四章 僕は死体になりましょう? 3—3
*
時間をさかのぼること八時間。
猛と薫が帰っていったあと。
書斎から、こっそり出てきた蘭は、ため息をついた。
じつを言えば、すでに原稿は仕上がっている。だから、つい油断してしまった。三日間、一睡もしてなかったから、ついウッカリ、うたたねしてしまった。
(かーくんに、見られちゃった)
よだれ。指しゃぶり。三日も風呂に入ってないし、髪はボサボサ。こんな、だらしなくて、むさくるしい姿を見られるなんて、おしまいだ。きっと薫は、あきれただろう。
この前から、カッコ悪いところばっかり見られてる。泥酔して全裸をさらしたし、薫のピザを盗み食いした。これ以上、嫌われたくなかったのに。
(人に嫌われるのが、こんなに怖いなんて、ひさしぶりだな)
ため息をつきつつ、蘭は、いまわしい事件の現場となったソファーに腰かけた。
すると、テーブルに置き手紙がある。薫の字だ。
『ごめんね。蘭さん。僕ら夕方から、蛭間さんちのパーティーに行くことになっちゃった。なるべく早く帰るからね。鯛めしと刺身が作ってあります。お造りは冷蔵庫』
ヨダレのことには、ふれてない。
(きっと、軽蔑したからだ。それとも、あれか? ごめんって言ってたのに、冷たくあしらったから……)
ああ、もう——と、蘭は髪を両手で、かきまわす。
「なんでヨダレごときで、戦々恐々しなくちゃならないんだ!」
なんだか、バカらしくなった。
蘭は冷蔵庫から刺身をとりだしてくる。新鮮チルド冷蔵で、鮮度はバツグン。ワサビも、ちゃんと本わさび。いつも、ネットで取り寄せている、こだわりの刺身じょうゆ。そのうえ、お腹はペコペコだ。なのに、ひとくち食べても、ふたくち食べても、タイの味が舌に伝わってこない。
変だな。もっと美味しいはずなのに。僕の舌、どうかした?
「マズイ。つまんない」
蘭は刺身を冷蔵庫に戻すと、時計を見た。まだ三時すぎだ。
これから、夕方まで、ぼうっとしていなければならない。一人で、やることもなく。
いや、夕方から出かけるということは、薫や猛が帰ってくるのは、夜になってからだ。
ふいに、まだ東京で一人で暮らしていたころを思いだした。ストーカーをさけて、マンションに、こもっていた日々。実家の父たちにも害がおよぶといけないと思い、きょくりょく会わないようにしていた。
あのころは、毎日が、こうだった。
無菌室のようなマンションのなかで、年中、快適に暮らしながら、でも、何かが、じょじょに心をむしばんでいくのを感じていた。それは、たいくつであったり、意味のないイラだちであったりした。
気をまぎらわすために、ネットで話し相手をさがした。ネットのなかでは、旅行のガイドブックに紀行文を載せるフリーライターをよそおった。何人かと親しくなった。が、ウソがバレそうになって、ふっつりやめた。
だって、しょうがない。
そのころ、蘭は、じっさいには海外どころか、国内だって、京都と東京の往復しかしたことなかった。ネットで情報を集め、ストリートビューを見ながら、それらしいことを書いてただけ。
誰かと話したかったから。
そう。相手は誰でもいい。
だから、一度はやめたが、すぐにまた同じことをした。
ネットの世界では、蘭はどんな人間にでもなれた。架空の自分をこりずに何度も、ネット社会へ送りこんだ。ナース。教師。サラリーマン。学生。家業の米屋を継ぐか、ロックバンドを続けるか、悩む青年を演じたこともある。
でも、けっきょく最後は破綻する。
ネットの友達のいいところは、蘭の顔を知らないこと。つきまとわれる心配が、まったくない。悪いところは、蘭の顔を知らないこと。蘭を特別あつかいしてくれない。
かれらによれば、蘭は人格的に問題があるらしい。
ワガママ。うぜェ。あんたナニサマ? と、ののしられ、ケンカ別れになるのが、つねだった。
そのために、蘭は死ぬほど孤独にさいなまれ、朝まで泣きとおした。
だれも本気で自分をもとめてくれない。
かれらにとって、蘭は、どうでもいい人間なのだ。そう。蘭が、相手なんて誰でもいいのといっしょだ。
わかってるんだから、やめればいいのに。
それでも同じ罠に、はまっていく。
自分を切り売りしているような、イヤな感覚を味わいながら、ぬけだせないでいた。
あのころの、うすら寒いような空虚な日々。
(いやだ。もう、あのころには帰りたくない。かーくん。猛さん。僕をすてないで。一人にしないで)
蘭はソファーの上で、ひざをかかえて泣いた。
泣きつかれて、眠ってしまったのは、やはり寝不足のせいだ。
蘭が目ざめたときには、夜になっていた。時計の針は七時半をさしている。パーティーは、まだ終わらないだろう。夕方からということは、夕食をごちそうになるのだ。少なくとも、あと二時間、東堂兄弟は帰ってこない。
時計の針の音にまじって、自分のお腹がなった。空腹だったことを思いだす。
また、あの冷たい刺身を食べるのか。あれは刺身っていうより、魚の死肉だ。せめて、あたたかいものを食べたい。そう思い、ご飯をよそった。鯛めしは保温しすぎて、かたくなっていた。やっぱり、マズイ。
蘭は茶わんをおいて、ソファーに寝そべった。
このまま、誰かが起こしてくれるまで寝てるのが、一番、気楽かもしれない。そしたら、またヨダレを見られてしまうかもしれないが。
「あッ、そうだ!」
ミャーコだ。ミャーコがいる。
あの長毛種と短毛種のミックスの、ハンパに長い毛の白猫がいるではないか。
東堂兄弟がいなくたって、あのうちへ帰れば、お腹をすかしたミャーコが、蘭をむかえてくれる。
蘭は刺身の皿をかかえて、マンションをとびだした。
部屋着のまま、サンダルばきで。
いつもの慎重さを失っていた。
出前みたいに刺身の大皿をかかえた蘭を見れば、ストーカーなら、カモがネギをしょってきたと思うだろうに。
(ミャーコ。ミャーコ。ミャーコといっしょに、お刺身を食べよう。そしたら、きっと、いつもと同じ味がする)
すれちがう人が、奇異の目で、蘭を見るが、かまわない。
五条通を走りぬけ、小路に入り、東堂家をめざす。
兄弟の祖父が愛したという風流な庭にかこまれた、こぢんまりした家。
でも、蘭は、そこに行きつくことはできなかった。
東堂家の門前で、とつぜん背後から、何者かに、おそわれたから……。
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