叶うならただそこに
kk_h
第1話: 出羽桜
甘い毒が落ちていく。アルコールが喉を焼く。奇妙な熱が、食道の位置をなぞって消える。かすかな香りが、鼻から抜ける。十年分の熟成が、十秒も掛からずに消化されていく。視野が端から、やんわりと砕けていく。
百円均一で買ったグラスを傾けて、牧田は酒を飲んでいた。くたびれたクッションを尻に引いて、今日と明日の境にある夜の中で。
貰い物の酒がどれだけ高価なものなのか、牧田には分からなかった。ラベルに貼られたゴシック体の説明文は、既に十六度のアルコールを受容した脳に響かない。味をどれだけ語られても、香りをどれだけ喩えられても、牧田の頭の中にあるのは、甘いか苦いか、飲みやすいか飲みづらいかの尺度だけ。もったいないなと、思う。良いものに触れても、分からないのだ。味だけではない。香りも、色も。どれだけ複雑な何かを含んでいても、牧田の五感は、それを受け取るほど鋭敏ではない。好きなものであることは間違いないはずなのに、それを語れる言葉も、受け取る感覚器も、きっと資格もないのだ。
酒が落ちていく。口の端から溢れた分を、左の甲で拭ってみる。ぬるい温度に触れる。肌が照る。しばらくすればベタつきに変わるとわかっていて、牧田はそれをどうにかしようとは思わなかった。
良いものを良いと、悪いものを悪いと評する力は、牧田にはなかった。頭の中にある言葉は、はいといいえの延長と、何かをやんわりと断るだけに使う文字列だけ。できるのは、誰かの表現に相乗りするだけ。肯定の濃淡が、せめての意思表示。
出羽桜の瓶は、いつの間にか足元に転がっていた。軽く足でつついてみても、中身の有無は分からない。瓶の厚さか、酒の力か、そういうものが牧田の感覚をぼやかしていくのだ。明日の面倒さも、昨日の失敗も、瓶の温度も、後悔も、全てが十六度の力に飲まれて消える。酒の味を語る言葉を見つけられないまま、寝て起きて、きっと酒の味も忘れていくのだと思う。舌先に、薄い苦味が広がる。きっと言葉にできない、忘れてしまう苦味だ。どうしようもなさに目を閉じる。グラスの代わりに、この前まで隣にいた人の顔が見えた。ちょうど酒をもらったに、隣で笑っていた時の顔が、そのまま。
私の名前が入ってる。瓶を抱えて、森里はそう言っていた。出羽桜。その三文字目を親しげに指先に撫でながら、嬉しそうに笑っていた。缶ビール二つ分の液体が入った瓶の重さは大したことはないが、森里の体格には十分に不釣り合いだった。牧田の胸の少し下くらいに、森里の頭はあった。あったはずだった。
森里。
吐いた言葉は、甘い毒と同じ香りがした。小さな身体が鉄の塊にはねられたと知ってから、半年以上は経っていた。牧田がそれを知ったのは、森里の命に区切りがついて、一日経ってから。森里の命が消えて、森里の存在が、本人の思想にかすりもしない行事へと組み込まれる日が決まって。その連絡は、連絡網なんて懐かしい道具の上を滑って、牧田の元に落ちてきた。森里とは、二日に一度は連絡をとって、一週間に一度は顔を合わせていたはずなのに、森里に起きた決定的な出来事は、埃だらけの紙切れに書かれた順に、疎遠になった同級生の声で。森里と一番親しかったよねと評されたのに、森里に起きたことは、森里から直接聞くことはなかった。ああ、うん、と、曖昧な肯定をしたことしか、覚えてはいない。
森里は、鉄塊と交差した。森里の好きな曲に乗せて言えば、そういうことになる。青年と走る鉄塊が交差して、軽快なリズムに、森里は乗った。一足先に、この世を去った。今日は先に寝るねと、それくらいの軽さでもって、二度と会えなくなった。
森里。
今度一緒に飲もうねと笑ったはずの酒は、全て牧田の胃に落ちた。一滴残らず、牧田の胃の中に。桜の文字は、そこにある。森里の声は、聞こえない。森里と牧田の関係は、仲の良い友人だ。周りにはそう思われていて、それでもいいよと森里は笑っていた。そっちの方が面倒なことがすくないでしょうと。そうなんだろうかと、牧田は思う。森里の家族は、森里の親友は、森里が押し込められた箱を見てくずおれていた。言い尽くせないほどの悲しみにくれて、絶望に身を置いていた。
あちら側に行かなくてよかったでしょう。あなたは人付き合いが苦手だから。森里がいいそうな言葉が、頭を滑る。そうなんだろう。そうでしょう。話すのが苦手で、はいかいいえしか言えないんだからと。二人の関係を明かせば、きっと二人だけではいられない。そうやって森里が遠ざけてくれたから、森里がいなくなっても、森里と仲の良かった人の一人で収まって。きっと。
牧田にとって森里は。森里にとって牧田は。
出羽桜が、壁の方へと転がる。誰にも言えない関係が、言えないまま終わる。取り乱して泣く権利は、森里はくれなかった。きっとその方がいいと思って、そのまま消えた。牧田にできるのは、その森里の判断を尊重することだけ。
森里は、もういない。
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