだ。

 竹也は、元々東京に住んでいたが、京都の町家で浄瑠璃語り、弾きをやりたくて、五年前に京都に移住した。

 竹也自身に云わせると、

「そうだ京都、行こう」ではなく、「そうだ京都、住もう」となるらしい。

 今、日本で毎月歌舞伎興行が行われているのは東京だけである。

 東京に住んでいた方が、仕事もコンスタントにある。

 それでも、京都に住んで「自宅町家 義太夫三味線・語り」をひとりでやりたかったのである。

 周りのファンもそれぞれ、三味線、笛、太鼓を持って伴走していた。

 中には、お琴を二人で抱えながら走るペアもいた。

「では、ここで、東京竹松銀座シネコンにカメラを切り変えて見ましょう」

 竹松銀座シネコンで一番大きなキャパ七百人の劇場は、超満員だった。

 観客はそれぞれの贔屓にする歌舞伎役者の応援で盛り上がっていた。

 昨今のシネコンは、歌舞伎映像、サッカー試合、ライブコンサートと、映画だけ映す時代はとうの昔になっていた。

 巷に溢れるシネコン。

 他社とどう違う所を見せるかが問われていた。

 歌舞伎をソフトに持つ竹松は、歌舞伎シネマを始め、歌舞伎教室、歌舞伎役者のトークショー、附け打ちトークショー、義太夫三味線の会などを開催して、ライバルの西宝と差別化を目指していた。

 前方左手に、はっきりと八坂神社西楼門が、目に入って来た。

「まもなく、先頭集団は八坂神社西楼門にさしかかります」

「今は、ここが八坂神社の正門のように皆さん思っておられますけど、ここじゃなくて、南側の楼門が正門なんです。正門は、石造りの鳥居です」

 伸子の解説のために、一台のドローンカメラが、その石造りの鳥居を俯瞰撮影していた。

「明治維新、二代目京都市長、西郷隆盛の息子、西郷菊次郎は、京都市の都市計画の一環で、道路拡張を行いました」

「そうなんです。それで、道路の正面に来るよう、西楼門をずらしました」

 新舘と伸子は、息の合った、歯切れ良いテンポある実況、解説を行っていた。

 ツイッター上には、

「この二人の実況と解説、最高!」

「マラソン見ながら、京都観光も楽しめました。一石二鳥です」

「プラス、歌舞伎役者の素顔が見れて、三丁でした」

「確かに、人間走ると、素顔が出るもんなあ」

「新舘アナ、小林伸子さん二人とも、白塗りで解説して欲しかった」

「それは、もう一般参加者やってます」

 等の応援コメントが殺到していた。


 ゴール目前で、僕はふいにある出来事を思い出していた。

 それは歌舞伎マラソン前日、国宝さん、つまり附け打ちで唯一の人間国宝、清水元助師匠に呼ばれた。

「お前はん、明日の歌舞伎マラソン頑張りや」

「はい、頑張ります」

「一着になりや」

「一着ですか」

「そうや。一着になったら、ええ事あるからな」

「優勝賞金出るんですか」

「ははは、物欲の東山はんやなあ」

「すみません」

「賞金よりも、もっとええ事や」

 それが、何かは国宝さんは教えてくれなかった。

 尾崎さんに聞くと、

「知っているけど、大会本部から固く口留めされているんで」

 と云われ、堀川さんに聞くと、

「勝利の女神に輝くは・・・」

「何ですか」

「もちろん月桂冠だろう。俺はこっちの月桂冠が好きだがな」

 酒を呑む仕草をした。

 完全に、二人にはぐらかされた格好の僕だった。


      ( 4 )


「さあ、先頭集団が、今、八坂神社西楼門前、東大路から四条通に入ってまいりました。先頭は、有田鯨蔵、蛸蔵、そのすぐ後ろに附け打ちの東山、三河犬之助です」

 この時、南座正面のいつもは、何もない、小さな櫓に、片肌脱いで真っ白なさらしを巻いた男らしき人物が、太鼓を叩き出した。

 南座屋上のカメラと、南座四条通り向かいのレストラン「菊水」屋上のカメラ、二台がズームアップした。

 太鼓の音に、気づいた観衆は、一斉に南座正面上を見上げた。

「一番太鼓ですね。江戸時代、芝居が始まりますよ、ここでお芝居やってますよと云う、宣伝も兼ねたものですね」

「白いさらしを巻いた、イケメン男子が叩く太鼓の音色がここ、四条通りに響いております。まさにその名の通り(一番太鼓)です。そして歌舞伎マラソンの一番は一体誰なのでしょうか!」

