第508話 お隣さんかと思いきや違う人

 といっても、向こうは私のことをいかほど認識できているんだろう? 異世界に飛ばされて過ごしているくらいだから、元の世界で自身の肉体がどうなっていたかについて、相当突拍子もない事態でも理解はするはず。つまり、いない間、何者かが岸先生として活動していたことくらいはすぐに飲み込むだろう。その何者かが、名前が同じ読みの貴志道郎である、なんていう詳細な情報となるとどうか。そもそも詳細情報は伝えられないのかもしれない。私が岸先生でいた間の経験や記憶を、岸先生が受け継ぐだけで、辻褄が合って問題なく再びこの世界で暮らしていけるのだから。

 う~ん、分からん。

 ま、考えても今の段階で正解が分かるはずもなし。次の機会に、色々と神内さんに問い質してみるかな。現状では優先順位が低いけれども。


 夕方になり、ぼちぼち訪ねてみてもいい頃合いだと思った矢先、ドアがノックされた。呼び鈴のボタンを押さずにノックするのはお隣さんぐらいだ。が、いつもと叩くリズムが違っているような。

 とりあえず「はい」と返事して、土間へ向かう。そうする間に、訪問者の声が届いた。

「先生、いる? 天瀬です」

 名乗らなくてもすぐに分かる声だった。あれ? 何で呼び鈴を押さないんだ? 物凄く重たい荷物を持ってきていて、しかもそいつは地べたに置く訳にいかない物とかか? まさかねえ。

「天瀬さんか。どうして――」

 どうして君の方から来たのか、どうして呼び鈴を使わないのか、という二つの疑問が浮かんで、どちらを先にしようか決めない内にしゃべり出してしまった。おかげで妙な間ができた。とにもかくにもドアを開けよう。

「あ、先生。掃除しなくちゃだめだよ」

「ん?」

 いきなりだな。訪問時に最初に発する台詞じゃないぞ。

「ほら。呼び鈴のボタン、汚れているわ」

 彼女が指差す先を見る。ちょうど西日が当たって見えづらく、思わずしかめ面になった。部屋から完全に出て、廊下に立ち、改めてボタンを見つめる。

「何だこれ」

 天瀬の言う通り、呼び鈴は汚れていた。何者かに汚されたと表現する方が正確だろう。黒いタールかパテのような物が、ぺたっと塗りつけられている感じだ。

「それでノックだったのか」

「そう、こんなの触れないよー」

 早く拭き取った方がいいわ先生と促された。しかし、すぐには動けない私。

 神内さんからのメッセージを知って間がない私は、この呼び鈴を汚したのも関連があるのではないかと疑ったのだ。だとしたら、大げさかもしれないが、警察を呼んで指紋なりDNAなり、あるいは成分を調べてもらうべきか? DNA鑑定って二〇〇四年の頃はどの程度進んでいたのか知らないけど。

「あ、そういえばもしかして」

 ふと思い付いて、天井を見上げる。アパートの外廊下、軒下に当たる箇所だ。防犯カメラが新たに設置されていないかと、淡い期待を抱いたのだ。何せ、このアパートは(他の住人にはしかとは知らされていないだろうが)犯罪の舞台になった場所だし、大家さんだか管理会社だかには伝わっているはず。多少は防犯意識が高まってもいいだろう。

 だが、天井にカメラらしき物体は見当たらない。次いで壁のあちこちにも目を凝らしたが、かすかな望みははかなく消えた。まあ、二〇〇四年の頃はこんなものか。

「岸先生? どうかした?」

「うん、ちょっとな」

 何でもないと答えるつもりだったが、天瀬にも警戒心を持ってもらうには、ここでちょっとくらいは脅かす方がいいのもしれない。言葉を選び、ゆっくりと答える。

「呼び鈴のボタンが汚れているのは、質の悪いいたずらだと思ったんだが……他の人のところを見ると、よそはやられていないみたいだなと分かって。ということは……あまり考えたくないが、先生個人に対する恨みかなと。ああ、ごめん、天瀬さんに話しても仕方がないことだったね」

「……もしかして、私のことと関係あるんじゃあ……」

 不意に深刻そうな目付きになり、若干俯いて呟く天瀬。警戒心を呼び起こしてやろうとは思ったけれども、ここまで効果てきめんなのはちょっと焦る。加減が難しいな。怖がらせるつもりまでは毛頭ないんだが。

「天瀬さんのこととは、どういう意味で言ってるのかな」

「だから前に、先生が私を助けてくれたでしょ。そのときの犯人の知り合いか何かが仕返しに来た、なんて」

 その解釈でずばり正解。なのはいいんだけど、過度に怖がるのに咥えて、彼女自身が責任を感じてしまうのはよくない。

「ああ、あれは一件落着した、だろ? それに、刑事さんだって一応、気にしてくれているみたいで、今もやり取りがあるんだ。だから天瀬さんがそこまで気に懸けることはないよ」

 こちらの狙い通りに危機意識を持ってくれたのだから、ほどほどのところで方向をずらす。私のことよりも、天瀬が自身と家族とを心配するように持って行きたい。そんな考えから、さも、先生の住まいを刑事が見張ってくれているような物言いになった。実際のところは、稀に電話をもらって、確認される程度だ。それも渡辺の件ではなく、アパートの部屋への侵入者の件(私の内では解決済みだが警察には知らせていないので)がメインだし。

「でも」


 つづく

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