第10話 鉄砂漠⑦

 恐怖に駆られて周囲を見渡す。倒れたまま動かないレウコと、呻きながら身を起こそうとしているガルバと、崩れた鉄屑の丘と、そこから這い出てくる六本足が目に入った。脳ミソまで凍りつく。そいつと目が合ってしまった。もう逃げられない。そいつから目を離せないまま、手だけで周辺を探る。サボットスラグ銃がどこにもない。涙が溢れる。泣きたい。

 めきょり。

 不快に湿った音。

 地獄はどこまでも底なしだった。

 半ば自動的にアルシノエは音のした方を振り返る。そして、見た。『繭』のひとつが、今まさに分化し始めたところを。

 湿った音を響かせて、『繭』を構成する繊維体がひとつずつ剥がれ落ちていく。それは見る見るうちに『繭』全体に広がり、球形が歪になり、そして次の瞬間、『繭』は一気に形を失って何百という繊維体に分裂した。

 アルシノエは凍りついたまま呆然とその様子を見ていた。恐怖を感じるべき状況のはずだったが、そんなものはとっくに通り越してしまっていた。アルシノエにできることはもはや何もないのだ。

 すでに周り中で同じことが起こり始めていた。もともと絶望的だったっ生存確率が、一秒ごとに目を覆うような速度でゼロに近づいていく。立ち上がることもできない。悲鳴さえも上げられない。荒い呼吸を繰り返すばかりで、喉の奥までカラカラだった。最初に分化したものが、すでに撚り集まって一体のファイバになろうとしていた。ガチガチと冗談みたいな勢いで歯が鳴っている。

 そして、正面のファイバが襲いかかってきた。

 聴覚の全てが悲鳴で満ちる。アルシノエは絶叫した。そして、



 突然の閃光と爆音と衝撃が、ほぼ同時にアルシノエの視覚と聴覚と触覚を蹂躙した。



 アルシノエは吹っ飛んだ。すぐそばの、まだ分化していない『繭』にぶつかって、地面に転がる。

 それは、ガルバの持っていた閃光音響手投げ弾の爆発だった。攻撃というよりは目くらましに使われるその手投げ弾は一時的に失明させるほどの光と圧力として感じるほどの音、それに細かな金属片を撒き散らすことによってファイバの電磁波探査さえも撹乱させることができる貴重な対ファイバ用の道具だ。しかし、いくら目くらまし用とはいえ熱と爆風が生じないわけがなく、それを手持ちの三つ全部一気に間近で爆発させるなど正気の沙汰ではなかった。

 閃光音響手投げ弾の爆発は、その場にいたすべての生物の視覚を塗り潰し、聴覚を奪い、共振器官を狂わせた。

 何も見えなかったし聞こえなかった。

 何度瞬きしてもアルシノエの視界には光の残像がべったりと張り付いたままで、一向に取れてくれない。残響が耳の奥から響いてきて、どれだけ頭を振っても出て行かない。周りの様子が何ひとつわからないのが叫びたくなるほど怖かった。アルシノエは泣いていた。ガルバもレウコも、どうなったのかわからない。今にもファイバがアルシノエに喰らい付いてくるかもしれない。死ぬより残酷な状況だった。居ても立ってもいられなかった。アルシノエは恐怖心が許す限りの速度で立ち上がり、両手で周囲を探りながら走り出した。そこら中で何か大きなものが動き回っている気配がする。歯を食いしばっていないと、悲鳴と泣き声が溢れ出しそうになる。手に何か触れるものがある度に熱いものでも触れたように引っ込めて、慌てて方向転換した。躓いて転ぶのが怖くて、歩くのと大して変わらないペースでしか進めない。一度倒れてしまったら、もう二度と立ち上がれなくなると思う。

 時間の感覚なんてとっくになくなっていたので、それからどのくらい経ったのか定かではない。

 ゆっくりと、アルシノエの視力は回復しつつあった。

 いつの間にか、ひとりになっていた。

 あれほどいたはずのファイバが、影も形も気配もない。

 ガルバとレウコの姿も、やはりどこにもなかった。

 瓦礫と鉄屑の丘が両側に迫った細い谷のような場所を、アルシノエはひとりとぼとぼと泣きながら歩いていた。

 もはや泣き声を隠すこともしない。迷子の幼子のようにしゃくり上げながら、足を止めるのを恐れるかのように歩き続けた。

 ここが一体どこなのか、考えるだけ無駄だった。どうやってここまで来たのかなんてさっぱりわからなかったし、この先に何があるのかなんて知ったことではなかった。帰り道やガルバたち、ファイバのことなんて考えたくもなかった。

 疲れていた。

 どこかで休みたかった。

 でも、足はまだ歩け歩けと急かしてくる。

 ――どこまで行けばいいの……。

 なんの理由もなく選んだ右側の丘をよろめきながら登る。登り切ったところで、視界が開けたと思った途端足場が崩れた。

 アルシノエは為す術もなく向こう側に転がり落ちる。

 重力にされるがままの勢いでアルシノエはめちゃくちゃになって斜面を転がり、平らになった瓦礫の上にボロ雑巾のように投げ出された。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る