第430話 空と違った、海だった
「よし。おっと、天瀬さん、念じるのはもう少しだけ待ってくれるかな。神内さんに用があるから」
そう断ってから私は神内に話し掛けた。
「聞くまでもないと思うが、これから天瀬さんが能力を使う分は、対決に使っていい回数には含まれないよな?」
念には念を、だ。心配なこと、曖昧な点があるのなら聞いておく。あとで利用できそうなら、知らぬ振りのほっかむりもある訳だが。
「答えるまでもないと思うけど、答を聞かないと安心できないみたいね、岸先生は。――よっと」
片足立ちがさすがに疲れてきたのか、ステップを踏むような動作で左右の足を入れ替える神内。
「当然、カウントしないわよ。私のためになるんだし」
「結構だね。では、天瀬さん。頼む」
そうして天瀬が念じ始めること数分。手を足にしたときよりも随分と時間を要して、元通りになった。間違いなく自分の両手なんだけれども、心なしか少しきれいになった気がする。
「もういいよ、戻った」
浜の方に手を振ると、彼女が「つ、疲れました」と言いながら、体育座りをしてへたり込むのが分かった。
「どうやら安定してないわね。思い通りになるまでに掛かる時間が」
神内が指摘し、ほくそ笑む。
「分からないぞ。第一戦で彼女が見せた大芝居を早くも忘れたかな?」
「……なるほどね」
警戒を再び高めたか、神内の目つきが鋭さを増したような。
ま、どう受け取ろうと、かまわない。私自身、天瀬の真意を掴みかねているのだから。
体力勝負対決は、私が足場を二本、神内が足場一本を残した状況から再開された。次にサイコロを振るのは私だ。
「考えてみれば、手が足のままの方が、私には有利だった可能性もあったわね」
私の手元を見ながら、神内が嘆息した。
「どういう意味……ああ、サイコロをうまく転がすことができないと?」
「そうよ。手のように掴む動作はできたみたいだけれども、指の長さが手と足じゃ段違いでしょ。少なくとも、狙った目を出そうとしたって失敗する確率の方が圧倒的に高くなったんじゃないかしら」
「そうやってプレッシャーを掛けているつもりなのかな。元の手に戻ったんだから、失敗するはずがないだろう、と」
「ええ。そういう風に気にしてくれてるっていうだけで、多少のプレッシャーにはなっている証拠よね?」
得意げに指摘する神内だが、内心は焦りがあるに決まっている。残る足場は一本、私が6を出せばそこでフィニッシュなのだから。私はさっき、1の目を出せた。100パーセント確実とは言わないが、同じやり方で6をだそうとすれば、成功する確率はそれなりに高いはず。
「ここまであんた方神様とやり合ってきて、度胸は付いた。プレッシャーに、簡単に負けることはない」
己に言い聞かせる意味も込めて、そう呟く。それから6の面を上にしたサイコロを、水平方向に回転するように丁寧に投げた。手応えあり。目指す升の中が、きらりと光ったような気がした。
次の瞬間、小さな水しぶきが上がる。
「え、何だ?」
升からの飛沫に、思わず目を瞬かせた。そしてじきに把握した。升の中に水が、恐らく海水が溜まっているのだ。深さは一センチあるかないかといったところか。手にしたサイコロにばかり意識が向いていたためか、升の水にはまるで気付かなかった。
投じたサイコロはどうなったか? 当然、水の影響を受ける。あのサイコロが何でできているのか知らないが、水よりも圧倒的に比重が大きい材質ではないのは確かである。結果、出目は4になっていた。
「4ね。ふう、危ない危ない。助かったわ」
手のひらをうちわのようにして顔を扇ぎ、わざとらしく安堵する神内。ほくそ笑んでいるようにも見えるその表情が、今は憎らしい。
「残念ね、その投げ方も万能じゃないと分かって」
「……ひょっとすると、神内さん、仕込んだのかな?」
「仕込むって何を」
話に乗ってくるのなら、邪推をぶつけさせてもらう。今さらどうにもならないだろうけど、せめてもの鬱憤晴らしだ。
「水だよ。あなたが私の升の中に海水を入れたんじゃないか?」
「へえ? いつの間に?」
「自分で認めるのも癪だが、隙ならいくらでもあったろう。私が海面に落ちて、わーわー言っている間なんて、最適じゃないか」
「かもしれないわね。でも、あなたが落水したときに、水しぶきが激しく上がったわよ。その一部がたまたま、不幸にも升の中に飛び込んだのかもしれない」
ううっ。確かに、そう言われると自らのせいで升に海水が入った可能性は取り除くことはできない……。
「さあ、今度は私の番――」
「待った。私が使う升の中を空にしたいんだが、いいだろ?」
「それがあったか。いいわよ。ただし、升をひっくり返すのは私がやるから」
こちらの返事を待たずに、神内は手つきで升を遠隔操作すると、中の水を下に落とした。ご丁寧に升を振って、残る水も切る。
私に水を捨てさせると、よからぬ細工をされるとでも考えたか。いくら私でも、6の目を出したサイコロを黙って升に置いておくなんて芸当は、ばれたときのことを思うと綱渡りすぎてやらないさ。
つづく
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