第6話 海の宮

 吟遊詩人は詠う。

 その国の王は恋をする。初めての恋、純粋な恋、盲目の恋。

 銀の髪の、女神の名を持つ少女は、国王の心に棲みついた。

 それは、許されない恋。決して誰にも知られてはならない恋だった。


          ◇


 ユーディアは海の宮、と呼ばれている宮の庭に入った。

 ここは先日掃除が終わったばかりだから、きっと誰も入ってこない。


 一人になりたかった。なんだか少し、疲れてしまった。

 あの二人とのやりとりなんて、大したことはない。大したことはないはずなのだ。


 でもケープの港町から逃げ出してここまで、一息つくこともなく走り続けてきたような、そんな気がしている。

 傍には、父も母もいない。ユーディアは一人きりだ。

 本当に気が許せて、甘えられる、そんな人が誰もいないことは、少し、つらい。


 慣れない環境に、あからさまな悪意。だから全てを投げ出してみたくなってしまう。

 疲れているのだわ。

 笑わなきゃ。


 海の宮の庭を歩き、裏手にある小川の傍に、しゃがみこんだ。

 ユーディアは小川を覗き込む。穏やかな川のせせらぎは、少々揺らがせてはいるが、ユーディアの表情を映し出している。


「浮かない顔」


 そうつぶやくと、口の端を上げた。

 笑顔の練習だ。もっと綺麗に。もっと鮮やかに。

 笑顔は心も楽しくさせてくれるものだ。


「何をしているんだ?」


 急に話しかけられて、身体が震えた。覗き込んでいた体勢が崩れて、小川に落ちそうになる。


「きゃっ!」

「危ない」


 咄嗟に、声の主に二の腕を掴まれた。


「び……びっくりした」


 急に声を掛けられたこと、小川に落ちそうになったこと、腕を掴まれたこと、全部だ。

 声の主は、腕を掴んだまま、ユーディアを立ち上がらせた。


「すまない、驚かせたな」


 なんとか体勢を整え、振り返る。それと同時に掴んだ腕を離された。

 男性だ。年の頃は二十歳を過ぎたくらいか。黒髪に、黒い瞳。身長は見上げる程度に高いが、線が細いので大きいという印象は受けない。


「驚いたわ。でもありがとう、助かったわ」

「どういたしまして」


 そう言って、青年は笑った。

 端正な顔立ちをしている。大きな瞳に睫が長くて、柔らかい印象の人だ。


「ところで」


 青年は言った。


「小川になにかいるのか?」


 そう言って、ユーディアの肩越しに小川を覗き込んでいる。


「さあ?」

「さあ、って」

「別に、中に何かいたから覗き込んだわけではないもの」

「じゃあ何を?」


 そう言われて返事に窮した。


「……笑わない?」

「笑わない」


 至極真面目な顔をして頷いたから、ユーディアは素直に答えた。


「笑顔の練習をしていたのよ」

「笑顔の?」


 青年は笑わない代わりに、眉をひそめた。


「笑顔って、練習するもの?」


 そんな答えが返ってくるのは予想していた。大抵は笑うか、こんな風に、訳が分からない、といった反応を示される。

 だからユーディアはいつも少しむきになってしまう。


「そうよ。練習すると、綺麗に笑えるようになるの。母さまが言っていたわ」

「じゃあ」


 青年は、少し考えてから微笑んで言った。


「君の母上は、笑顔が素敵な人だったというわけだね」


 ユーディアは一瞬、言葉を失くした。そんな答えを返してくれた人は初めてだったのだ。


「そう! そうなの!」


 母は時々、ベッドの上で、手の平に収まるくらいの小さな手鏡を持って笑っていた。それが母の形見だ。


「笑顔の練習をしていると、笑うべきときに自然に綺麗に笑えるものよ」


 幼いユーディアはベッドによじ登り、母と一緒にその手鏡を覗き込んだものだ。

 母は、とても笑顔の美しい人だった。


「母さまは、とても綺麗に笑う人だったの」


 胸を張ってそう言った。


「だった? 亡くなられたのか?」

「ええ、小さい頃に」

「そうか」


 それについて、青年は何も言わなかった。親を失くした人間などたくさんいるものだし、下手に慰められても困るし、ユーディアにとってはちょうどよい反応だった。


 だが会話はそこで止まってしまった。小川の傍に見知らぬ二人で立ち尽くしている図というのも奇妙な感じだ。

 青年もそう思ったのか、少し考えた様子を見せて、口を開いた。


「君は、新しく入ってきたという侍女なんだよね?」

「そうよ。あなたは?」

「私は、前々からここにいるよ」


 訊きたいことはそれではなかったのだが、あまりに自然に答えられたために、それ以上は訊けなくなってしまった。


 どうしてこの人はここにいるのだろう。

 以前アガットが、今は妃がいないから男性の警備兵がいる、とは言っていた。確かにたまに見かけることはある。

 けれど、妃たちが住まうはずの宮の奥にまで入り込んで来たのは見たことがない。

 ただ、悪い人には見えないので、忍び込んだ悪漢、というわけではなさそうだが。


「仕事はいいのか? 休憩時間?」

「ええ、そう。次の鐘が鳴ったら戻らないといけないけれど」

「では少し、話をしないか?」