 新舘は、やや芝居かかったかのように、少しオーバー気味の声で叫んだ。

「あっ、新舘さんそれ、間違っています。イケメン男子じゃないです。太鼓叩いているのは、南座音響担当、MSC所属の新川真由子さんです」

「えええっ女なんですか!」

 思わず新舘は、伸子を見た。

「そうです。彼女、初対面の九割の人が男と間違えます」

「それは失礼しました」

「ご覧のように、彼女耳栓してます。これは何故かと云うと、彼女、普通の人間よりも数十倍耳がいいんです」

 イヤホン通して、ゴール付近の出来事が解る。

 国宝さんはこの事を云ったのか?

 いや違う。太鼓の音なら、別に一着でなくても聞こえる。

 花見小路通りを通過。

 前方のある姿を見て、僕は氷解した。


「おっと、ここで東山が猛チャージ!蛸蔵捉えた!」

「一発逆転狙ってますね」

 一瞬蛸蔵が振り返って、僕を見た。

 その時、隣りを走る鯨蔵の足に、蛸蔵の足が絡まった。

「あっ!」

 鯨蔵が転倒した。

 蛸蔵が、それを見て、一瞬立ち止まり、鯨蔵に駈け寄った。

「馬鹿野郎、お前は走れ!一位になれ!」

 そのやり取りの隙間に、僕はついに先頭に立った。

「さあ、一着は誰か、東山か、蛸蔵か」

「東山君、早い!早い!」

 伸子は、思わず手を叩きながら応援した。

 僕は、ゴール付近を見て国宝さんの云っている意味がわかった。

 ここは、どうしても一着になりたかった。

 だって、それが、附け打ちの真骨頂なんだから。

 順位とかでない。矜持、誇りなんだ。

 背後から蛸蔵が来た。

 彼の荒い息遣いが耳に飛び込む。

 並んだ!

 抜かれた。

 すぐに抜き返す。

 でもまた抜かれた。

 ゴールのあの光景は、歌舞伎マラソンならではなんだから。

 真由子の太鼓の音と、それに呼応するもう一つの音が僕の耳に飛び込む。

 それは、・・・

(つけ音、附け打ちの打ち上げの音!)

