第181話 それは迷惑とは違う

 犯人だって? つまり渡辺のことか? あいつが捕まったのは確かなのだから、天瀬が目撃したのも他人のそら似で、見間違いなんだろう。まさかもう釈放されて出て来たわけないよな――という言葉を飲み込み、相手の話に意識を一層集中させた。

「見付けた瞬間、身体が金縛りに遭ったみたいに動かなくなった。声は出ないし、呼吸は苦しくなるしで、どうなるの自分?って感じ。その男の人は、横顔がよく似ていただけで、正面を向くと全然違うと分かった。それでもしばらく鼓動が早くなったままで、どうにかなっちゃうかもって心配になったんだから」

 一気に喋った今の天瀬自身、軽く興奮気味であるようだ。

 私は周囲を短い間見渡して、さらに自分自身を落ち着かせてから聞いた。

「どうしてそのとき、先生に言ってくれなかったんだ? は――」

 長谷井の方が頼りになると思ったのか、というフレーズが喉まで来ていた。この言葉は言ってはいけない。いくら今日、長谷井への嫉妬を明確に自覚したからと言って、これは禁句だ。右手を自らの首にあてがい、空唾とともに飲み込んだ。

「それは」

 幸い、天瀬は、私が自分の台詞をぶった切ったことには気付いていない様子だ。ためを作っているところからして、最後の決心をするにはよほどの努力が必要ってことか。

 やがて彼女は面を上げ、私の顔を見つめて、言った。

「……先生をまた心配させて、迷惑を掛けてしまうと思ったから。だから言わないでおこうって考えたの」

「え。それだけか」

「他に何があるって言うのよ、岸先生」

 いや、他に何がって言われても分からんけど。まさしく、そんなことでここまで大ごとに?と感じてしまった。

 応える前に、私は左手で右手を掴んだ。そうしていないと、天瀬の頭を撫でてしまいそうだったから。

「ばかだなあ」

「えーっ、何で? ばかはないでしょ先生。――あ」

 天瀬が詰め寄ってきた、というよりも突っかかってくる勢いだったので、結局彼女の頭に手を置いて、なだめるために撫でた。

「何でそんなこと考えるかなあ。子供が先生に迷惑掛けるなんて、当たり前じゃないか」

「でも、先生はみんな普段言ってるじゃない。人に迷惑掛けるなって」

 突っかかってくるのはやめてくれたけれども、天瀬の話しぶりにはまだとげが残っている。頬もふくれているみたいだ。

「あれは意味がちょっと違う。困らせるようなことをわざとするなっていうつもりなんだが。それに対して今、僕が言っているのはわざとじゃなく、不可抗力――どうしようもないことで結果的に僕ら教師や大人の手を煩わせても、それはしょうがない。むしろ、子供の内の特権だよ」

「……だけど先生には一度、迷惑を掛けてるし」

「回数は関係ない。七並べのパスじゃあるまいし、何度でも使える」

 それから右肩をぐるっと回し、話を続ける。

「もう飽きるほどアピールしてるつもりだが、怪我も回復したぞ。別に怪我をしたいってわけじゃないが」

「――っぷ」

 ふくれっ面が解消された。手の甲を口元に当てつつ、「真面目な話してるときにわらかさないでよ~」と言ってきた。ん? 彼女のしゃべりに関西弁が混じっているのは珍しい。六谷のお笑い好きが影響を及ぼしているのかもしれないな。

「やっと笑ったな」

「笑うわよ、そりゃあ」

「考えることや思いやりは大切だけどさ、つまんないことで長々と気を揉んで、ふさぎ込むのはきっとよくないぞ。僕にしたって、変に気を遣われるくらいなら、天瀬さん達子供らが楽しく笑って過ごしてくれるほうが、どれだけ嬉しいことか。そこのところ、分かってほしいな」

「――分かった。みんなにも言っておいてあげるね」

 目を細め、にんまりする天瀬。ああ、その表情を見られて、こっちのもやもやも吹き飛んだ気がするよ。

 あー、でもやっぱり、これは聞いておかないとな。

「で、どういういきさつで委員長に助けてもらったの?」

「それは、私が顔色を変えたのを気が付いたのが、長谷井君だったってだけで、助けてくれたのは委員長が勝手に、って言ったら失礼だけど、頼んだんじゃないよ」

「そういうことか」

 ほっとした――のも束の間のこと。

「ただ、やっぱり長谷井君がそばにいてくれて、安心できたから。すごく気を遣ってくれて、優しくて」

 なにーっ!


 つづく

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