 青年の誘いの言葉には答えなかった。これ以上話をするというのなら、やはりきちんと訊いておくべきだろう。


「あなた、どこの人?」

「えっ?」

「どうしてここにいるの?」

「どうしてと言われても。ここは私の仕事場だからね」


 と青年は肩をすくめた。

 ではやはり、警備兵なのだろう。見れば腰には長剣を佩いている。

 もしかしたらユーディア同様、掃除が終わったばかりの海の宮なら人が来ないと思ってさぼっているのかもしれない。


 なんだか、なよなよして頼りなさげだけど大丈夫なのかしら、と余計な心配をしてしまう。

 いや、さきほど助けてもらったときには、案外力を感じた。こう見えて、結構強いのかもしれない。


「というわけで、問題はないわけだ」

「そう、ね」

「座ろう」


 ふいに手首を掴まれて、歩き出す。

 だがその手は不快ではなかった。柔らかく握っているので痛くもないし強引さも感じない。

 優しい手だ、と思った。

 少し歩いたところに、木造りの長椅子が設置されていた。


「ここは私のお気に入りなんだ。海がよく見える」


 言いながら青年が座った。ユーディアもその横に座る。

 そして正面の景色を二人して見つめた。


「本当、海が見えるわ。気付かなかった。だから海の宮って呼ばれているのね」

「そうだよ。他の宮からは見えないんだ。いい景色だろう?」


 この国は島国で、全ての宮は山の中腹にあるのだから、どの宮からでも見えそうなものなのだが、小さな山々が邪魔したり、鬱蒼と立ちはだかる森が邪魔したりして、案外見えないのだそうだ。

 ユーディアは、はた、と気付き、立ち上がった。


「どうかした?」


 急に立ち上がったので驚いたのか、青年は少し身を引いて、ユーディアを見上げている。


「見えるわ!」

「うん、海が見えるよ。言っただろう?」

「違う、ケープの港町よ!」


 海の向こう、うっすらと、島影が見えた。あの山の形、間違いない、ケープだ。

 感動で口もきけなくなっているユーディアを見て、青年は言った。


「ああ、ケープから来たという話だったね。そうか、帰りたい?」

「ううん、それはいいの。ただ、丘の上に父さまと母さまのお墓があるから」

「ああ、そうなのか」


 合点がいった、という風に、青年は頷く。


「晴れた日は見られるんじゃないかと聞いていたのよ。本当に見られるわ」

「それは良かった。この場所を紹介した甲斐もあったよ」


 そう言って、笑う。

 突っ立ったままの自分が急に申し訳なくなって、ユーディアはすとんと腰を下ろした。


「つい興奮しちゃった。ごめんなさい」

「大丈夫。気にすることじゃない」


 青年は微笑んだ。ユーディアはその笑顔を向けられることが恥ずかしくなって俯く。

 だが青年はユーディアのそんな様子には気付かないようだ。


「君の名前は? 私はレイヴァンという」

「私はユーディアよ」

「ユーディア。風の女神の名前だ」

「それ他の人にも言われたけれど、私が住んでいたほとんどの地域では、風の女神さまはレイティアという名前だから、たぶん由来は違うわね」

「ああ、そうか。君は『呼ばれた』人だからね」


 そう言われてため息が漏れた。


「どうかした?」

「私、よく『呼ばれた』って言われるのだけれど、単純に偶然だと思うのよ」

「どうして?」

「だって、別に特技とかないし。国のためになる人間だとか言われても、しっくりこないわ。それに、そんなに期待されても困る」


 どうしてだろう。初めて会った人に、こんな愚痴を言ってしまったのは。他の誰に言われても、多少釈然としない思いを抱いても、反論などせずに聞き流していた方が楽なのだと思い始めていたのに。

 なんだか、喋りやすかったのだ。


「『呼ばれた』なんて、信じていない人もいるようだけど」


 少なくとも、エーリカとベイジュは信じていないようだ。


「いや、今まで『呼ばれた』人間は、なにかしら役には立っているよ」


 やけにきっぱりと言い切る。では彼は、今までにやってきた『呼ばれた』人間を知っているのかもしれない。


「そうなの……。じゃあ私が初めての役に立たない人間かもしれないわ」

「『呼ばれた』人にも、いろいろだよ」

「いろいろ?」

「じゃあ、君の場合、今、私の話し相手になるためにやってきたのかもしれない」


 それを聞いて、笑いが漏れた。


「それだけのために?」

「それだけ、じゃない。私にとっては、話し相手がいることはとても重要なことだよ」


 至って真面目な顔でそう答えてくる。


「変な人ね」

「そうかな?」


 ユーディアの言葉に対して返してくることが、いちいち他の人と少し違う。でもそれが、なんだかしっくりくるのだ。

 そのとき、鐘が鳴った。


「帰らなきゃ」

「ユーディア」


 慌てて立ち上がった背中に呼びかけてくる。


「また、話し相手になってもらえる? いつでも、この場所で」

「ええ、またね!」


 ユーディアは手を振って、その場を駆け出した。

 なんだか身も心も軽くなった気分だった。

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