第165話 違和感払拭

 布を切るのに適したハサミが見当たらないが、しょうがない。古雑誌を台にして、カッターナイフを使った。袖口を丸々切り取ったのは、腕輪みたいになってはめやすいんじゃないかと考えたため。

 さて、実験するに当たって、より厳密に測定するには、この袖口部分だけを身に付けるのが正解だろう。だが、素っ裸に片腕の袖口だけ付けている姿は、かなり危ない外見になることが容易に想像できたので、やめておく。他人に見られるわけではないが、一線は守らねば。

 ということで、着替えの途中だし、下着と靴下だけでやってみた。「素っ裸とあまり変わらないじゃん」とか言わないように。

 洗面台の鏡に向かう。何を思い浮かべよう。もしも首尾よく行ったときの比較のために、岸先生の好きな人ベストスリーにしてみるか。

「……おっ、出て来た」

 正直、うまく行く可能性は低いと思っていたので、データがぽやっと浮かんで来たのには声を出してしまった。ただ、これまでと比べて字の黒色が凄く薄くて、読み取りづらい。一瞬、視力が落ちたのかと錯覚したほどである。とりあえず、正式な格好をした方がくっきり見えるのは間違いないと思われる。

「うん?」

 目を凝らし、苦労して読み取ったが、その内容にまた声を上げた。

 以前と違うのだ。

 前は柏木律子と八島華が大半を占め、おまけみたいに天瀬美穂の名が上がっていたのに対し、今回は天瀬の字が一番大きい。八島華は二位のままだが、前回と比較すれば割合は小さくなっているし、柏木先生に至っては、前回の天瀬よりもさらに小さな扱いになっている。これは一体……。

 この変化が、袖口のみを身に付けたことと関係あるのかないのかを調べるため、急ぎ気味にちゃんとした格好をしてみた。

 同じだった。よりはっきりと濃い文字で示されたデータは、天瀬が最大になっていた。

 データが上書き更新されている?

 真っ先に浮かんだのがそれだ。しかし、誰の観点から情報を得て、データの更新がされたのか。

 岸先生なのか。もしそうだとすると、岸先生の精神、魂はこの身体に残っていて、意識的な活動こそしていないが、私が見たり感じたりしたことなどを基に、データを改めたことになる?

 これが当たりなら、岸先生は柏木先生に見切りを付けて、天瀬美穂を好きになってしまったことになるが……。柏木先生に見切りを付けるのはまあしょうがない、当たり前の流れだとして、天瀬を好きになるというのはやはり腑に落ちない。

 となると、もう一つの考え方が有力と言えるかもしれない。

 すなわち――きっとこれは私によって上書きされたデータなのだ。もちろん、元々は岸先生がそれまでの経験に基づいて積み重ねてきたデータだったのは間違いない。だが、彼の身体に私が入り込んだ瞬間から、データをいじる権限が私に移ったのではないだろうか。

 こちらの考え方を採れば、辻褄の合うことが一つある。以前、岸先生の好きな人ランキングを見たとき、三番目の大きさで天瀨美穂の文字が浮かんだことに、私はどうしても違和感を拭いきれなかった。

 あのときのもやもやデータには、すでに私が入り込んだことによる影響が及んでいたのだとすればどうだろう。私は天瀬美穂のことが最初から大好きで、愛しているのだから、岸先生によってできあがっていたデータにじわじわと影響が出て、好きな人ランキングの三位にいきなり食い込んだ――うむ、こうに違いない。

 心配も浮かび上がってきた。私が現時点で関心を抱きようがない、岸先生の知り合いなどについてのデータが、上書きによって真っ白になりはしないのか? まともなシステムなら、新たな情報が具体的に加えられたとき、初めて上書きする仕組みであるはずだが。

 岸先生の両親について思い浮かべれば、何らかの判断材料を得られるかもしれない。そう考えて、念じようとしたが、じきにこれではだめだと思い直した。人物に関するデータは、対象とするその人の顔を見ないと浮かんでこないようになっているんだった。前にテレビに映る女子柔道選手を見たときにデータを活用できたので、多分、直に会う必要はなく、写真や映像でも行ける。ただし、肝心の岸先生の身内の写真にこれまでお目にかかれていない。

 しょうがないので、この問題の確認は一時保留。もやもやデータ云々とは関係なしに、夏休みに入ると岸先生の実家から何らかの連絡が来る可能性が高いと踏んでいるだけに、どうにかしておきたいな。


 とにもかくにも着替えたのだし、買い物に出ようとしたところへ、来客があった。

「岸さん、岸さん。起きてるかい?」

 脇田さんの声だ。

 私はお土産を思い出し、お菓子の包みを手に取って玄関に立った。

「どうも。おはようご、いや、こんにちはですね」

「おやまあ、疲れた感じが出てるねえ。こんにちは。昨日、帰りが遅かったみたいだけど、あれで予定通りだったのかい?」

「ええ。ほぼスケジュール通り、つつがなく進行しました。あ、留守の間、何もありませんでした?」

 旅行に出る前、「この部屋を訪れる人がいた場合、できる範囲でチェックしておいてほしい」と頼んでいたのだ。特に誰と具体的な想定はしていなかったが、刑事さんが来る可能性があるかもしれないと思ったので、念のためである。

「いや、私の気付いた範囲では、誰も来なかったよ。敢えて言うなら、新聞の勧誘があったけど、それはここの全室回ったし」

 脇田さんの目が、ちら、と私の手元を伺ったようだ。いい頃合いだろう。

「そうでしたか。ありがとうございます。これ、お土産です。お口に合うと嬉しいのですが」

「あら。そんな気を遣わなくてもいいのに」

 言葉とは裏腹に、差し出した箱をすぐさまぎゅっと掴む。まあ、はっきりしていていい。形ばかりのセレモニー的な「いただけませんわ」「そんなこと言わずに」を繰り返すよりはずっといい。

「実家の方へは、もう現地むこうから送ったのかしらね」

 不意にそんな質問をされ、口ごもってしまう。「はい、そうです。お店から送りました」と無難にかわすか、逆に、「いえまだなんです。近い内に時間を作って持って行こうかと」と話を誘導し、岸先生の家族についての情報を脇田のおばさんから引き出そうと試みるか。


 つづく

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