第21話 同じ 鍵を 持っている②完結
おもむろに、玲はコートを着はじめる。
「え、もう帰るん?」
続いて祥子も、あわてて立ち上がった。
「ゆっくりしていって? お茶を淹れ直して、玲が焼いてきてくれたクッキー、久しぶりにみんなで食べたかったのに」
「類とふたりで食えよ。表面に、『ハッピーバースデー』って、書いてあるだろ。あいつにも見せてやれ。俺、実は仕事の途中で、抜け出してきたんだ。邪魔したな。さくら、ほどほどにがんばれ」
そそくさと、玲は玄関に向かおうとする。
「ま、待って、玲。渡したいものがあって」
さくらは、引き出しの中から町家の鍵を取り出した。一年間、使っていた大切な鍵だ。今日こそは返すと決めていていたのに、いざとなると手が震えてしまう。
「これ。返そうと……思って」
目の前に差し出された鍵を、玲はじっと見ている。
「いやじゃなかったら、今後も持っていてほしい。お前の特別な存在にはなれなかったが、お前はこれからも俺の『妹』だろ?」
「玲……」
「そないに寂しげな顔、せえへんでええって。類が使うていた鍵は、うちが持っとるし。なあ、玲?」
そう言いながら、うふふと勝ち誇ったような顔で、祥子はポケットから鍵を出して見せた。確かに、町家の鍵のようだった。
「まさか、そういう関係……なんですか」
「違う! 断じて違う。けど、家事を祥子に手伝ってもらうことも多いし」
「オトナの関係や、うふふふふっ。さくらには理解できひんやろね」
「誤解を生むような発言は慎め、祥子。さくらは経験が浅いんだ」
「へえへえ。雨が降ったら洗濯物を取り込んだり、作り置きの料理を冷蔵庫へ入れておいたりする仲。まあ、介護人や。これならええか」
玲が頷いた。
さくらにはもうひとつ、聞いておきたいことがあった。
「……あの町家に、玲はこれからも住み続ける?」
この質問に、ちょっと玲は考え込んだ。腕を組んでしまった。
「うーん。実は最近、工場の裏手に建つアパートに、空きができて。そっちに引っ越そうか考えている」
「工場の二階、つまりうちと同棲でもええのに。またまたカップル誕生やで!」
「冗談、やめてくれ。今の町家もいいんだけど、ひとりだと家賃が高いし、夏は暑いし。さくらに教えてもらった建築事務所に連絡をつけて、エアコン設置の許可を得られるか家主さんに聞いてもらったんだけど、まだまだ時間がかかりそうで。現状のままで夏になりそうな予感」
「そう……なんだ」
「もし、引っ越すようなことになったら、早めに連絡する。だから、この鍵はまだ、さくらが保管しておいてくれ」
玲はさくらの手に、鍵を握り直させた。
久しぶりに触れた、玲の手指。水を使うので、仕事で荒れてしまっている爪先には、糸染めの染料がこびりついていた。とても懐かしい気がする。
……玲。
ほんとうに、ありがとう。そして、ごめんなさい。だいすきだった。あなたについて京都まで来て、よかった。ことばに出せないけれど、心の中でそっとつぶやく。
冷たい鍵は、さくらの手のひらの中に、ぎゅっと重く沈み込んだ。
「……うん、分かった。預かっておくよ」
今は、玲に笑顔を見せよう。さくらは笑って、西陣へ帰るふたりを見送った。
ふたりが帰ったあと、さくらは祥子から『誕生日プレゼント』なるものを、受け取っていたたことを思い出し、開けてみた。どきどきしながら。
「な……こ、これ!」
中身は妊娠検査薬だった。祥子らしい気配り、いや、いたずらである!
しかも、使いかけというか、二本入りだった検査薬の箱は開封済で、二本中一本はどうやら自分で使ったようだ。一本だけ、残されている。
お古? 中古? しゃれにならない。
「祥子さんってば、さりげなくひどい。いけず!」
必要になると言われたし、実際ちょっと思ったりもするけれど、誕生日プレゼントにするには生々しいよ!
