第9話 鉄砂漠⑥
アルシノエは、状況をまるで見ちゃいなかった。
立ち上がりもしない。まだ撃つことしか考えていなかった。
「バカアルシノエ早く逃げろっ!!」
ガルバの叫びもアルシノエの表面をかすめて、滑り落ちていく。
視界の中で真っ黒い悪夢の塊のようなシルエットがみるみる大きくなっていく。
その、無機質な赤い視覚器官から、一本一本が意思を持つようにうごめく繊維体から、真っ暗な穴を覗かせた捕食器官から、何から何まで事細かにアルシノエには、観えた。
アルシノエの目のよさは、折り紙つきなのだ。
ようやく、狙って撃つことを思い出した。
六本足がアルシノエを捕らえるまで、五秒とかかるまい。
外したら死んじゃうだろうな、とアルシノエは頭の片隅でぼんやりと考えていた。
それ以外の大部分は、この一撃を撃ち込むことに埋め尽くされていた。
六本足の弱点は四つの目玉の真ん中だぞ――いつかそう教えてくれた父の声が耳元に甦る。
「そこ」以外何も見えない。聞こえない感じない。
外しようがなかった。
銃声は余韻だけが耳に届いた。
六本足の頭部が、あっけないほどあっさりとバラバラに解け落ちていくのをアルシノエは見た。「やった!」「スゲエ!」頭上からガルバとレウコの歓喜。アルシノエがそれに応える、暇さえない。アルシノエの目の前を、質量のある黒いものが上から下へ通り過ぎた。それは六本足の前足のひとつで、アルシノエのいるほんの一メートル手前の瓦礫を爆撃のように粉砕していた。
大量の破片と後からやってきた驚きにアルシノエはひっくり返った。なんだかよくわからないうちに後ろ回りでぐるりと一回転して、再び正面を向いて尻餅をついたときには、触れそうなほどすぐそばで六本足が頭部を失いながらもまだのたうち回っていた。アルシノエはそれを呆然と見上げる。
「アルシノエぶじか!?」
上から降ってきたガルバの声にアルシノエは震えるようにガクガクと頷く。
「ってかなんであいつまだ生きてんだ!?」
そんなことアルシノエに聞かれても困る。アルシノエだって訊きたいのだ。銃弾は確かに狙い通り四つの目玉の中心を撃ち抜いたはずなのに。頭部まではバラバラにできたのに。完全には倒せなかった。
「端っこに当たっただけなんだきっと! 中心にちゃんと当てないと……!」
「そんなことよりアルシノエ早く逃げろ! 復活するぞ!」
レウコの推測は正しいのかもしれなかったが、確かに今はガルバの言う通りそれどころではなかった。
悪夢にはまだ続きがあった。
散らばった繊維体が再び六本足に集まって、頭部が再生されつつあった。
いち早く作り直されたひとつの目玉がアルシノエを捉えた。
――まずいまずいにらまれた殺される逃げなきゃ逃げなきゃ!
鉄屑の丘の上でガルバとレウコが早く来いと腕が千切れんばかりに手招きしている。アルシノエは大慌てでサルのように鉄屑の丘を駆け上った。
突然、頭が割れるほどの耳鳴り。
アルシノエたちははっとして振り返る。
六本足が、再生させた触角のような共振器官を震わせて、鳴いている。
人間には聞き取ることのできない、呆れるほどに強力な電磁波の咆哮。
ガルバもレウコもアルシノエも、例外なく顔色を変えた。
「やばい!! 仲間を呼んでる!!」
ガルバの声には欠片の余裕もない。おそらく、一分とかからずに何十体という奴らがここに殺到するだろう。そう考えただけで、あまりの恐怖にアルシノエは吐き気さえ覚えた。
「こっち!! はやくっ!!」
ガルバはすでに鉄屑の丘の上を駆け出している。レウコが急かす。アルシノエは不安定な鉄屑に足を取られそうになりながらも二人を追う。
「うちらの単車は!?」
「あそこだよ!」
ガルバが怒ったように叫んで指差した先は鉄屑の丘の反対側で、二台とも『繭』のそばに引っ繰り返っていた。取りに行きたいのは山々だったがファイバの巣の中になんか死んでも行きたくなかった。停泊地のある『鉄柱』は逃げる方向とは反対側だしこの先がどうなっているかなんてなにひとつわからなかったが、もはやアルシノエたちにできるのは膝が砕けて肺が破れるまでこのまま走り続けることだけだった。停泊地まで辿り着くなんてすでに不可能に近くなっていたし、後ろのファイバから逃げ切ることすら、できるかどうかもわからなかった。先に逃げたアムポとスラのことが一瞬だけアルシノエの脳裏をよぎったが、それもすぐに消えた。
ともすれば崩れそうになる鉄屑の上を三人は死に物狂いで走る。足場がぐらつくたびに背筋が凍る。落ちれば最後だ。視界の端に映るファイバの巣が焦りを煽る。無数の『繭』がいつ分化を始めるかわかったものじゃない。そうなったら本当の地獄だ。先頭のガルバがどんどん先に行く。アルシノエは目の前のレウコの背中を必死に追いかける。後ろから大きな音と振動。さっきの六本足が追いかけてきたことが、振り返ったレウコの表情でわかった。アルシノエには振り返る余裕なんて身体中のどこにもない。身体の芯まで震わせるような激しい足音。聞き間違えようもないほどはっきりと近づいてくる。振り向いたらすぐそこにいるかもしれないという底無しの恐怖。年寄りたちがうるさく言っていた星の神様の話を真剣に聞いていなかったことを、本気で後悔した。神様は助けてくれない。「ガルバひだりっ!!」レウコのほとんど悲鳴。何かと思う間もなく、急に下から衝撃
すべてが引っくり返った。
視界が弾けるように回る。鉄屑が吹っ飛ぶ。唐突の浮遊感に思考が蒸発する。悲鳴さえも出ない。強烈な衝撃に息が詰まる。転がり落ちる。もう何がなんだかわからないうちに、もう一度強烈な衝撃を背中に受けて、アルシノエは止まった。全身がバラバラになるような痛みは後から来た。呻く。もう動けない。動きたくない。折れかけの心で、アルシノエはうっすらと目を開ける。
黒っぽいものが見えた。動かした手が気持ち悪いくらいにべとつく。
!
それではっとなってアルシノエは勢いよく身を起こした。思ったほど痛みは出なかった。
『繭』が、目の前にあった。
そこはすでに、ファイバの巣の中だった。
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