第85話 見違えたことにしておこう

 よかった。晴れ晴れとした気分で病院を出ると、大きく伸びをしたくなった。が、まだ傷に障るかもしれないので自重は続ける。

 診察結果は順調に回復しているとのことで、まずは一安心。治りが早いとまで言われたけれども、これはひょっとしたら私自身と岸先生二人分の治癒力が発揮されているのかもしれない。

 もう夕方になっていた。きこきこと自転車を漕いで家路を急ぐ。急ぐと言っても、怪我とは関係なしに、スピードを出すわけに行かないから、ゆっくりとだ。おかげで暑い、もっと風が欲しい。

 交差点で信号待ちになり、息をつく。夕焼けの眩しさに目を極端に細めつつ、手のひらで顔を仰いだ。と、目の前の道路を左折したセダンが、すぐそこの側道に寄って停まった。

 何だろう、と肩越しにぼんやり見ていると、運転席から男が降りてきた。そしてこっちに近付いてくる。頭は白髪交じりで茶のサングラスを掛けていた。ジャケットの下の胸は筋肉質に見えた。腕っ節、強そう……。

 すわ、部屋に来たもう一人の犯人!? と一瞬身構えたものの、相手の顔に広がった笑みと「岸さんじゃないですか」という声に警戒を緩める。同時に相手のデータを見てみた。誰だこのちょい悪風なおじさんは――弁野保べんのたもつ

 うん? あっ、教頭じゃないか!

 こういう外見の人だったんだ。校長と比較してもキャラクター負けしていないな。

 いや、それよりも最初の反応の鈍さをどう言い繕おう……。教頭の顔を正面から捉えていながら誰だか分からない、みたいな表情をしてしまったぞ。重ね重ね、岸先生の出世に響きそうなことをやらかして、お詫びのしようがない。

 自転車から降りるや、真っ先に深々と頭を下げる。

「見違えました。ご無沙汰しております」

 こんなときの第一声にふさわしいかどうかはともかく、教頭と顔を合わさない日がそこそこ長く続いたのは事実だ。そこに立脚点を求めた。弁野教頭は笑顔のまま、両手を差し伸べてきた。

「大変な目に遭ったと耳に届いていたので、なるべく早い内に顔を見ておきたいと思っていたのだよ。いやあ、よかった。元気そうで何より」

「弁野教頭もだいぶよくなられたようにお見受けします」

「見た目はね。うちの学校では修学旅行に同行する管理職は、校長と教頭が交代で務める習わしで、それに従うなら今年度は私の番。何とか間に合わせたいが。どうなるやら」

 どんな経緯で体調を崩したのか全く聞き及んでいないが、車で外出ができ、こうして職場の同僚と普通に話せるのであれば完治に近いのでは。まあ、よく知らないことに無闇に首を突っ込むのはやめておこう。

「伊知川校長には言ってあるから、いざっていうときは代わっていただくことになるのだけれども、そうなったら五年生の林間学校では、付き添いの役目は何としてでも受けないとね」

「林間学校、去年は自分が付き添いに行けなくて、忸怩たる思いを味わいました」

 岸先生が行けなかったことは何人かの同僚から聞かされている。その体験を今触れないのは不自然だろう。

「修学旅行には絶対について行くつもりでいます。怪我を治して万全の体調で。教頭先生も一緒に行きましょう」

 最初に悪い印象を持たれたかもしれないという思いから、ついつい饒舌になった。何はともあれ会話をつなぐことができて、ちょっと余裕ができた。

 すると。

「――えっ」

 改めてもやもやデータで教頭の名前を見ると、その傍らには例のマークがあったのだ。


 つづく

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