第359話 いくつかの思い違い
「うーん、たった今思い付いたばかりだから、何とも言えないんだ。相手の人の都合もあるしさ」
「それは分かるわよ。けど、だいたいの見通しって分かるんじゃないかしら」
責められながらも、またも私は一瞬、懐かしい気分に浸った。彼女と付き合い始めて何度か口喧嘩をしたが、私が言い負かされるときの天瀬の口調が、小学生の天瀬が今言ったのとそっくりなのである。
「――分かった。そうだな、一応、天瀬さんとの面談が済む頃には結論が出るようにしておく。これでいいかな?」
神様との勝負がいつになるか分からないので、この約束は口から出任せもいいところだ。だけどこうでも言っておかないと、収まりが付くまい。嘘の方便。面談日までに進展がなかったら、そのときはまた別の言い訳を捻り出さねば。
「……分かった。いいわ、それで」
どことなく大人びた受け答えをして、天瀬は承知してくれた。私が名刺を渡そうかやめておこうか迷っていると、察したらしく、
「名刺は今日はいい。だって、受け取ったら辛抱できなくなって、連絡しちゃうかもしれないから」
と元気よく言った。
「天瀬さんはほんと、えらいな。小学生でそういう判断ができるのは、たいしたもんだ」
実際に彼女が私にとって単なる教え子の一人だったとしても、目を掛けると思うし、若干贔屓してしまうかも。たとえば(今どきはまず起きないけれども)集めた給食費がまとめて消えたとして、真っ先に天瀬は犯人ではあり得ないと、無条件に疑いの枠の外へと出してやるぐらいの贔屓だが。
「えらくなんかないってば。近くにあると誘惑に負けそうだからよ」
だからその判断ができるのがえらいんだよと繰り返しそうになったが、まあ拘る必要はあるまい。
「分かった。とにかく、このカレー、ありがとう。お母さんにもありがとうございましたと伝えておいて」
会話が延びて天瀬の帰りが遅くなるのも本意じゃないし、ここいらで切り上げよう。
「うん。あ、そうだ、お母さんから言われていたの思い出した」
「まだ何かあるのか」
「カレーは初めてじゃないから大丈夫と思うけど、口に合わない場合があったらいつでも正直に言ってください、みたいな感じのことを言付かってたんだった。岸先生、平気よね?」
「あ、ああ。問題ないと思う」
本来の岸先生が天瀬家のカレーをごちそうになるのは、今回が初めてではないらしい。冷や汗をかく思いを味わった。迂闊に“カレーなんて大変だったろ”とか“これはうまそうだ”なんて言っていたら、怪しまれたかもしれない。
「んん? 先生の反応、おかしくない?」
どきり。今のほんのちょっとしたつっかえが、疑惑を招いた? 嘘だろ。
「実は先生は辛口が好きとか、隠してるんじゃないかしらって想像してたんだよ。私とお母さんとで」
「いや、辛いのはどちらかというと苦手で」
カレーの辛さの度合いについてだったのか。ほっ。その程度のことならいくらでもごまかしが利く。
「だよね。うちは昔から甘口一辺倒だったから、お父さんまで甘口に慣れて好きになったって」
「――そういえば、お父さんはまだ帰って来られていないのかな?」
話が長くなるのは避けようと思いつつ、ここは聞いておくのが自然な流れというもの。無理にとは言わないが、可能であれば面談の前に一目見ておきたい気もする。十五年後のお
「うん、まだ。前に言った通り、お盆の直前、ていうか面談日の直前だよね」
「そうか。早く会いたいんじゃ?」
「答えるまでもないでしょ、先生。分かってないなぁ」
おや。またちょっとむくれるか怒るかしたようだぞ?
「はは。ごめんごめん。それなりに帰って来られていると聞いているから、会えない寂しさよりも、お母さんと女性同士二人でいる方が気が楽なのかなと、ちらっと思ったんだ。寂しがってくれてるのなら、お父さん喜ぶだろう」
「うーん、それはどっちもある。お母さんと二人きりで楽しいときもあるし、お父さんと二人のときも楽しい。もちろん、三人揃ってのときもね」
「なるほど」
「あっ、でもでも、あの事件の直後は、お父さんがすっごく心配してさ」
事件とは例の渡辺のことだな。
「最初の頃は心配してくれて嬉しかったんだけど、毎日毎日ずっと電話をしてきて、最後はうるさいほどだったの。事件は片付いたっていうのに、また同じ目に遭うんじゃないか、注意を怠るなって」
「それはしょうがない」
娘としてうざったくなるのは分からないでもない。それにもまして、父親が遠い地にいる娘の身を案ずるのは当然すぎるほど当然。
「だからスカウトされかけた話も、あんまり面談では出さないでね、先生」
「は?」
話題が急に変わった気がして、思考が追い付かない。コンマ数秒考えて理解した。
「あっ、修学旅行でスカウトの人から声を掛けられたって、お父さんには言ってないのか」
「はっきりとはね。あんなことあったあとだと言えないよー。お母さんがぼかして伝えたみたいなんだけど、お父さんがどういう反応をしたのかは聞いてないわ」
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます