第13話 約束
「やあ」
それからしばらくして、彼は宮に入ってきた。
ユーディアはほっと息を吐く。その様子を見て、レイヴァンは小さく首を傾げた。
「どうかした?」
ユーディアは椅子から立ち上がると、小走りで彼の傍に寄った。
彼の近くにいるとほっとするから。
「あまりにいつもと同じで安心したの」
そう言うと、彼は苦笑する。
「ああ、まあ、マロウも過剰なほどに張り切っていたからね」
ユーディアは慌てて小声で言った。
「別室で控えているわよ」
「大丈夫、何が聞こえても、彼女は秘密は守ってくれる」
そういう問題ではないのだが。けれど、こういう環境にも徐々に慣れていく必要があるのだろう。
「ところでユーディア。約束を果たして欲しいのだけれど」
「約束?」
何か約束をしただろうか。そしてそれを反故にしてしまっているのだろうか。
ユーディアが首を傾げていると、レイヴァンは口の端を上げて言った。
「新しい宮に移ったら、口づけを」
「あ」
そうか。そんなことを言っていた。
「え、ええと、あの……」
「今度は、拒否する理由はないよね」
「それはそうだけど」
だからといって、はいそうですか、という気分になるものでもない。
それが二人の関係を、決定的に変えてしまう行為だということが、恥ずかしいし怖い。
レイヴァンはユーディアの前に一歩歩み出て、そしてその手をとった。途端、身体がびくりと震えて、それがまた恥ずかしかった。
頬に、手が添えられる。その温もりに、身体の緊張が解けていく気がする。
優しい手。変わらない。彼はいつだって、彼のままなのだ。
ユーディアはぎゅっと目を閉じた。すぐ傍で、彼が動く気配がする。吐息が唇にかかった、と思った次の瞬間に、それは重ねられた。
柔らかくてしっとりとした感触。頭の中がぼうっとしてきて、夢見心地ってこういうことなのかしら、と思う。
唇が離れたとき、薄く目を開けるとすぐそばに彼の顔があって、気恥ずかしくて俯く。
「……なんだか、ずるいわ」
「ずるい? どうして」
「私は初めてで、緊張しっぱなしでどうしていいか分からないのに、そっちは堂々としているんだもの」
「私だって緊張しているよ。ずいぶん待たされたしね」
身体を離すとそう言って、両の手の平を天に向けて、肩をすくめてみせる。
ユーディアはその言葉に唇を尖らせる。
「やっぱり、ずるい」
「そう? まあその批判は、甘んじて受け入れることにするよ」
そう言ってから、ユーディアの銀髪の上から頭に軽く口づけた。
「……なんだかやっぱり、すっごく慣れているわよね」
不満を口にすると、彼はユーディアの顔を覗きこんできた。
「不慣れな男のほうがよかった?」
そう言われて、少し考える。そして口を開いた。
「どちらでもいいわ。過去には目をつぶってあげる」
「それはよかった」
レイヴァンは笑いながらそう言うと、ユーディアの手を引いて、寝所のほうにどんどん歩いていく。
「えっと、あのっ」
「ずいぶん待たされたと言ったよ。もう待たない」
「べっ、別に、拒否しているわけじゃ」
何もかもが急激に変わりすぎて、なかなか追いつかない。
けれどきっと、その道筋を、彼がこうして引っ張っていってくれるつもりなのだろう。
でもそれもどうかと思う。
「待って」
「なに?」
「私は妃になるのだもの。私は私の意志で歩かなきゃ」
そう言って、軽く手を振り解いて、先を歩いた。
寝所の前に着くと、扉を開いて先に入る。
そして振り向くと、言った。
「どうぞ、入っていらして」
ユーディアのその言葉を聞いて、レイヴァンは苦笑した。
「頼もしいね」
「そうよ、私は『強い子』なの。あなたはそういう女でいいの?」
「もちろん」
言って、ユーディアの開けた扉から、中に入る。
「私は君が好きだよ。もう言ったと思うけど」
ユーディアはユーディアのままでいてもいい、そう言われた気がした。
「私もあなたが好きだわ」
開け放たれた扉を閉める。
そして、二度目の口づけを。
◇