ほぼ、同じ時間。
「なあ、このままでええの?」
マンションのエントランスを出たところで、玲は後ろを振り返った。祥子のついてくる気配が消えたからだ。
自動ドアの前で、立ち止まったまま、祥子が泣いている。ふだんは勝ち気で気丈なぶん、突然の涙にはぎょっとさせられた。
仕方なく、玲は引き返した。
「祥子、どうした?」
「……このままやと、さくらは必ず苦労する……あのふたり、今は目も当てられんほどらぶらぶで、思い合っとる。けど、あの子のこれからの人生ぜーんぶ、類のおもちゃやで? さくらに、類は重荷や。玲みたいな、地に足がついた相手が合うのに。それに絶対、類より玲のほうが、どんだけさくらのことを……」
「もう、言うなって。さくらが選んだのは、類だ。俺なら、ひとりでなんでもこなせるけど、類はそうじゃない。自分が年上だけに、放っておけなかった気持ちもあるんだろう」
玲はハンカチを出して、祥子の涙を拭いてやった。
「そやけど、今ならまだ間に合う! さくらの目を覚ましたげてな、玲? 類の見かけと口先に、のぼせとるだけや。類の性格は、結婚に向いとらんって。途中で飽きて、捨てられたりしたら、あの子が不憫やん」
あまり仲よさそうにしていなかったのに、祥子はさくらのことを本気で気遣っていた。
「さくらを心配してくれて、ありがとう。あのふたりがうまくいくように、俺たちで支えてやろう。それに、さくらがいないほうが祥子には好都合だろ」
「……れい。ええ男や。玲を選ばんなんて、さくらはあほや、おおあほや!」
心配されたり、あほ扱いされたりしていることも知らずに。
さくらはそのあと、電話やらメールやら、連絡の嵐に遭った。
類の話はほんとうか、と。大学のクラスメイト、東京の友人たち。最近は、疎遠だった人からも問い合わせがあって驚いた。
さくらの生徒だった、高校生のあかりからも、メールが届いた。
いきなり『婚約、おめでとうございます!』と、北澤ルイの相手はさくらと確信している様子で、『家庭教師、再開してくれますか』、のひとことも添えてあったのは、素直にうれしかった。
庶民のさくらレベルで連絡攻撃があったのだから、本人の類は大変な事態になっていることだろう。
実際、いちばん欲しい、類からの連絡がまだ、なかった。
ゆえに、連絡攻撃を受けてもどう対応すべきが迷った。『詳しいことは、私からはまだ言えない』、そのひとことで押し通した。
***
夜、更けて。
日付が変わるころ。
さくらの携帯電話が、また鳴った。いくらなんでも、深夜になにかと、さくらは身構えた。しかも、ディスプレイに表示されているのは、『公衆電話』。これって、さっそく誹謗中傷的な怖いやつ? 息を飲む。
でも、『もしかしたら』の、可能性も捨てきれない。さくらが、待っている人からの連絡かもしれない。
心を決めたさくらは、思い切って通話ボタンを押した。変な電話だったら、すぐに切ればいい。心臓が、妙にどきどきしている。
「も、もしもし……」
『さくら? ぼくだよ、ぼく! 分かる?』
……ようやく。今日、いちばん聞きたかった声が、耳に飛び込んできた。
「る……、るいくん? 類くんなの? よかった、心配した。しばらく東京で、仕事が続くんだよね。私、ひとりじゃどうしたらいいのか分からなくて、何度かメールしたんだけど返事がないし、それで」
『悪いけど、時間がなくて! ぼくの話だけ聞いて! 片倉さんに、携帯電話もお財布も取り上げられちゃって、しかも軟禁されちゃって、連絡できなかったんだ! でも、さくらにどうしても連絡したくて困っていたら、コートの内側のポケットに、十円玉が一枚だけ入っているのを見つけて。仕事の合間に、こっそり抜け出して、公衆電話を探したんだ! 遅くなってごめんね!』
こんな時間だけれど、まだ仕事中らしい。
なのに、監視されている中、十円玉をたった一枚を握り締め、公衆電話を必死で探すアイドルモデルの姿を想像したら、いとおしくて、切なくなった。
しかも、さくらの電話番号を覚えていてくれたことが、かなりうれしい。
『ねえ聞いてる、さくら?』
「も、もちろんだよ!」
『これから、たくさんのことに巻き込まれると思う。だけど、ぼくは一生、さくらを離さない。死ぬときだって一緒がいい。死んで生まれ変わっても、絶対絶ーっ対、さくらと巡り逢いたい! 必ず迎えに行くから、他人のものにならないで』
「……うん。私も、類くんと同じ気持ちだよ」
『ありがとう! よかった。さっすが、ぼくのさくらだね。そっちに帰ったら、ごほうびをたくさんしてあげるから、いい子で待っていて。事務所の社長が激怒で、ぼくはとってもまずーい状態だから、婚約のこと、他人には内緒だよ。なにか聞かれても、分からないって言ってね』
「了解です」
『あ、やばい! 社長に見つかった! こっちに走って来る! じゃあ、かわいいかわいい、ぼくだけのさくら、なるべく早めに帰るよ。だいすき。あいしてる!』
「私も。私も、類くんがだいすき!」
『うれしい。ぼくも、だいす……わあ、社長っ! 切らないで、やめて、うわっ』
そこまでで、電話は切れてしまった。ツーツー音が、むなしくこだまする。
「類くん、だいじょうぶかな」
社長……さくらは会ったことないけれど、怖い人っぽい。事務所の稼ぎ頭のタレントである類が暴走したら、損害を受ける人は十人二十人どころではない。被害額もケタ違いになる。ファンも傷つく。
この時分は、『なんとか砲』などもある。人は、他人の悪い噂がとにかく大好物だ。
だから、さくらは類を支えなければならない。
いつも、笑顔でいたい。
でも。
今日、さくらは類の覚悟を見た気がした。
寸分の照れもなく、まじめに素直に結婚を語った類の決意を。
おそらく、多くの人に動揺を与えたと思う。
けれど、さくらの思いはただひとつ。
類くんと、生きてゆく。
彼が帰ってきたら、最初に言うことばは決まっている。
玄関の鍵が開いたら、急いで迎えよう。
「おかえり、類くん。待っていたよ」
……同じ 鍵で 待っている。
(end)
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