 ゴールテープの両端に、跳び箱十五段、積み重ねた上で、二人の附け打ちが、つけ音を出していた。

 レストラン菊水側に堀川さん、南座側に尾崎さんだった。

「パタパタ、パタパタ、パタパタ!」

 そのつけ音は、僕にとって最後のエネルギーチャージでもあった。

 つけ音の連打。

(打ち上げ)と呼ばれているものだ。

 二人は、勝手に打っていなかった。

 二人の呼吸、間合い、そして真由子の太鼓にも合わせていた。

 それを聞き取れるようになった自分を褒めてやりたかった。

 蛸蔵を一瞬、僅差でかわして、ゴールに飛び込んだ。

 ゴールテープは、マラソンでよく見かける、白いものではなくて、黒、柿、萌黄色三色だった。

 この色の配列は、歌舞伎芝居でお馴染みの、左右に開閉する定式幕と同じものだった。

 結局一着僕、二着蛸蔵、三着犬之助、四着鯨蔵、五着上桂寛子だった。

 タイムは、三時間一五分二三秒。

 平凡なタイムだけど、歌舞伎マラソンで、堀内さん、尾崎さんのつけ音の連打の祝福の音を聞きながらトップで走り切ったと云う事が、僕の中で一番だった。

 閉会式が行われた。

 まず新舘は、上桂寛子にインタビューした。

「五位おめでとうございます。それにしても照明上司の笠置さん、ぐだぐだでしたね」

 新舘は、南座照明課長、笠置の話でインタビューを切り出した。

「私が聞いた話では、この歌舞伎マラソンに備えて、京都駅から南座まで、毎日走って通勤してたそうですよ」

「しかし、上桂さんのバレー走法が際立った。途中、くるくる回転しながらの走り、しんどかったでしょう」

「つい、バレイの癖でやっちゃいました」

「そして五位入賞、やっちゃいました。一言、どうぞ」

「はい。笠置さん、あんたあかんでええ。皆さん有難うございました」

 次に、四位鯨蔵にインタビューした。

「惜しかったですねえ」

「ラストで、タコの足に絡まりました」

 観衆から、どっと笑いが起きた。

 横で蛸蔵が、しきりに頭をかいていた。

「祇園で絡まれるのは慣れてる鯨蔵さんも、まさかのタコの絡みでした。蛸蔵さんに一言」

「今夜は、これから絡まないようにタコの足のおでん、食いに行くぞ!」

 爆笑がさく裂した。

 次に犬之助がインタビューに応じた。

「惜しくも三着でした」

「あのKYの東山君、ある意味素敵でした。普通、ここは、裏方の附け打ちとして、役者に花を持たすのが普通ですけどね」

 またどっと笑いが巻き起こった。

「KY。つまり(空気)、(読まない)ですね」

「でもいい経験になりました。これからの歌舞伎作りに生かします。応援してくれた裏鷲屋ファン、沿道の皆さん有難うございました」

「さて惜しくも二着の蛸蔵さん、一言どうぞ」

「一瞬、有田屋の旦那を助けようと動いたのが命取りでした」

「あの時、有田屋さん、何と云われましたか」

「馬鹿野郎!殺すぞ!」

「それで、慌てて再び走り出したんですね」

「そんな事云ってないって」

 苦笑しながら、鯨蔵は手を振っていた。

「まあ真偽のほどは、後回しにしましょう。さて、歌舞伎マラソン優勝の東山トビオさんです」

 詰めかけた群衆から、拍手、歓声がさく裂した。

「おめでとうございます」

「有難うございます」

「ラストラン、猛烈チャージ凄かったですね」

「はい。先輩二人の附け打ちをどうしても、一着で聞きたかった、附け打ちの誇りにかけてです」

 後で、わかったけど、この時僕はかなり高揚していた。

 授与式が終わり、これで解散かと思った。

「まだまだ終わりませんよ皆さん。ここで、歌舞伎マラソン応援ソングを作った(いよかん)が特別に来てくれました!」

 紹介のアナウンスだけで、悲鳴と歓声の嵐が幾つも沿道から立ち昇った。

 (いよかん)が、南座正面玄関の扉を開けて登場した。

 太鼓を叩いていたはずの、真由子は、歩道際の音響卓にいた。

「皆さん、いよかんでーす!」

 歓声、拍手、口笛、大向こうが同時に地響き立てて、沿道の観客を取り巻き、拡散した。

 今日本で一番人気のある、音楽グループで、先日東京オリンピック・パラリンピックの応援主題歌「東京ステップ・ホップ・ジャンプ」を発表したばかりである。

 男性二人組(北浦太朗・森本隆)の歌手で、愛媛県松山出身で、地元「大街道商店街」での路上ライブの時に、スカウトされて上京。

 デビュー曲「いよかんの恋」がいきなり、CDシングル売り上げ、500万部突破。

 翌年,NHK大河ドラマ「夏目漱石・坊ちゃん」の主題歌「走れ!坊ちゃん」の主題歌を担当。人気を不動のものとした。

 昨年の紅白歌合戦にも出場した。

 一気に人気が出た。

「皆さんと一緒に歌いましょう、京都歌舞伎マラソン応援ソング(明日、きみは風になる)です。では聞いて下さい」


 ♬ 京都歌舞伎マラソン 応援ソング ♬

 「明日、きみは風になる」 (作詞・作曲 いよかん )

 

 南座の前で始まる 新しい門出

 四条大橋駈け始め 渡るぼくに

 風が吹く     風が背中を押す

 意味もなく    落ち込んだ

 意味もなく    人をののしる

 こんな嫌な自分と 出会った

 こんな嫌な世間に 背を向けた

 そんな時     一陣の風が吹いた

 吹け、行けよ   どこまでも

 吹けよ、洗えよ  こころの隅まで

 流してくれよ   嫌な思い出

 さあさ吹けよと  風の神

 さあさ唄えと   劇場(しばい)の神も

 祝おう 伝えよう どこまでも

 風が僕の背中を押してくれた

 風が僕の思いを伝えてくれた

 さあどこまでも

 さあどこまでも  吹いてくれ

 有難う 有難う

 劇場の神 風の神

 

 皆の笑顔を見ながら、腹の底から歌った。

 見ると堀川さんも尾崎さんも附け打ちの台の上で歌っていた。

 今年も頑張ろうと思った。

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