第369話 勘違いを招かぬように
「考えに考え抜いたあとなら、ヒントを出そう。あ、それから何か必要な物があったら自分で探さずに、先生に言うんだぞ」
「うん。でも何で?」
「下手なところを探されると、問題集の正答例を見付けてしまうかもしれん」
そう言ってすぐ、“部屋をあちこち探られたくない理由、これにすればよかったじゃん!”と思ったが、後の祭り。他にもクラス全員分の評価をメモした資料もあるし、プライバシーの観点から見られちゃまずい物は結構あると、遅ればせながら気付かされる。すぐには思い至らなかったのは不覚……というか心のどこかに、天瀬を泊めることで舞い上がっている部分があるのか私は?
ともかく、風呂掃除も含めて準備を進めなくちゃいけない。私は腕まくりしながら、風呂場へ向かった。
天瀬は入浴、私は寝床を整え、今し方、夕飯の仕度に取り掛かったばかりだった。
台所で作業していると、雨風の音に混じって玄関戸がノックされているのに気が付いた。濡れていた手をタオルで拭いて、短い距離を急ぎ足で向かう。
「どちら様ですか」
相手も何か言っているのだが聞き取りづらく、誰何の声を上げる。と同時に、天瀬の靴が出しっぱなしなのが見えた。まあ、いいだろう。やましいことは何もない。
「どちら様とはたいそうな。脇田よ、隣の」
「ああ、脇田さん」
こんな荒れ模様の夜に何ごとだろう。ドアを開けると、細い隙間ができただけなのに、脇田のおばさんはするりと中に入ってきた。
「あー、凄い雨だわ。たいした用事じゃないんだけど、吹き込んでくるから、ちょっと中にいさせて」
「もちろんかまいません。それで用事とは」
「ロウソク、ある?」
「へ?」
唐突な単語に一瞬、思考の回路が切れる。が、すぐに断線は回復し、相手の言葉の意味を理解した。
「あっ、停電に備えて、ですか」
「そうそう。懐中電灯なんかもあると思うけど、念のためにね。で、お宅、ロウソク足りてるかなとふと気になったものだから」
「あー、ロウソクは……分かりません」
ロウソクはどこかで見掛けた気がしないでもないが、記憶が判然としない。思い出そうとしても、落語「死神」のことが先に来てしまう有様だ。
「じゃあ、これ、何本か上げるよ。三本でいい? マッチも付けとこうか」
脇田さんは握りしめていたロウソク三本を渡してくれた。仏壇に使うようなタイプの白い奴だ。着火道具もあるかどうか不安だったので、ありがたく頂戴しておく。コンロでロウソクに火を着けるのは面倒だもんな。
「どうも。このお返しはいつか必ず」
「そんなのいいよ。このあと本格的に浸水なんてことになったら、お互いに助け合わないといけないだろうし、よろしく頼むわね、お若い男性は特に」
「は、はあ。頑張ります」
「じゃ――あと、ちょっと気になったんだけど」
いかにも帰りそうに身体をふるも、また戻す脇田さん。真下を指差しながら話を続ける。
「ほんの五分ほど前、こちらからお風呂を使っているような音が聞こえてきたのよね。外がうるさいから分かりにくかったけど」
天瀬だ。入り始めたのが五分くらい前だったろう。
「そのあと、今度は水道、多分、台所の水道を使っているみたいな音がしたから、大丈夫か心配になって」
「大丈夫かとは、どういう意味でしょうか。僕はこの通り――」
「だから、台所の水を出しっぱなしにしたのを忘れて、お風呂に入っちゃったんじゃないかって心配になって、見に来てあげたんだよ」
そういう意味か、分かった。理屈をこねるなら、お風呂での音と台所での音の聞こえてくる順番が逆だと思うんだが、まあどちらも流しっぱなしだとまずいのは分かる。
「わざわざどうも。気を遣わせてしまい、すみません」
話がややこしくならない内に、正直に説明しようと思った。多分、脇田さんからも天瀬の小さな靴は見えただろうし。
「おや。その靴、生徒さんが来てる?」
あ、先手を打たれてしまった。脇田さんも人が悪いな。さも、今この瞬間に靴に気が付いたと言わんばかりの態度だ。
「そうなんです。クラスの副委員長の子が近所に住んでいまして」
答えながら、天瀬は脇田さんとも面識があるんじゃないかという可能性に気付く。少なくとも脇田さんが天瀬を見掛けたことがあるのは確かだ。ここでちぐはぐな説明をして、余計な疑いを招いては馬鹿馬鹿しい。ふわっとした説明に努める。
「これまでにも引っ越しの手伝いなんかに来てくれたことがあるから、脇田さんも見ているかもしれません」
「あっ、あの子。しゃきしゃきとして、感じのいい」
多分、当たりです。でも明言するのは避けて、私は頷くだけにとどめた。
「何だ、私はまたてっきり、いい人を連れてきているのかと思ったわよ」
やっぱり、そういう思考になってたのか~。靴を見た時点で、違うと判断してくれよ。これはもう誤解される恐れを完全回避すべく、全部話しておかなくてはならないようだ。
「修学旅行のときの出来事で、ちょっと相談を持ち掛けられまして、家に来たんですが、折悪しくこんな悪天候に見舞われて。すぐには帰れないし、雨に濡れたからってことで」
最後の一文は嘘だけど、方便てことで。概ね事実を伝えた。
つづく
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