第268話 季子さんが来るに違いないと思ってた

 当の天瀬は状況を認識したのか、「あ、はい、私、すごいくすぐったがりで、階段でこけそうになったのを先生に、岸先生に助けてもらったんだけどそれがすごくくすぐったかったから」と一気にしゃべった。

「なるほど。問題ないのなら結構。汗を無駄にかいてしまったな」

 案外、簡単に終わった。簡単すぎて不安になったので、降りていく連城先生の背中に声を掛けた。

「あのー」

「まだ何か?」

「連城先生は随分と落ち着いているように見受けられますが」

「そりゃまあ。大したことではないだろうなと思って、それでも念のため来ただけだからね」

「どうして大したことはないと……?」

「ん、まあ、独自の判断になるんだが、本当に危ないときはもっと短くて鋭い悲鳴になもんだ。あるいは短い悲鳴が連続するか。さっきのその子のように、長く引っ張るような悲鳴はほぼ、ふざけているときのことが多いから。経験則ってやつだ」

「なるほど」

「あー、だいぶ昔、男子が女子にふざけて抱きついたことがあったな。そのときは割と長い悲鳴だった。ただ、『きゃー』は最初だけで、あとは『いやー』だった」

 連城先生の野太い声で「きゃー」とか「いやー」とか言われても、情景がなかなか想像できない。

「そういった細かい違いを聞き分けてるんだ。しかし過信はいかんと思ってるがね」

 さすがベテランと感心する私を置いて、「もういいか? やるべきことがたまってて」とこちらの返事を待たずに、連城先生は階段を駆け下りていった。

「岸先生?」

「うん? ああ、大丈夫だったか」

「はい。先生って紳士なんだね」

 おや。何を言い出すんだ? 続きを待ったがそれ以上は何も言わず、天瀬は階段の上り方向へくるっと向き直った。多分、教室へと戻るのだろう。

「また私の中でポイント上がったよ」

「――そりゃ教師冥利に尽きるな」

 実際にはもっと言葉で言い表せないくらい嬉しいのだが、一方で岸先生の外見に好意を持たれるのはあんまり望ましくない。私と岸先生の雰囲気が似ているとは言え、程度問題だ。

 それともこういったことの積み重ねの結果、天瀬は将来、岸先生と雰囲気の似た教師である私に関心を持ったのだろうか。

「お母さんやお父さんにも言っておくから、うまく話してね」

「うん?」

 何のことだ。しばらく考えて思い当たった。

 個人面談があるんだった。

 それから上のフロアを見やったが、すでに天瀬の姿はどこにもなかった。


 終業式前後から夏休みに掛けて、クラスの子達の保護者各人に学校までご足労願って、一対一で話をする。これが個人面談(懇談)。もちろん、中学受験を控えているなど場合によっては三者面談も行うが、基本的には担任と保護者だけだ。クラス担任と児童の家庭とを結ぶ大事な場なので、準備には万全を期したいのだが、例の交流行事もあって、自転車操業的になっている。しかも学校に来てもらうからには保護者の都合をなるべく優先することになり、土壇場になるまで親の都合が分からない・決まらない、なんてケースもたまにあるくらいだ。

 天瀬のところ特に問題はなかったと思う。無論、渡辺の起こした事件や修学旅行先でのスカウト未遂などがあるものの、決着している話だ。今さらくどくどと言及したり注意したりしてもしょうがないので、軽く触れる程度で済ますつもりでいる。

 あとは、父親が単身赴任中であることも念のため触れておくべきなのかな。時折戻って来て会えているようだし、父親との触れ合いが少ないことで悪い影響が出ているようには見えないけれども。

 ……そういえばさっき、天瀬が言った台詞。「お母さんやお父さんにも言っておくから」だったよな。

 お父さんにも言うって、さっきの出来事がわざわざ報告するようなこと?

 またそういえばになるが、天瀬の面談はお盆に入る直前を希望してきて、こちらもオーケーを出した。天瀬の母親――季子さんは比較的自由の利く立場だろうに、特定の日を指定してきたのにはちょっとだけ違和感を持った。わざわざお盆の直前を選ぶというのも珍しい気がする。

「もしかして」

 はたと思い当たり、声に出た。

 私は階段を駆け上った。六年三組の教室を目指す。多分、天瀬はまだそこにいるだろう。

 些細なことではあるけれども、当日になって驚かないよう、確かめておく必要あり。

「天瀬さん、いるかな?」

 戸口に手を掛け、中を覗く。夏場なので、教室のドアは開けっぱなしだった。他のクラスの子もいて、意外と人数が残っている。十数名くらいかな。

 答が返ってくるよりも先に、彼女の姿を見付けた。

「天瀬さん、ちょっとこっち来てくれるか」

 手招きをすると、きょとん顔の天瀬がたたたと駆け寄ってきた。そのまま廊下に出て話す。

「何、先生?」

「個人面談のことなんだけれど、もしかして学校に来られるのはお母さんではなく……」

「そう、お父さんだよ」

 当たり前かつ不思議そうに返事された。

「あれ? 言ってなかった?」

「聞いてなかったよ」

 苦笑交じりのため息が出た。

「お父さんがお盆の頃に帰ってくるから、そのときに面談できたらちょうどいいねっていう話になって。だめ?」


 つづく

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