今までとは全く違う生活に慣れなければならなかったり、言葉遣いなどを改めなければならなかったり、日々めまぐるしくはあるが、穏やかな時間が続いていた。
王国セクヌアウスの歴史についての本に目を通していたときだ。
「此度はおめでとうございます」
ふいに声がして顔を上げる。
「シアンさま!」
アガットに案内されて部屋にやってきたシアンが、入り口のところに立っていた。
立ち上がり、そちらに駆け寄る。
「お久しぶりだわ」
「ご無沙汰しております、ユーディア妃殿下。それから私には敬称は必要ありません」
「あ、そうだったわ。なかなか慣れなくて」
口元を押さえてから、そして小さく咳払いをすると、言った。
「来て下さって嬉しいわ、シアン」
そう呼ぶと、シアンはにっこりと微笑んだ。
「今日は黒じゃないのね?」
シアンの今日の衣装は、薄い青色の衣装だった。初めて会ったときのような不気味さはなく、年相応の明るさがある。
「ええ、趣味が変わりましたの」
「その方が似合っているわ。とても素敵よ」
「お褒めに預かり、光栄です」
「立ち話もなんだわ、入って!」
部屋の中に促すと、では、と入ってきた。二人で向かい合うようにテーブルに腰掛ける。
アガットがお茶を用意して、シアンの座る椅子の前に置いた。
「歴史の本を?」
机上に伏せられた本に目を落として、シアンが問うてきた。
「そうなの。私、何も知らないから。簡単なことからでも理解しておこうと思って」
「それは良いことです」
「でも歴史って言っても、なんだか童話みたい。神様が出てきて、戒めるように天災が起きたり。他の本も読んでみなくちゃ」
赤毛の民族がこの地を蹂躙しようとしたことも書いてあった。
戦って勝ったセクヌアウスは、神にこの国と神の力を与えられた。
その話は歴史と呼べるのか、少し首を傾げてしまう。
シアンはユーディアの話に、口の端を上げただけだった。
アガットが淹れてくれたお茶に口をつけ、一息ついてから、シアンは言った。
「私、妃殿下が『呼ばれた』こと、合点がいきました」
実はこれを言われると、少々複雑な気持ちになる。まるで二人の出会いが、何者かの手によって作為的に行われたもののような気がしてくるからだ。
だがいちいちそれに口を出してはきりがないし、反論するようなことではない。私たちは、ただ、純粋に惹かれあっただけなのに、と心の中で思うだけだ。
それからしばらく世間話などをしていたが、シアンがふと、黙り込んだ。そして羨望するような、遠い未来を見るような、そんな瞳をして、ユーディアを見つめる。
「どうかした?」
「私、本当に……本当に楽しみです」
その声に、涙が滲み始める。
「陛下と妃殿下の御子を、この手で取り上げるのが、心から楽しみなのです」
「そうね、もし身篭ったなら、あなたが取り上げるのだものね」
「ああ、いけない。ご懐妊を急かすようなことを。失礼いたしました」
慌てて口元を手で隠す。苦笑しながらそれを眺めた。
「いいわよ。気にしないで」
誰もが御子の誕生を心待ちにしている。つい言ってしまう気持ちは分からないでもない。
「寛大なお言葉、感謝いたします」
「そんなにかしこまることもないけれど」
ユーディアがそう言うと、シアンはまた頭を下げた。
「それで妃殿下。実は私、不躾とは知りながら、これだけは言いたくて参上してしまいました」
「なに?」
「妃殿下がセクヌアウスに来てくださったこと、心より感謝申し上げます」
「そんな、大げさな」
「大げさではないのです」
そう言うと、シアンは立ち上がった。
「あまり長居してもいけません。私はこれで。どうかお大事になさってください」
そして深く一礼して、部屋を出て行く。
どうも調子が狂う。マロウにしろ、シアンにしろ、この国の人は、物事を大げさに捉えてしまうものなのだろうか。
けれども、待望の御子を産む女が現れたのだ。それも仕方ないことなのかな、と思った。
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