数学物理

 2限は授業がないから、ノアと一緒にシェル先生の根城を訪ねた。

「兄様、お久しぶりです」

 こくり。

「元気にしておりますよ。兄様が来られて驚きました」

「……」

「佳奈子の家を拠点になさったのですか?」

 首を傾げてから、こくり。

「そうでしたか。佳奈子をよろしくお願いします」

「目の前で密約を交わさないで」

 シェル先生はお兄さんと会えたことに、そこはかとなくうきうきしているようだった。あたしのツッコミなんぞ聞いちゃいない。

 お兄さんであるノアは、先生の肩をぽんと撫でたりしている。

「あなたが兄様を家に泊めたのが不思議です」

「なんか意地になっちゃって」

 話しかけ続けて嫌々そうながら対応してくれるようになったノアを見て、ユニさんはたいそう喜び、『三日後に迎えにくる』と帰った……んだけど。

「置いていかれた金塊が家にあるのよね。あれってどうしたらいいのかしら?」

 支度金だとかなんとか、息子が世話になるからって食費光熱費に置いて行ったんだとは思う。……思うけど。

「……。父がすみません。俺の方で適した額に直してあなたの口座に入れます。金塊は回収してお父さんに戻しますのでそのままで」

「え……無理やり引き取ったみたいになっちゃったし、先生がそこまでしなくても回収するだけでもありがたい……」

「頷いてください」

「……なら、お願いします」

 椅子に座るノアは無表情ながら、弟に頭を下げる。

「俺も兄様がこうしていてくださるだけで嬉しいのです。何かさせてください」

 こくり。

 先生も頷き返し、それからあたしに向き直った。

「お父さんとお母さんがすごく喜んでいて、俺も幸せな気持ちになりました。……兄をよろしくお願いします」

「……うん」



 次に、数学科のお隣、物理学科にお邪魔する。

「佳奈子!」

 今日も翰川先生は可愛い。

 ノアを抱きかかえたまま手を振り返す。この子、抱っこしないと移動してくれないんだもの。

「その子がシェルのお兄ちゃんだな」

「聞いてたのね」

「昨日、珍しくシェルから超長文メールが来ていてな。ユニからも来ていたのでさすがに読むの疲れた」

「…………」

 似た者親子ね、あの二人。

 ノアを椅子に座らせ、あたしは翰川先生を見つめられる位置に移動する。

「はじめまして。僕は翰川ひぞれです」

「……」

「ノアというのか。こちらこそよろし、」

「ねえなんで話通じてるのどうやってるの? 隠しコマンドとかあるの?」

 いい加減に泣きそうだった。

「落ち着いてくれ、佳奈子。現実には隠しコマンドなどない。きちんとからくりがある」

 翰川先生はあたしを宥め、ココアを持たせて椅子に押し込む。

「ノアのアーカイブはオーダーだ。全てのアーカイブに支配権を持つ強力なアーカイブ。ノアはそれをテレパシーのごときコミュニケーション手段に昇華している」

「……」

 ノアのほっぺをつつく。無反応っぽいけど微妙に身をよじった気がする。

「とはいえ、波長を合わせて音声を伝えねば、超強力な命令アーカイブを頭にねじ込むことになってしまう。僕やシェルはそういうのを受け止める調整が得意だし、ユニはオーダーの巧者なので上手い」

「……」

「だが、キミはまだそこまで器用にはできないし、座敷童なので繊細。ノアは必死で調整中だと思うぞ」

「そうなの? ノア、あたしと会話してくれる?」

 彼はスケッチブックを取り出し、書きつけた文をあたしに見せつける。

『言葉足らずであったことは謝罪する。だが、しつこい』

「わーん、ノアー……!」

 小さな体躯を抱きしめると、身をよじられる。でも関係ないもん。

「ふふ。さっそく仲良しだな」

『弟の影響が強くないか、ひぞれ』

 抱きしめられたままで文字が書けるノア、すごい。

「ほっぺもちもち……」

 シェル先生の幼少期アルバムを見てからというもの、シェル先生に似た子どもが愛しい。

「うむうむ。やはり、シェルのことが好きになれば他の悪竜も好きになるのは既定路線なのだな!」

『嬉しくない』

「彼女なりにあなたに寄り添っているのだと思うが」

「……」

 ノアはため息をついてあたしを撫でる。優しい。

 喋ろうとしないし表情も変えないけど、この子に感情がないわけじゃなくて本当に良かった。

「佳奈子。今日はこれ以降、授業はあるのか?」

「ないから連れてきたの。シェル先生なら流してくれそうだったから」

「はは、たくましい。……良ければお昼ご飯をともに食べたい」

「喜んで。ノアもいい?」

「……」

 こくり。

「少し待っててくれ」

 翰川先生は嬉しそうにぱたぱたと駆けて、自分の教員室に入っていく。

 ノアがスケッチブックを掲げる。

『彼女は足が悪いのか?』

「見るだけでわかっちゃうのね。……両足義足よ」

 耳元で教えると、彼は首を傾げてから頷いた。

 今度は掲げることはせず、共有する角度であたしに言葉を見せる。

『良い足だ。つくった者、使う者の壮絶な苦労と努力が滲み出ている』

「……直接言ってあげてよ。きっと喜ぶから」

『わかった』

 海色髪が出てきたところを仕草で呼びとめ、あたしに見せていたページをそのまま見せた。

 翰川先生は驚き、そして嬉しそうに笑った。

「ありがとう。光栄です」

『こちらこそ』

 とてとてとやってきた先生は満面の笑みだ。

「いざ利用せん、食堂デリバリーサービス! 好きなメニューを選んで押してくれ」

 タブレットPCを差し出す翰川先生。

 画面には写真付きメニュー表。

「……え。デリバリーなんてやってるの!?」

 学食だというのにそんなサービスして採算取れるんだろうか。

「去年の冬から試運転して、教員室に転移先用の位置座標マーカーを置いてあるのだ」

「あ……そっか」

 座標が教員室に固定されてるなら、なんとかなりそうね。

「生徒が利用するには誰か教員に頼む必要があるが、そもそもこれを利用するのは切羽詰まった研究生ばかりなので問題ない。健康的かつ時間と心に余裕のある生徒はぜひ直に食堂に行ってくれ」

 本気で便利なシステムだ。

「キミもノア連れだから、今回は利用を許可しちゃうぞ」

「ありがとう。オススメってある?」

「食堂ごと初利用ならチャーハンかオムライスかな」

「じゃあチャーハンで……ノアは何食べる?」

「……」

 無言でオムライスを押した。ハーフサイズを選択。

「サイズ選択できるんだ……」

「ハーフは100円引き、100円追加で大盛りも可能だぞ」

「あ、じゃあチャーハン大盛りでお願いします」

「うむ。了解した」

 注文を確定する。

「混んでいない時間帯だから、20分くらいで届くと思う」

「楽しみだわ」

「……」

 ノアは身じろぎひとつせず虚空を見ている。意地で連れてきたけど、さすがに退屈よね。

 今更ながら自分の勢いあるアホっぷりに思い当たる。

「調理過程を見ることも可能だぞ」

 タブレットを渡されたノアは、オムライスを作る誰かさんの手元の映像をじっと見始めた。ありがとう翰川先生。

「……ノア。会いたい人とかこっちの世界にいないの?」

「……」

 スケッチブックを出そうとして止める手を掴む。

「いるのよね。……あたしじゃなくてユニさんとか、ガーベラさんとか……言いやすい人に伝えてよ」

 ノアはなぜか翰川先生を見上げている。

「佳奈子。彼は、おそらく……」

「……」

「いや、すまない。なんでもない」

 何か言いかけては、ノアの顔を見て口をつぐむ。

 ユニさんも昨日は同じようなことをしていた。

「…………」

 あたしってそんなに信用ないのかな。

 自業自得な面もあるとは思うけど……

 落ち込んでいると、ノアはスケッチブックにさらさらと文を書き出す。

『オウキ殿にお会いしたい』

「……オウキ殿……」

 敬称つきとは驚き。

「オウキか。彼は入院している。五日後に退院だそうだが」

『落ち着かないだろうから、今回は遠慮しよう』

「息子さん娘さんなら東京にいるぞ」

 少し悩んでから、ノアが頷く。

『会ってみたい』

「うむ。アポを取っておこう」

「先生ありがとう……」

「これくらい構わないよ」

『ありがとう』

「どういたしまして」

 その直後に届いた料理は絶品だった。



 大学からリーネアさんの家に向かうため、ノアを抱っこしてバスに乗る。

「ノア。……無理やり連れてきてごめんね」

『構わない。乗り気でなかったのは確かだが、お陰で弟と話せたし、ひぞれとも出会えた』

「……良かった」

『ただ、もう明日には帰る』

 チャットの内容は素っ気ないものだ。

『父は三日後と言っていたが、お前にも迷惑だろう』

「……三日くらい、全然迷惑なんかじゃないわよ」

 彼のきょうだいはこちらの世界で暮らす人も多い。なら、他にも会いたい人がいておかしくないでしょう。

 それに、あたしはまだ彼に幸運をあげられてない。ユニさんからの頼みを引き受けたからには、ノアに重たい口を割って笑ってほしいと思う。

「……」

 ノアはそれきりスマホの画面を落とし、あたしの膝上でじっとしていた。

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